【134.ジミルヴィチ】
1168年が、終わろうとしていた。(*1)
せめて春を迎えるまでは安穏に過ごしたいと願っていたトゥーラの王妃をあざ笑うかのように、同盟国、事実上の宗主国であるリャザンから特使がやってきた。
「ワルフ殿から、書簡が届きました」
「え?」
国王執務室の扉が開いて薄い顔の尚書が一つを知らせると、膝を屈して暖炉のほうに小さな手のひらを開いて寝起きの冷えた身体を温めていた王妃が、赤みの入った髪の下から大きな琥珀色の瞳を覗かせた。
「定期文じゃなくて?」
「いえ、グレプ国王のサインも入っております」
「え…」
良い知らせの筈がない。
直感で察したリアの表情は固まって、渋々ながら左手を差し出すと、書簡の入った木筒をラッセルから受け取った。
「……」
文面は見慣れたワルフの字体であった。
同盟国を支える者同士、或いは幼馴染として月に2回ほど文書を交わしている。
小さな頃にカティニで襲撃を受けた彼女が学んだのは、危機管理と情報の重要度。
他国の動向を知る為に、彼女はヴァティチの地。カルーガに住んでいる養父のルシードとも頻繁に文書のやり取りをしていた。
更には先日、スモレンスク公国の将官カプスからも手紙が届いた。
カルーガで行われた停戦協定の別れ際。彼女が握手を求めた右手と同時に左手から渡した紙片は、情報交換を依頼する文書だったのだ。
ドニエプル川を挟んで隣接するスモレンスク公国は、現在のロシアやウクライナ、ベラルーシといった国々の礎を築いたリューリク朝の流れを汲む名門で、先代のロスチスラフは勿論のこと、歴代の多くの公が後にルーシを統べるキエフ大公位の座に就いていた。
西暦1132年。ロスチスラフの父であるキエフ大公ムスチスラフの崩御を切っ掛けに、各地で争いが起こった。
当然求心力の低下を招いたが、弱体化したとはいえ、キエフの地がルーシの諸公国を統べる事に変わりはない。
彼女はトゥーラが自治権を持った以上、より多くの地域の動向を知っておくべきだと考えたのだ――
「何と?」
薄い顔の尚書が尋ねると、揺れ動く暖炉の明かりを前にして、無言のままで固まっていた王妃が口を開いた。
「なんか、呼び出された…」
「は?」
短い返答に、ラッセルの細い瞳が怪訝となった。
「何か、あったのですか?」
西側への対処が終わったと思ったら、今度は東側。
戦乱の世に在って、当然頭には戦いの場景が浮かんだ――
「ジミルヴィチって人、知ってる?」(*2)
「え?」
リアの視線が書簡からラッセルに移動して、薄い顔の尚書は再び声を発した。
「カルーガからの報告に名前があった筈です。キエフ大公の座を狙って軍を起こすも、失敗したとか…」
探った記憶から、ラッセルは確認するように口を開いた。
1167年3月14日。約8年に渡ってキエフ大公の座に就いていたロスチスラフが逝去すると、リューリク朝の流れを汲む者たちによって話し合いが行われ、キエフから西へ約200キロ離れたヴォルニ=ウラジミルの公座に就いていたムスチスラフが新たなキエフ大公として招聘された。
彼が招聘された理由は、一族の年長者である事。(*3)
更には1158年のキエフ大公を巡るイジャスラフとの争いに於いて一番の功績を成したにも関わらず、当時スモレンスクを治めていた兄のキエフ大公就任を、快く祝った人格を覚えていたキエフの人々が、ぜひ次の大公にと熱望したからである――
「望まれてもいないのに、ジミルヴィチって人は大公に就いて、どうやってキエフを治めるつもりだったのかな?」
「さあ…」
治世に対する素朴な疑問をリアが吐き出すと、ラッセルは呆れた相槌を返した――
キエフへと軍を進めたジミルヴィチであったが、市民に「お前は呼んでいない」 と追い返されて、キエフから北へ15キロ離れたヴィシェゴロドの城市に陣を構えた。
3月に一族が集まって話し合ったにも拘らず、結論を反故にした男の行動に怒りを覚えたムスチスラフは、軍を率いて先ずは大歓迎の中キエフに入城すると、その日のうちに軍を北へと派遣して、湖のように広大なドニエプル川を東に望むヴィシェゴロドの城市を西側から包囲した。
降伏を促すムスチスラフに対して、せめて俺の領地を広げてくれとジミルヴィチは泣きついた。
しかしながら、通る筈がない。
そして1167年5月13日。ついに戦闘が始まった――
敵に包囲されているにも拘わらず、ジミルヴィチは城門を開いて部下に突撃を命じたりして、いたずらに兵を削った。
そして自身の疲弊を悟ると、降伏の旗をあっさりと掲げたのだ――
「ジミルヴィチ。お前が描く治世というものはあるのだろう。しかしながら、キエフの市民は私を求めているのだ。彼らの声に応じなければ、天に召された先代に顔向けができない。どうか私の立場を分かってくれ」
およそ10年前、戦場を駆け巡った肉体は維持されている。
逆三角形の顎髭を拵えたムスチスラフは、一族を集めて協議の場を設けると、多数の部下を失ったにも拘らず、齢36を数えるジミルヴィチを優しく諭した――
更には天に召された先代の治世を継承すると十字架に誓って、反旗を翻したジミルヴィチの領土でさえも、削る事をしなかった。
「でも、ジミルヴィチって人は、直ぐに裏切ったんでしょ?」
「みたいですね…」
呆れたようにリアが確認を起こすと、ため息交じりの小さな声が戻った。
「暗殺計画が、ダヴィド様の耳に入ったとか…」
「少なくとも、その人は改心したって事よね?」
ラッセルの説明に、暖炉の前で膝を屈していた王妃は立ち上がると、木組みの小さなテーブルに備えられたお気に入りの椅子へと腰を下ろした。
ダヴィドは前キエフ大公の逝去に際し、領土を分割しようという叔父の悪意に一度は乗ってしまったが、5月13日のヴィシェゴロドの城市を巡る戦いを経て、現キエフ大公を支えると誓った。
神である十字架への誓いを、彼は態度で顕したのだ――
「ジミルヴィチ様が、面会を求めております」
キエフ大公となったムスチスラフの元に、一つの報告が伝わった。
舌の根も乾かぬうちに暗殺を企てた男がのこのことやってきて、キエフ大公は辟易としながらも、彼の来訪を受け入れた。
面会の場所は、キエフの城市内。ひんやりとした空気を纏う洞窟修道院。
アーチ型にくり抜かれた暗々とした通路の先の、小さな懺悔室である。
「何の用であるか?」
薄暗い室内で身の置き所が無さそうなジミルヴィチの姿を認めると、キエフ大公は彼とは違う部屋、聖人の描かれたイコン画とキリスト像を背景に着座して、遠くから刺すような声を発した。(*4)
「善良な私が、謀反を企んでいるというデマが私の耳に入りまして、誤解だとあなたにお伝えしたくて、足を運んだ次第です」
両の手指を胸の前で組み合わせ、ジミルヴィチは茶褐色の混じる金髪をふるふると揺らしながら、透き通った声で訴えた。
「お前の言い分を容れるならば、ダヴィドが嘘をついているという事になるが?」
「ですから、誤解なのです!」
逆三角形の顎髭が疑問を伝えると、蝋燭が1本だけ灯った薄暗い石壁の空間にジミルヴィチの反訴の声が響いた。
「不毛な言い争いを、私は望まない。ダヴィドからは証人を派遣しても良いという申し出が来ている。そなたの言葉を信じろというのなら、この場所を貸してやる。誤解とやらを、解いてみせるがよい」
弁解など聴くだけ無駄であるとばかりに吐き捨てると、キエフ大公は椅子から立ち上がって背中を向けた――
それから三日を数えると、双方の証人がキエフにやってきて、論争を重ねた。
しかしながら、両者とも折れるつもりは毛頭ない。
言った言わない。確かに聞いた。聞こえる筈がない――
従士の姿も消え去った薄暗い洞窟修道院。
静かに眠る磔にされたキリスト像を前にして、神に誓うという戯言に近い証言が何度も飛び出すも、議論は平行線を辿った――
「まだ、やっておるのか?」
「そのようです…」
すっかりと日も暮れた頃、執務を終えたキエフ大公が洞窟修道院の様子を窺うと、従士から呆れたような声がやってきた。
キエフ大公にとって、ジミルヴィチは叔父である。
しかしながら祖父の四男である彼よりも、ムスチスラフは年長者であった。
ジミルヴィチの兄弟たちは、若くして亡くなった兄を除いて、次男と三男がキエフ大公の座に就いている。
直近の兄である、前キエフ大公ロスチスラフの後釜は自分だと主張する彼の言い分が、理解できないわけではない。
「……」
余興のつもりで入城を許したが、弁解の相手を任された従弟は気の毒な目に遭っている。
十字架への誓いを守って叔父の企てを防いだにも関わらず…
「仕方が無いな…」
整った逆三角形の顎髭を拵えたキエフ大公は、やれやれと遠い目をして腰を上げると、やがて星々の輝きを受け止める黄金の装飾が施された洞窟修道院へと続く緩やかな下り坂を、数人の従士と共に歩むのだった――
「……」
ムスチスラフの愁いを帯びた瞳が洞窟修道院の入り口を捉えると、彼の来訪が伝わって議論を止めた一同が、聖堂の入り口に並んで恭しく出迎えていた――
「裁きを言い渡す。中に入れ」
煩わしいといった趣きで、キエフ大公は一同を聖堂の中へと促すと、続いて槍を手にした従者を入れてから、自身が中へと足を踏み入れた。
「ジミルヴィチよ。我々がキエフに居るのは、偉大なる先祖の治世があったからなのだ」
薄暗い一室で、一同より一歩前に進み出た被告が裁きを受けるために跪くと、キエフ大公は蔑んだ瞳で口を開いた。
「お前はそもそも、先代が天に召された後に開かれた我ら一族の会合で、キエフの地を統べるのは私であると十字架に誓ったではないか! あの時のお前は、悪魔にでも魅入られていたのか?」
「大公。断じてそのような事はございません!」
過去の行いが一同にも伝わると、ジミルヴィチの頭は一段と下がった。
「それならば良い。私は叔父であるそなたは勿論、従弟であるダヴィドとの関係も崩したくはないのだ。しかしながら、お前は先祖が築いたキエフ公国に軍を差し向けた。此度の嫌疑は不問とするが、噂という黒い煙を空に上げ、私の手を煩わせた原因はお前にある。お前の素行が普段から正しければ、我々がこうして聖堂に並ぶことも無かったのだ」
「……」
新たなるキエフ大公の弁舌が、一同の鼓膜を震わせた――
「さて、ジミルヴィチよ。我らの祖先の眠るキエフの大地で、もう一度十字架に誓うがよい。悪しきことを起こさぬと。私に反旗を翻すことは有り得ぬと。今ここにいる、皆が証人である!」
心から願うようにして、キエフ大公はたった一つの要望を送った――
「…分かりました。あなたの疑いが晴れるのなら、私はもう一度十字架に、神に誓いを立てましょう! いや、誓ってみせましょう! 悪しき者など、私の心には存在しないのです!」
ジミルヴィチは下げていた頭をスッと上げると、キエフ大公に誓いを立ててから、両手に握った十字架を掲げて接吻を行った――
「それで、どこへ行ったんだっけ?」
木枠のテーブルに両肘を置いたトゥーラの王妃が、組み合った手指に小さな顎を乗せると、確認するように尋ねた。
「確か、コテルニツァに飛ばされた筈です」
「…それ、どこ?」
「ローシ川の辺りですね。キエフから、100キロ以上南西ですかね…」
「それはもう、凄いよね…」
呆れたような、それでいて感服するような声を吐き出した。
6月にキエフを追い出された男は、短い夏の終わり頃、キエフ大公に対して反旗を翻した――
*1 1168年
参考資料の一部は3月始まりの古代ローマ暦(農耕暦)となっています。
当小説では西暦表記で統一しておりますが、考察、資料不足等により、一部差異が生じている可能性があります。ご了承ください。
因みに、うるう年が2月で調整されるのは、農耕暦の名残と言われています。
*2 ジミルヴィチ
ウラジーミル・ムスチスラヴィチ の略名。
冒頭の略系図でも分かると思いますが、姓名の混同が起こり易いので、当小説では一部の人名を略表記致します。
*3 一族の年長者
当時のルーシ諸公国では、血縁の年長者に従うという支配体制が整えられていた。
但し、必ずしも守られていた訳では無い。というか、守らない(苦笑
*4 イコン
キリスト教の聖人や聖書の出来事など、崇拝の対象。(イコン画=イコンの描かれた絵画)
*次話の頭には、当時の略地図を入れる予定です。
お読みいただきありがとうございました。
感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o




