【129.理念の共有】
「リア様の印象は、いかがでしたか?」
スモレンスクとの停戦協定を結んで、トゥーラに戻った翌日。
冬の居場所を暖炉の前と決め込んだ小さな王妃は右前方、尚書用の机に座ったラッセルの背中から声を掛けられた。
「正直、何も無いかな…結局は、向こう次第だもの」
椅子の背もたれに小さな背中を預けると、か細い声を送った。
「そうですね…」
「それでも直接会った方が、判断材料は増えるからね。フリュヒトさんは重臣でしょう? 遠くまで足を運んでくれた事実だけでも、トゥーラの存在が広まると思う」
直接対面してこそ得られる情報がある。
都市城壁の前で怒りをぶつけたブランヒルの言動からは穏健なものが感じられ、カプスからは思いも寄らない突然の好意が告げられた。
細い糸を一本一本編んでいったなら、いつかは強固なものとなるだろうか――
至るまでの道筋は全く見えないが、それでも小さな王妃は淡い期待を灯すのだった――
「あなたは、どうなのよ」
白い丸椀をことりと置いて、リアが訊く。
「正直に言いますと、本心は見えなかったな…と」
「……」
「リア様が、最初から対応した方が、良かったのでは?」
自身の力不足を認める形で、背中を向けたままのラッセルが一つの意見を口にした。
「それはちょっと…難しいかな」
会談の席だけを捉えた尚書の発言に、王妃は否定の見解を表した。
「対談の相手が同じ目線ではないし、同じ方向を向いているわけでもない。そんな相手と話をしたって、表面を繕うだけで、建設的なものにはならないわ」
「……」
「結局トップの意識を変えないことには、変わらないもの」
「そうですね…」
根本から変える必要がある――
小さな王妃の見解は尤もなものであったが、手段がない。
ラッセルはため息交じりに呟くと、リアの方へと身体を向けてから、一つを尋ねた。
「どうやったら、変わるのでしょう?」
「……」
総てを集約した問い掛けに、トゥーラの頭脳も固まった。
それでも暫くの時間を置いたあと、彼女なりの答えを吐き出した――
「先ずはお互い、分かり合えるなんて思っていないってことを、分かってる事が前提なのかもね…」
「……すみません。どういうことでしょうか?」
煙に巻くような発言に、ラッセルが困惑を表した。
二国の間にも、リアが語る空気は既に存在していると思われる――
「とりあえず、期待を抱いてはダメってこと。利害や力関係は置いといて、理念だけを認める関係にならないと」
「……」
「希望を抱けば傲慢になって勇み足を生み出すし、利害があったら足元を掬われたり抜きんでようとする。そんな意識を無くした上で、開き扉の片側ずつを、同じように開けようとすることが重要だと思うの」
「そのお話は、今のスモレンスクとの間では、成り立つのでしょうか?」
白い丸椀を両手で支えたままのリアの弁舌に、ラッセルが素朴な疑問を挟んだ。
「力の差が歴然としているし、難しいでしょうね。そもそも覇権を掲げる国との交渉は、無理だもの。あくまで屈服させようという相手とは、分かり合える筈がない」
「……」
「でもね、いつか理念だけでも共有できたなら、そこから探るの。時間と根気が必要なのよ。それまでは、次の代へと移ってでも、機会を待つしかない」
「耐えるだけ……ですか?」
椅子に座ったままのラッセルが、肩を落としてやるせない表情を覗かせた。
「それでもね、世代は絶対に変わっていくものだから…同じ理念を掬ってくれる人が出てくるまで、伝える事だけは止めないようにしないとね」
「それは…リア様のように?」
「……」
ラッセルの問い掛けに、リアの瞳は大きくなった。
自覚があったわけではない――
それでも自身の発言は、現状を端的に表しているように思えたのだ――
リアが写本を手にして戻って来ると、ラッセルが食後の紅茶を暖炉前に置かれた小さなテーブルへと届けた。
リアが手にしているものは、羊皮紙に綴られたヴィリーナと呼ばれる叙事詩。ルーシの各都市を外敵から守った英雄譚を記したものである。
こうした現代にまで伝わるヴィリーナや年代記の数々から、キエフ大公ムスチスラフが死去する1132年までのルーシ諸公国は、キエフを中心とした政治体制が確立されていたと推測されている――
「一つ。訊いてもよろしいですか?」
「なに?」
「リア様が、指揮を執る姿を見せないのは、何故ですか?」
書物に目を落としている王妃の手元が白い丸椀に触れると、ラッセルが改まって尋ねた。
「何故って…あんたばか?」
「……」
書物は開いたままで、前屈みだった身体を起こした王妃は蔑むような上目遣いで口を開いた。
「ぽっと出の女が軍の指揮を執っているなんて、笑いものになるだけでしょ。グレン将軍の功績も、地に墜ちるわよ。女の指揮権に入ってる将軍なんて、誰が恐れるの?」
「それでも、オリガ大公妃の例だってありますので…」
「あのね、あの方は元から王妃で、夫が殺されて、子供が幼かったから表に立ったの。義憤に駆られた背景があったから配下も従った。私とは違うの!」
「……」
いら立つ感情は、伴侶の背中に隠れる煩わしさから来るのだろうか…
見方を変えれば、諸所の働きに満足していない。或いは承認欲求への不満という事になる――
およそ200年前にキエフ公国を治めた聖人オリガの物語を、何度も見聞きしたに違いない。
容姿端麗な町娘。或いは貴族の令嬢であったとも伝えられるオリガ妃の肖像画は、大層に美しいものである。
しかしながら、実際の容姿とは比較できないが、目の前に座る赤みの入った髪を有した小さな王妃が見劣りするとは思えない。惚れた贔屓目を加えても――
「オリガ妃は、勿論尊敬しているわ…」
薄い顔の尚書が見下ろす白い頬から、静かな声が放たれた。
夫を殺害された復讐劇を完遂した後のオリガ妃は、律令を整えて租税を決すると、租税を集める官吏の為の宿泊所を各地に設置して、統治者の存在を市井に周知させたのだ――
示唆に富んだ戦術だけでなく、こうした治世のためのアイデアも、彼女の知性の高さを物語るものである――
「でもね、私は彼女になりたい訳じゃないからね。私は、私が描く私でありたいの」
「……」
本心なのだろう。
女であるがゆえの歯がゆい思いは、彼女が一番感じている――
のしかかる制約の中でも発揮しようとする才覚を、滞らせてはならない。
ラッセルは、自身の立ち位置というものを、改めて認識するのだった――
「彼女みたいに、自ら戦場に出ることは無理だと思うし、したくもない…」
小さな王妃は、続けて心情を口にする。
「それでもね、実際の戦いを眺めて倒れちゃったけど、私は地面に立って声を上げたいの。城から指揮を執るだけなんて、絶対に嫌」
「……」
できる範囲で…
そんな彼女の胸中が窺える。
停戦協定や捕虜との別れに足を運んだのは、区切りを見届ける為であろう。
どちらも味方のみが帯刀していた場面であったが、自らが前面に立つ姿勢を表した――
だからこそ、彼女の声に従っている――
「微力ながら、お力添え致します」
一歩を引いたラッセルは、頭を下げて右手を胸にして、改めて小さな王妃に誓いを立てた――
トゥーラに初雪が舞い降りた翌朝のこと。
灰白色の城の地下に設けられた、牢屋へと続く扉がゆっくりと開かれた。
「処遇が決まった」
「……わかった」
松明を右手に持って、グレンが二重の格子の向こう側へ重たい声を発すると、牢屋の冷たい土床に、配布された麻布を無造作に折り畳んで胡坐をかいていたスモレンスクの総大将が覇気のない声を返した。
「残念だが、殺すことにした」
「……」
格子の一つを外しながら、四角い顔のグレンが非情な決定を伝えた。
「俺の最後の地は、どこになるんだ?」
覚悟は出来ている。
口元まで伸びた赤髪を土埃で染めた男は、グレンが一人でやってきた事に違和感を覚えた。
「後始末もある。面倒にならんよう、城の外へ行く」
「…わかった」
ギュースの脳裏には、勝敗が決した日。
騎馬隊を鼓舞して先頭で都市城門を目指したバイリーの雄姿が浮かんだ――
ライバルと同じ場所で眠る事ができるなら、武人の最期としては上々なものであろう。
冷え固められた空気の中でのっそりと身体を起こすと、ギュースはおよそ三か月ぶりに牢屋の外へと、いくらか鈍くなった身体を晒すのだった――
「何処へ行くんだ?」
分厚い都市城門を抜けてから、西へと向きを変えた背中にギュースが訝しそうに尋ねた。
「この辺りは、畑になる予定でな。すまんが、少し歩く」
「……」
右手には二本の槍。加えて鍬の入った麻袋を左肩から掛けている。
サウッサクッと新雪に足跡を付けながら歩む広い背中を眺めると、業火に消えたライバルが思い出された。
城壁の外側は、一面の雪景色。
早朝まで降っていたと思われる粉雪が、絵筆を走らせたように大地を薄く覆っていた。
トゥーラを囲っていた二つの壕は埋められて、僅かに凹んだ帯状が、白色の葬列となって悲愴を演出している――
「……」
この下にも、部下が眠っている。
質素な麻の囚人服を纏った敗軍の総大将は、事実を胸に刻んで、己の死地へと足を運んだ――
「ここらで良かろう」
南へと向きを変え、戦闘時に侵略軍が本陣を敷いていた林を抜けたところで、歩みを止めたグレンが灰色の重たい空を見上げて呟いた。
「持つがいい」
グレンは振り返ると、握っていた二本の槍のうちの一本を、雪に刻まれた自身の足跡の上に放った。
「なんの真似だ?」
足跡を辿ってきた赤髪の将軍が、雪に沈んだ槍を見つめて口を開いた。
「なに。武人として、最後は武人らしく散った方がそなたも本望だろうと思ってな」
覗いた陽光に輝く雪化粧の中。グレンは光沢を放つ槍の穂先をスッと中段に構えた――
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