【128.一年間】
追い越した白樺の木々たちが、傾いたオレンジ色を遮るようになった頃、荷馬車の隣を並走するメルクが馬上で松明を灯すと、視線の遥か先でも明かりが灯った。
荷馬車を牽く二頭の馬の脚たちも、幾らか回転が早くなる。
「ライラ、門を潜ったら、リア様じゃなくて、王妃様だからね」
「あ、はい!」
ラッセルへの叱責に飽きたマルマが、荷台の後方で貂皮の上着に包まった王妃と左肩を接しているライラを確認すると、長身の後輩は背筋をスッと伸ばして緊張気味に応えた。
箱入り娘のライラには、女性の職場という自覚が足りない。
此度の外遊を機会に王妃様と馴れ馴れしく接したら、途端に風当たりが厳しくなるのは必至である――
マルマの後輩に対する指摘には、理由があった。
住み込みで働くようになって半年も経った頃、美将軍のお付き役を争っている先輩たちとは距離を置いたマルマが上司のアンジェの目に留まり、新しく赴任した妃の配膳係を任された。
新入りという程では無いにしろ、まだまだ未熟者という評価を自覚していた彼女であったが、上司の命令には逆らえない。
最初は緊張を宿したが、一週間も過ぎて打ち解けたころ、連絡の際に明るい表情で「リア様」 と口から発してしまったのだ。
先輩の顔色が変わってからというもの、配食の分量が少なくなったり、引継ぎの欠落を仕組まれたりと、露骨な嫌がらせを受けることが多くなった。
「妃様の担当から、外すつもりは無いからね」
普段の明るさを消した彼女が冷えきった食堂でぽつんと食事をしていると、上司のアンジェがやってきて一つを伝えた。
「あなたは、自分でトゥーラを選んだのでしょう? ここで腐ったら、居場所は無いと思いなさい」
「……」
突き放すような言い方であったが、叱咤激励の類である。
「一度だけ、助けてあげます。後はあなた次第。頑張りなさい」
最後に一言を加えて、アンジェの足音は薄暗い廊下へと戻っていった――
翌日の朝礼で、上司はマルマを前に呼び出して、背後から彼女の両肩に手を置いた。
「妃様を迎えて、三か月になります。この子を遣わした理由は、あなたたちが一部の者に目を向ける中、私たちが本来誰に仕えるのかを、この子は見失う事がなかったからです。異論のある者は、申し出なさい」
「……」
厳しいアンジェの声を耳にして、それぞれの長方形のテーブルに沿って立っていた女中たちは、食堂の空気を緊張に孕んだものにした。
「リャザンから、少ない人数でお越しになった妃様。心細い思いをさせてはなりません。今年の冬は特に寒い。暖炉の好きなあの方に、温かい笑顔を届けるのも、私たちがやれる事。この子以上の笑顔を持っている人が、どこかにいるの?」
「……」
「この子を笑顔で送り出すことも、あなたたちの仕事なのです。わかりましたか?」
「はい!」
たとえ小さな城で調度品は貧相であろうとも、仕事に対する気概だけは高くありたい――
アンジェの意向を汲み取る土壌が、ここにはあった。
誤った方向に進もうとしている集団を、如何にして正すのか?
指揮する者の技量が最も試される場面である――
「但し、この子の代わりが務まると思った人は名乗り出て。務まると思う人がいるのなら、教えて頂戴」
「はい!」
同時に、マルマが安心感を灯す事は許さなかった――
「別に、気にしなくても良いのに…」
「そういう訳にはいかないんです!」
並んだ三人の肩が揺れる荷馬車の上で、呆れたようなリアの発言が飛び出すと、マルマが戒めた。
気軽に階下へと足を下ろす小さな王妃は、女中たちとの距離が近い。
マルマに続いてリア様と発するようになった者も多いが、明らかに「格」 というものが存在するのだ。
マルマの先輩であるアビリでさえも、呼称は王妃様、国王様のままである。
不平不満を抱かれないように。気遣う処世術は、女の職場では必須なのだ――
「兎に角、忠告はしたからね。あとはあなた次第。頑張りなさい」
「はい」
あの日の上司に倣ったマルマが突き放すような言い方で期待を込めると、ライラは気持ちの入った短い了承を示した。
「開門!」
やがてメルクが単騎で先を急いで衛兵に帰還を告げると、トゥーラの都市城門がゆっくりと開かれる。
それぞれに安堵を灯した一行は、久しぶりに地元の空気を吸い込むのだった――
「ただいま!」
すっかり夜も更けてから、入浴を済ませたリアが急ぎ足で螺旋階段を上って国王居住区に戻ると、無事の帰還をロイズに知らせた。
洗い髪がしっとりと濡れている。
小さな身体は麻のシーツで覆われて、暖かな暖炉の前で膝を屈した。
「おかえり」
「うん…ただいま。ありがとうね」
小さな身体の背後から近づいて、両腕を広げたロイズが優しく包み込むと、安堵の声を渡した。
「まだ、濡れてるよ?」
「構わないよ」
「ん…」
愛しい想いが溢れ出る。暖炉の炎によって冷温を含んだ髪にも恍惚を感じると、求めに応じたリアが振り向いて唇を合わせた。
「どうだった?」
「うん。楽しかったよ」
小さな背中に重みを与えながら、ロイズが心地よい声を耳元に流した。
「お疲れ様」
「ん…」
言いながら、暖炉の明かりに浮かび上がる艶めかしい首筋にロイズが吸いつくと、リアから小さな吐息が零れた。
「あ…」
続いて伴侶の骨ばった左手が、巻き込むように伸びてきて、シーツで隠れた右の膨らみを包んだ。
「……」
長旅の疲れは承知しているが、抗う気配は見当たらない。
太腿を隠すように垂れ下がるシーツの下から、ロイズは滑らかな弾力のある肌に沿って右手を這わすと、そのまま太腿の内側へと指先を伸ばした。
「んっ…」
敏感な身体がきゅっと窄むような反応を示すと、長い指の先が更なる奥を求めた――
やがて暖炉の温もりを帯びたシーツが剥がされて、冷たい石床に垂れると、ロイズが臀部を落とす。
「おいで」
「うん…」
恥じらいつつも、従順となった愛くるしい小さな身体が、広げられた両腕の中で沈み込んだ――
「あっ」
暖炉の炎に照らされた白い肢体は輝いて、無事に一区切りを迎えた二人は欲望のままに、互いの愛情と己の快楽を求め合うのだった――
リアが目覚めると、窓の外には雪が舞っていた。
どうりで昨晩は寒かったわけだと納得をして、幾多の毛布に包まれた裸の王妃はベッドの中からもぞもぞと脱皮した。
暖炉の明かりは随分と小さくなっていて、重たい雲を照らす太陽の位置を測るまでもなく、正午に近い事を告げている。
昨夜はロイズの胸に倒れ込んだあと、記憶が無い。
暖炉の前には麻紐にぶら下げられた衣服が掛けられていて、伴侶の優しさにリアの心は寝起きから温かなものに満たされた。
「おはようございます」
寝室から居住区に続く扉を開けると、奥の机に座った薄い顔の尚書の声がやってきた。
死刑宣告を受けた筈。それでも姿を見せる度胸は大したものだが、幾らか緊張が含まれて、恩赦の類を期待しているようにも窺えた。
「おはよう」
お気に入りの小さなテーブルは、暖炉の前へと移動していた。
足元の温もりに悦びを覚えながら小さな身体が腰を下ろすと、温かな紅茶がラッセルによって運ばれた。
「初雪ですね」
「そうね。昨日帰ってきて、良かったわ」
「ご存じでしたか? 私たちがトゥーラにやってきて、明日で1年だそうです」
「そうなの? 間違いなく、生きてる中で一番慌ただしい一年だった気がする…」
「でしょうね…」
両手で支えた丸椀を口元へと運んで漏れ出た一声に、ラッセルは思わず苦笑した。
「……」
改めて、一年を想う。
カティニからの逃避行は命の危険を思えば上位であったが、ルシードや父母の指示に従った結果であり、カルーガに到着してから落ち着く期間を含めても、半月に満たないものであった。
比較してこの一年は、小さい領地を預かっているという自覚の中で、自ら判断を下したものばかりである。
「春までは、ゆっくりできるかな…」
小さな身体をだらしなく椅子の背もたれに預けた王妃は、おもむろに虚空を仰ぐと、赤みの入った癖のある髪の毛と両の腕を重力に任せながら、心からの願望を吐き出すのだった――
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