【137.ハンガリーの娘】
外は雪。トゥーラ城の3階。国王執務室。
「それで、ジミルヴィチって御仁が、どうかしたんですか?」
リャザンからの書簡を開いたリアが名前を発すると、訝しんだラッセルが話の核心を求めた。
「なんか、今はリャザンに居るみたい…」
「え? リャザンに!?」
年下の叔父の裏切りに怒ったキエフ大公が、彼を遠ざけたコテルニツァ。キエフから120キロ南西の位置に在る。
対してリャザンは正反対。キエフから北東に700キロの位置に在る――
およそ800キロをなにゆえ移動する事態となったのか…
薄い顔立ちの尚書が細い瞳を開くのも、無理からぬことであった。
ローシ川の辺りを支配するベレンディ人に追われたジミルヴィチは、キエフの監視を逃れるべく、ひたすら馬を走らせた。
一方で愚か者に従った下級従士たちは、怒りを乗せた鏃の餌食となって、ロストヴェツ川の緩やかな流れの中に後悔を残しながら沈んでいった――
キエフから西方へ200キロ。約230キロを駆けたジミルヴィチは、ドロゴプージの城市へと先ずは逃げ落ちた。
「あなた! ご無事でしたか!」
右腕は矢傷を負っている。左肩で扉を押し開けた男の元へ、濃茶の長い髪を靡かせた伴侶が駆け寄った。
「誰が、あなたをこんな目に…」
腕の中で夫は崩れた。
嘆きの声を上げながら、整った眉尻を下げた伴侶は衣服を脱がそうと襟裏に手を伸ばした。
「ああ…背中にも…」
衣服の背中には穴が開いていて、鏃の先端が帷子を貫いたことが見て取れた。
「遊牧民の奴らが、裏切りやがったんだ…」
「まあ! 野蛮な異教徒が、あなたに刃を向けるなんて…」
悔しそうな夫の声に、妻の瞳は大きくなった。
「俺としたことが、あいつらを頼ってしまった…」
「そうですよ! 異教徒に頼るくらいなら、アンドレエヴィチさんを頼れば良かったんですよ!」(*1)
語気を強くして、伴侶は夫の従弟の名前を口にした。
「…アンドレエヴィチか。ペレソプニツァに向かおうと思ったんだがな。ゴルィニ川に掛かっている橋は、落とされていたんだよ…」
「まあ! いったい誰が?」
絶句に近い形で、ジミルヴィチの伴侶が叫んだ。
5キロ東には、川幅10メートルほどのゴルィニ川が緑の草原を縫うように流れている。
川を渡った先に、アンドレエヴィチの居城が在るのだ。
「わからん。おかげで、無駄な時間を使った…」
ジミルヴィチは妻の居るドロゴプージを目指したが、先ずは従弟を頼った。
そして彼は絶句した。
足を向けた幾つかの橋。総てが無残に打ち壊されていたのだ――
いったい誰が…
橋脚の切り口は、新しいものだった。
男の思考はそこから停止して、正解に辿り着くことを放棄した――
橋を破壊したのは、罪人の来訪を予見した、正確にはキエフに仕える奥目の策士ミハルコからの助言を授かった、愚か者が頼ろうとしたアンドレエヴィチその人であった――
<裏切り者の逃亡先は、ドロゴプージしかありません。
従士の少ない彼は、必ずやあなたに助けを求めるでしょう>
<偉大なるムスチスラフ様は、ご存じの通り寛大なる処置をあなたにも施しました。
あなたと親しいダヴィド様が、洞窟修道院にて謀反人を咎めたことは聞き及んでおりましょう。
キエフ並びにルーシの諸公国は、あなたの行いを見届けております>
「おい! ゴルィニ川に架かっている橋を、全部壊せ!」
書簡を読んだアンドレエヴィチの顔色はたちまちに蒼白となって、自らも馬を駆って全ての従士を引き連れて西へと向かった――
名門リューリク朝の流れを汲む者でありながら、若くして父を亡くした彼には統治者としての権利は与えられず、キエフ大公への道が閉ざされていた。
子供のころから知っている、甥であるムスチスラフがキエフに座る――
ジミルヴィチの誘いによって小さな悪魔を増大させた彼であったが、さすがに今となってはすっかり心を入れ替えて、拒むことを選んだ。
ミハルコの働きによって、ジミルヴィチは援軍の要請すら叶わぬ状態だったのだ――
「ドロゴプージに居ても、どうにもならない。私と一緒では、お前たちの命も危ない」
伴侶に寄り添う4人の息子と共に暖炉の前で熟慮を重ねたジミルヴィチは、追手を恐れ、北に向かってからゴルィニ川を渡ると、馬の足を東に向けて、ドニエプル川の浅瀬を渡って先ずはチェルニゴフ公領を目指す事にした。
チェルニゴフ。
ドニエプル川に注ぐ支流デスナ川沿いに設けられた城市。キエフからは北北東に約100キロの位置に在る。
罪人がチェルニゴフを頼った理由は、チェルニゴフ公に就いていたスヴャトスラフが、前年に領土の拡大を叫んで争いを起こしており、同じ野心家の臭いを嗅ぎつけた事。
更にはチェルニゴフから150キロ東に在るグルーホフには、20歳ほど年の離れた腹違いの姉が余生を送っていたからである――
「ここはキエフに近い。謀反を働いた者を、匿う訳にはいかない」
次のキエフ大公。それでも謀反人を匿ってはキエフの敵になる。
ジミルヴィチの甘い思考は衛兵の言葉によって早々に砕かれて、彼は目的地の城市に足を踏み入れる事すら許されず、冷たい秋風を遮ってくれる都市城壁の東側で、息子たちと伴侶と共に身体を寄せあって一晩を過ごした――
「……」
しかしながら、このまま誰かが死んでしまっては夢見が悪い。
謀反人の処遇は神の裁きだとしても、リューリク朝の血筋を引く息子たちは勿論、ハンガリーから嫁いできた奥方には罪がない。
チェルニゴフを治めるスヴァトスラフは、グルーホフで日々を過ごすアガフィヤの了承を得た上で、都市城壁の外側で途方に暮れる者たちに救いの手を差し伸べた――
「アガフィヤ様。私達に慈悲を与えて頂き、感謝致します」
逃避行を続ける一家を出迎えたのは、グルーホフで余生を送るジミルヴィチの姉であった。
ジミルヴィチの伴侶が進み出てアガフィヤの足元に跪くと、神に縋るように両手を組んで額へ掲げ、義姉に感謝の声を送った――
アガフィヤは現キエフ大公ムスチスラフの叔母である。
1110年頃に生まれ、10歳にも満たない年齢でフセヴォロドと生涯を誓い合い、やがてキエフ大公妃となった。
対立関係にあった親同士の間で交わされた政略結婚であったが、夫に尽くし、5人の子供をもうけた。
およそ16歳で産んだ長男が、チェルニゴフの領地を統べるスヴャトスラフである――
「何をしているのです。顔を上げなさい。あなたは私の弟をいつでも支えて下さった。私の心だって苦しかったのです。感謝をするのは、むしろ私の方ですよ!」
膝を屈したアガフィヤは、義妹に対して労いの言葉を送ると、長旅に汚れた彼女の細い左の手首を右手で掴み、身体を起こしたかと思うと、そのままグルーホフの城市を進み、真っ先に浴室へと案内をした。
「あ、ありがとうございます…」
温かな義姉の配慮。浴室の前でジミルヴィチの伴侶は膝を崩して泣き出した。
自慢の艶やかな髪は埃にまみれ、絹で拵えた上質な衣服は草汁と砂の汚れが付着して、靴にも破れが覗いている。
降り掛かる現在の境遇は、神様が与えた試練に違いない。
元キエフ大公妃の寛大な心に感謝を捧げながら、彼女は両手で顔を覆って嘆きの嗚咽を上げるのだった――
彼女がハンガリーから嫁いだのは、18歳の時。
相手も同い年で、ルーシの名門リューリク朝の血が流れ、将来はキエフの椅子に座るという触れ込みの縁談であった。
遠くはローマ地方。西側との交易を望むルーシの思惑に乗った形で、ハンガリーの名門貴族であった彼女の父親は、他の妃候補を押しのけてまで、自慢の娘をジミルヴィチの元へと送り込んだ――(*2)
「こんな田舎の城市だとは、思わなかったか?」
未来への契りを交わしてから数日後。
城の出窓から、物憂げな瞳となってドロゴプージの城市を眺める妻の背中に向かって、白い絹のカバーが掛けられたソファに腰を下ろすジミルヴィチが申し訳なさそうに呟いた。
ゴルィニ川の澄んだ水面は陽光を弾き返し、草木は鮮やかな緑を茂らせて、視線を上げればどこまでも続く青空が広がっている――
「いえ…」
口では否定の言葉を吐きながら、心中は穏やかなものではなかった。
夫は四男で、結婚当時のキエフ大公には次男が就いており、次の継承権は三男が持っていた。
夫がキエフの椅子に座るのは、いつのことだろうか――
大后妃となる姿を夢見て嫁いだハンガリーの娘は、濃茶の整った眉尻を下げながら、退屈な生活を強いられそうだと小さな嘆息を吐き出した――
「キエフには、行った事があるのかい?」
夫となった田舎男が立ち上がり、華奢な背中の方へと近付いた。
「いえ…」
短く答えると、心地良い夫の声が続いた。
「僕にとってのキエフは、ルーシの中心に相応しい素晴らしい街なんだ。それでも中欧の強国と呼ばれるハンガリーと比べては、霞んでしまうけどね」
「……」
「心配しないで」
「え?」
言いながら、彼女の左側で肩を並べた夫は右手を揺らすと、伴侶となった女性のほっそりとした左の手指を優しく包み掴んだ――
「君は本当に美しい。僕が大公となったとき、キエフの玉座は君の祖国以上の輝きを放つ事になるよ。君という存在によってね」
「……」
濁りの無い深藍の瞳を彼女に向けて、ジミルヴィチは掴んだ細い手指を胸の高さにまで運ぶと、優しく左手を加えた。
「あ、ありがとうございます…」
頬を赤らめて、それでも濃茶の瞳は落とさずに、ハンガリーから嫁いだ娘は伴侶の言葉を受け止めた――
「でも、いつになるか分かりません」
彼女は夫の胸元に視線を落とすと、思わず本音を溢した。
「確かにそうかもしれない。でもね、夏の太陽のような強い輝きも好きだけど、僕は優しい月の光も好きなんだ。君はきっと、どちらにもなれるよ」
「……」
抱擁する夫の声が注がれて、妻の不安は霧散した――
彼女の祖国ハンガリーに比べると、キエフ大公を巡る争いは粗暴で醜いものだった。
ハンガリーでは聖イシュトヴァーンの王冠を頭上に戴いた者が国王であり、キエフ大公位のように何度も紛争によって公位が入れ替わり、再び返り咲くといった事は無かったからである。
故に内紛によって国力をいたずらに削る事はあまり無く、中欧の強国と呼ばれるまでに発展をした。
大都市の真似事をする田舎者たちが、公位を巡って醜悪な争いを続けている――
貴族社会で家族からの寵愛を受け、何不自由なく過ごしてきた彼女にとっては愚かな行いであり、蔑みの対象でもあった。
(それでも…)
彼女の心に希望が灯る。
権力争いによって公位の移動が認められるなら、キエフ大后妃と呼ばれる可能性は上がるのだ――
嫁いでから4年後、時のキエフ大公イジャスラフが逝去した。
時期キエフ大公の継承権がいよいよ夫に巡ってくる。
新たな大公ロスチスラフは20歳以上も年上で、早々に没したならば、若くして大公妃になれるかもしれない――
期待の炎が大きくなった頃、一つの噂話を耳にした。
次なるキエフの継承者は、夫の甥である、ムスチスラフだと言うのである――
「そうなの?」
「いやいや、そんな筈は無いだろう。兄貴の次は弟。当然じゃないか」
「……」
夫はうそぶいたが、嫌な予感が灯った。
確信をしたのは、イジャスラフの逝去を発端にした大公を巡る争いが起こった時。
夫も参じたが、連合軍の指揮を執ったのはムスチスラフであったのだ。
更には新大公の就任に際しては、彼が快く公位を譲ったというのである――
「……」
退屈だからと始めた庭いじりは達人の域に達して、ゴルィニ川では魚釣りを愉しんだ。
馬は愛らしく、遠乗りにも出掛けて、地元の遊牧民とは馴染みになった。
毎年のサイクルは変わらなかったが、子供が増える度に笑顔の数も増えていき、女性としての充実を胸に灯した――
ハンガリーの箱入り娘のままでは、断じて体験できなかった事である。
それでも毎日を大自然の中で過ごしては、都会の喧噪が懐かしく、寂しさが募る事だってあった――
「私はいつか、大公妃と呼ばれるのかしら…」
地平線に接した大きな夕陽の輝きを、ドロゴプージの小さな出窓に立って眺めながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……」
輝くオレンジ色を背景に、美しい背中を晒した愛する伴侶の願いを、夫はただ、叶えたいと思った――
*1 アンドレエヴィチ(ウラジーミル・アンドレエヴィチ)
ウラジーミルⅡ世モノマフの孫。父を若いうちに亡くしており、クニャージと呼ばれる統治者の権利が彼に付与されることはなかった。
*2 1150年の結婚当時、兄のイジャスラフはユーリー・ドルゴルーキーとキエフの座を争っており、劣勢となっていた。
ハンガリー王ゲーザⅡ世の伴侶はイジャスラフの妹で、支援を申し入れたジミルヴィチは、現地で妻を娶ることになる。
イジャスラフは弟の姻戚関係を利用して、更なる関係強化を図った――
お読みいただきありがとうございました。
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