【116.現実】
トゥーラの都市城門の前で捕虜を見送った翌日、夕方になって居住区に戻ったロイズは、いつもの席で西日を浴びながらちょこんと腰を下ろす小さな伴侶に一つを伝えた。
「グレン将軍から、ギュースと会いますか? って訊かれたんだけど…」
「それで?」
含みのありそうな言葉遣い。お気に入りの白い丸椀を傾けた王妃は、構えるようにして続きを促した。
「聞きたい事って、なんかある?」
「……」
前の日の朝早く。
捕虜に対して激昂したリアの姿を、グレン将軍は視界に入れている。
王妃の強い好奇心に応える事ができなかった。
快い別れを演出する事ができなかった詫びという側面があるのかもしれない。
ロイズが重ねて問いかけた。
「そんなの、決まってるでしょ。『なんでやってくるの!』 って聞いてきなさいよ!」
「……」
丸椀を掲げたままで、真っ直ぐな上目遣いが飛んでくる。
これこそが、彼女が幼少だったあの日以来の疑問なのであろう――
「分かった。聞いてみるよ」
「……」
命令に従う事は、武人として当然のこと。
規範通りの答えが返ってくるのだろうと頭に浮かべつつ、ロイズは素直に承諾をした。
「牢屋で話すの?」
「そうだろうね」
「じゃあ、私も行く!」
「……」
白い丸椀をテーブルに戻しながら、強気の意志が告げられた。
「なに?」
伴侶の怯んだような表情に、異論があるのかとリアが訊く。
怒りを含んだ皮肉を流されて、その顛末を見届けてやろうと思ったのだ。
「いや…ほんとにいいの?」
ロイズの頭には、格子を挟んで罵り合う二人の姿が浮かんだ。
「大丈夫よ。期待していないから」
心配を察すると、小さな王妃は椅子の背もたれにとんと背中を預けて、赤みの入った癖のある髪の毛を後ろに流した――
翌日の執務室。
リアとロイズは尚書のラッセルを呼び出して、ギュースに対して行う尋問の内容を話し合う事にした。
グレンが格子を挟んで酒を何度も酌み交わし、スモレンスクの政治状況や国王ロマンの性格といった情報を齎してはいるが、あくまでも将軍同士の語らいである。
酔いの回った大言壮語の飛び交う中で掴んだ情報に、どこまで信憑性があるのか…
ギュースという人物を推し量り、情報の確認をしましょう。
こうして尋問の位置付けは、リアの思惑を大いに容れることとなったのだ――
夜空に星々が瞬いて、冷たい空気が肌に触れるころ、トゥーラ城の南側に架けられた石橋の上には、グレンとラッセルの姿があった。
王妃を交えての尋問ということで、人目につかない時間帯が選ばれたのだ。
「先ほど、軽く話はしておいた」
「助かります」
将軍グレンの段取りに、尚書のラッセルが感謝を述べる。
本来ならば段取りは尚書が行うが、捕虜とは言えど2倍ほどの体格を備えた敵国の総大将を相手にするのは厳しかろうと、グレンが買って出たのだ。
適材適所――
力不足を恥じるでもなく、ラッセルは素直に申し出を受け入れた。
「待たせたね」
南の城門が僅かに開くと、先ずはロイズが姿を現して、次いで背後で隠れるようにしてリアが姿を覗かせた。
「中に入るのは、将軍と僕だけで良いでしょう。ラッセルは階段で、リアは戸口に居ればいい」
「承知しました」
格子を挟んだ状態で、3対1の会話も気が引ける。
文書に起こすだけならば、階段に座って膝の上で記せばよい。
ロイズの提案に、尚書は素直に従った。
牢屋に続く扉をグレンが開けると、松明を手に取ったロイズが先頭で中へと足を進めた。
「ここに入るのは、二度目かな…」
「私が、ご案内した時ですかな?」
「そうだね」
15段ほどの階段を下りながら、ロイズが懐かしそうに呟いた。
赴任した翌日に案内をしてもらったのだ。
一年も経っていないのに、随分と懐かしい感覚に包まれる。
「お連れした」
ロイズが両足を土床に降ろしたところで脇に寄り、いかつい身体が先導する形を取ると、しっとりとした暗い眼前に向かって低い声が発せられた。
右手に持った松明が倉庫と化している手前の牢屋をぼやっと照らすと、次に土床の上で正面を向いて胡坐をかき、伏し目になって静かに佇んでいる、厳かな大岩のような男を照らした。
「少し、痩せられたようですね」
松明を持ったまま、よいっと腰を落として目線を同じにすると、先ずはロイズが柔らかな声を渡した。
「スモレンスクとは違って、この国は貧しいのです。それでも、城の者と食事は同じです。ご承知ください」
スッと相手の瞼が開いたのを確認して、ロイズが恐縮の言葉を続けた。
囚われの身ではあっても、大国の将軍として礼節を持った扱いを貫くつもりである。
「いや、かたじけない。酒が飲めるだけでも、感謝する」
胡坐をかいたままで、大柄な男はぼわっと生えた赤髪を小さく前に揺らした。
「あなたの処遇については、グレン将軍に一任してあります。この場を設けたのは、トゥーラの国王として意見を伺うためです。あなたの返答で私の思うところが変わっても、グレン将軍に何かを進言する事はありません。どうぞ、思ったままを話してください」
背後に立ったグレンに松明を手渡すと、ロイズは特に意識して、ギュースのギョロッとした眼を見据えながら口を開いた。
「承知した。酒を交わして退屈な時間を潰してくれた、後ろの男には報いるつもりだ」
敵国の大将軍は僅かに口角を上げると、同格のグレンに視線を預けた――
石膏像のように立ったまま、右手で松明を掲げる四角い顔の将軍の眼前で、格子を挟んだ二人の会話が始まった。
尋問の内容は、スモレンスクの指揮系統、各方面軍の概要や戦力といった軍制に関すること。更には停戦協定の交渉役として指名した、老臣フリュヒトの人物像といったところである。
「フリュヒト殿は、信頼のおけるお方だ。但し、あくまでもスモレンスクにとっての忠臣だからな。対等な条件で話ができると思っているなら、甘いだろうな」
「そうですね…」
停戦協定を結ぼうとしている。
例え交渉の期間だけだとしても、安らぎの時間を民に与える事ができる。
大国を相手にした一年間を思えば、多くが納得してくれる成果ではないだろうか――
穏やかな日々を望む二人にとっても、そんな時間を成し得た事。
それだけでも、トゥーラに城主として赴任した意味は有ったのだろうと思うのだ。
「一つ、お聞きして良いですか?」
水筒に入った白湯がお互いの喉を潤したところで、ロイズが改まって口を開いた。
「スモレンスクは、どうしてトゥーラを狙うのでしょうか?」
「なんだ? 毛並みの違う質問だな」
「ええ、まあ…」
「そういえば、初日に変な矢文を送ってきたな…」
緊張感が和らいだ。
水筒を土床に置いた赤髪の男は、負傷した兵士の救助を促すという、夜の作戦会議中に届いた紙片を思い出した。
「女が居るみたいだが、関係あるのか?」
左の方に視線を移動して、ギュースが尋ねた。
開いている扉から流れ込んでくる冷たい外気に、リアが用いる香水の香りが含まれているのだ――
「……」
「なんだ。キエフ大公妃、オリガの再来か?」
否定も肯定もしないロイズの表情が固まって、ギュースが嘲るように口を開いた。
キエフ大公妃。聖人オリガ。
10世紀中頃に、キエフ大公イーゴリⅠ世の妻となり、夫が殺された後に即位した幼い息子を支える形で、摂政として手腕を奮った女性である。
夫を暗殺した異教徒を決して許さず、婚姻と慰霊の場を装って彼らを焼き殺し、或いは毒殺をして、最後には攻め入って滅ぼした――
「そういうわけでも、無いのでしょうけどね…」
右手で頭を掻きながら、ロイズは苦笑いを浮かべた。
「矢文の返答なら、明白だ」
ギョロッとした大きな目玉をロイズに向けて、ギュースがあの日の問いに答えた。
「負けと決まってもいないのに、死んだ者たちを前にして、途中で逃げ出せると思うのか?」
「……」
「そちらの将軍も、同じだろ」
「……」
初日を終えた時点では、兵数の勝る状況下にあって、初手に躓いただけである。
正面に座るギュースの視線が背後を覗いても、ロイズの視線が動くことは無かった。
「何故、攻めるのか…」
胡坐を崩して左の膝を立てながら、ギュースがぽつりと呟いた。
「俺なりの答えなら出せるがな。聞きたいか?」
起こした膝の上部に左の肘を預けると、大柄な男の口角がニヤリと上がった。
「できるなら」
是非とも伺いたい。
平たい声に込めながら、ロイズは続きを促した。
「そこにいる女を呼んでこい。直接言ってやる」
「……」
野太い声に、乾いた牢屋の空気が一瞬で緊張を纏った。
それでもロイズは決して動かずに、戸口の外で控える伴侶に結論を預けることにした――
「……」
しばらくの時を置いてから、ラッセルの手元を照らしていた松明の明かりが揺れ動くと、小さな右足が一歩を踏み出した。
「リア様?」
階段の真ん中で座っていた薄い顔の男は立ち上がり、土床に足を置いたところで脇に寄って片膝を落とした。
無言のままで、小さな王妃は全身に緊張を浮かべながら、ゆっくりと階段を降っていった――
聖女と、悪魔…
絵画のような対比が脳裏に浮かんだラッセルは、歩む王妃の髪から覗く横顔が強張って、松明を掲げる手許が震えているのに気が付いた――
「……」
引き合わせては、ならない――
想いが過ぎったラッセルは、咄嗟に左手を差し出して、リアの足元を隠している衣服の裾を掴んだ。
「……」
グレン将軍の前まで進もうとしていたが、抗う力によって王妃の細い足首が止まった。
右側の格子の隙間からは、大柄な男の姿が覗いている――
「誰かの娘か?」
松明を小刻みに震わせて、それでも足を進める度胸を認めると、ギュースは快い反応を示した。
数メートルの距離と揺れる炎に遮られ、大人の女性には見えなかったのだ――
「まあ、そんなところです」
「……」
ロイズが短い同意を挟むと、そのまま無言となって答えを促した。
「仕方がねえな…」
話す相手が少女だと認識をして、大柄な男はけだるそうな声を発した。
「狼と羊だよ。狼は生きるために肉を食らう。奪って殺してな。お前らの都合なんて、知ったこっちゃねえ。トマトやリンゴを食って、狼が満たされると思うのか?」
重たい声が、二本の松明が照らす薄暗い空間に響き渡った。
「同じ…人間なのに?」
身勝手な狼の発言に、恨めしそうな女性の声が抗った。
震えた小さな声音である。
異質な男を前にして、大きな恐れを抱く中、使命感だけによって発せられたのだ。
「そんなもん、見た目だけだな。考え方が違ったら、生き方は違う」
「……」
「俺はな、ガキの頃から、朝起きたら誰かの死体がそこらに転がっている。そんな中を生きてきて、今が在るんだよ。穏やかな日々なんてもんは、俺にとっちゃ幻想だ。いつ殺られるかわかんねえんだから、殺られる前に、殺るんだよ。お嬢さんには、分からんか?」
「……」
返ってきたのは、見下した発言である。
リアの唇が、思わず固まった――
それらを否定して均すには、根気が要る。
恐らくは、人の一生では賄えない……
松明を持った小さな右手は、震えることを止めていた――
「……」
満天の星空の下に戻った小さな王妃が、憂いの表情で上を見る。
ギュースの語る場景を想った刹那、絶対に相容れる事の無い考えを、認めてしまったのだ。
「悔しいのですか?」
ロイズに促されて後を追ったラッセルが、視線の先にある人物の心の内を想った――
「……」
答えは戻らない。
光り輝く星々を背景にして、冷たい空気の中に佇んだ少女のような身体は、儚くもあり、ひたすらに美しいものであった――
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