【115.貴族社会】
捕虜の見送りに立ち会った王妃が敵将に向かって啖呵を切ったという話は、やがて薄い顔立ちの尚書の耳にも届いた。
怒りを沈める為に居住区へと駆け込んだリアの元に、先ずはロイズがやってきて慰めの言葉を送ると、彼が去ってしばらく経ってから、ラッセルが姿を現した。
「何しに来たの」
失礼しますと入室を果たすと、いつもの席に座って小窓から外を眺めていた王妃が邪魔者扱いするように吐き捨てた。
右肘をテーブルに接して手のひらに顎を乗せ、左手の親指は無造作に握られている。
「……」
慰めの機会は、逸したらしい。
残念な想いを灯しつつ、ラッセルは無言のままに足を進めた。
「見送りに出るとは、聞いておりませんでしたので…」
ねぼすけ王妃が朝から城外に出るとは思わなかった…
同行できなかった悔しさもあって、薄い顔立ちの尚書は細い瞳を伏せながら、湿った声を口にした。
「どんな相手か、会ってみたかったのよ」
窓の外に視線をやったまま、拗ねた王妃は動機を語った――
「期待、されていたのですね」
「……」
聞いていた明るい材料は、見事なまでに裏切られる形となった。
つまりは、捕虜への温厚な対処により、彼らの心に争いを忌避する感情が芽生える事を期待した。
結果、全体には浸透しなくとも、確かに将兵の一人には届いているという前向きな報告を受けていた――
しかしながら、実際に傍観者となって彼らの姿を眺めると、娑婆の空気を吸って偽りの姿が解けたとばかりに、本音を曝け出したのだ…
足元から崩れ落ちた希望の光は、最後には怒りとなって噴き出した――
「それでも良かったわ。変な期待を抱かずに済む」
小さな背中が椅子の背もたれを頼ると、本音と強がりの混じった悲しげな声を吐き出した。
「……」
「それで? 何しに来たの?」
優しい言葉を掛けるのは、臣下として適当だろうか…
貧相な男が伏し目になったところで、小さな王妃が顔を上げ、再び突き放すように尋ねた。
「いえ…その…用事は無いかと…」
責められたように感じるのは、疚しい心が存在するから…
当然ながら、心配になって様子を見に来たとは伝えられず、ラッセルは言葉を詰まらせた。
「別に、無いけど?」
「あ…そうですか…」
キョトンとした表情が呟くと、身の置き所が無くなった。
「その…少しばかり、懸念はしておりました…」
「何を?」
それでも漂う霧を払うべく、尚書が思いを吐き出すと、小さな王妃は投げやりな相槌を返した。
「リア様の想いが、果たして相手に届くのか…という懸念です」
「そんなもの、最初から持ってるわよ」
今更の事である。
大きな瞳をラッセルへと預けて、王妃は口を尖らせた。
それでも尚、悔しさは宿っている――
「それでは、お尋ねします。あなたという人は、物事を黒か白でお決めになられるのですか?」
一歩をずいと踏み出した薄い顔立ちがリアを見下ろすと、真剣な表情になって尋ねた。
「何が、言いたいのよ」
「僅かな濁りでも、認めないのですか?」
「…………」
鋭くなった視線に対して、憂愁を帯びた声色で、ラッセルは責めるように問いかけた。
「純白でなければ、認めないのですか?」
「……」
程度の問題である。男は続けて王妃を諭した。
「そうね…あなたの言う通りね…」
しばらくの時間を求めた後で、冷静になった瞳が瞼によって閉じられた。
「以前も伝えました。リア様は、満点を求めすぎです」
「……」
「私にだって、リア様に対しても、ロイズ様に対しても、不満はあります。勿論マルマにだってあるでしょう。それでも、あなたについていくのです」
「……」
重ねて説き伏せるようにして、細目の尚書は胸の内を吐き出した――
「それでも敵将の一人は、不戦を誓ったそうじゃないですか」
穏やかな時間に戻すため、ラッセルは淹れたての紅茶をリアへと運んだ。
「そうみたいね…」
悔しくなって城門前から走り去った後の顛末は、先ほど慰めにやってきた伴侶から耳にした。
「それでしたら、成果はあったと、信じるしかないでしょう」
「……」
蒔いた種は、決して無駄ではない――
温かい慰めの言の葉を、想い慕う相手に対してラッセルは漸く口にした。
「戦況を変えるより、人の心を変える方が難しい…といったところでしょうか?」
「……」
「信頼を得るには、温和な対応は不可欠です。しかしながら、甘いと思われたら付け上がるだけです」
「……」
軍略の才と比較して、尚書は皮肉のような言葉を吐き出した。
良くも悪くも、彼女は純粋であるのだ。
だからこそ、守ってみたいと思わせる――
夕暮れの草原で、膝を落とした儚い姿。
ラッセルは、あの日の情景を思い出していた――
太陽が地平に接すると、めっきりと暑さが和らいで、冷気すら襲ってくる。
執務室の小窓から覗く濃厚だった緑たちも、いくらか色を落としているようであった。
「まあ、こうなるわよね」
両手を上にして呆れたような言動を吐いたのは、小さな背中を椅子に預けたリアだった。
午後の陽気と涼しさを含んだ風に誘われて、眠った身体は元気である。
「それでも、向こうの情報が得られたのは、狙い通りでしょ?」
「まあね…」
テーブルを挟んで座ったロイズから、穏やかな声がやってくる。
リアの小さな手が掴んでいるのはスモレンスクから戻ってきたメルクたちの報告を、尚書のラッセルが纏めたものであった。
報告の内容は、スモレンスクにおいてはトゥーラとの戦闘は小競り合いという程度に受け取られ、一方で国民の関心は、同時期に発生した渡河を含んだ訓練中に起こった事故に向けられている―― というものである。
「でっちあげるにしても、お粗末よね」
「…そうだね」
冷笑を含んだリアの一声に、ロイズも呆れたように応じた。
「スモレンスクには、ドニエプル川があるでしょうに。どこで渡河訓練やってんのよ!」
「確かにね」
皮肉が可笑しくて、ロイズの口角が思わず上がった。
「だとしても、むこうの人達は、これで納得するって事なんだろうね…」
「…覇権主義の国なんて、そんなものよ」
ロイズが憐れみなんてものを漂わせながら口を開くと、手にした白い丸椀を膝に置いた王妃が、ため息交じりに後から続いた。
「上だけが、正しい情報を持っているの…下の者が従順でいるように。都合の悪いことは隠して、成果だけを誇張する…」
「……」
「為政者は常に上だけを見て、民衆には権力っていう蓋を被せるの。火にかけて、塩と調味料を与えながら、たまに蓋を外して味見をする…」
「……」
「まあ、味見なんてしない事も多いけど」
言いながら、リアの口角が寂しそうに上がった――
「それで、料理が失敗しそうになったら、中身を取り出して、戦地に送るのよ」
「……」
長い付き合いでありながら、伴侶の見識と深い洞察力には、今でも感銘を覚える。
浮かんだ疑問をその場で発する子供に、温厚であった父母と厳しかった養父のルシードは、共に好奇心を歓迎するように、正面から答えを与えていた――
原因と結果。社会の仕組みや人の思考――
そんなものを、時には図解して。
「……」
ロイズもたびたび彼女と一緒になって話を聞いていたが、リアの理解力には届かなかった。
追い付く努力も怠った。
理由は、理解の出来なかった自分を恥じたから。
もしもあの頃、貪欲に知識を求めたなら、彼女と同じ視野を備えることができたのだろうか…
「どうかした?」
言葉を塞いだロイズに対して、柔らかな表情が降ってきた。
いつもと同じように、赤みの入った癖毛の下で、大きな瞳をまっすぐに覗かせて――
「いや、なんでもないよ」
埋まることの無い劣等感。
瞼を閉じて開いた国王は、平静を装って彼女の支えに戻るのだった――
「おぬしの部下たちは、国へ戻っていったぞ」
夕暮れを迎えて鳥たちもねぐらへ戻るころ、軍事を司る男がトゥーラの地下で靴音を鳴らすと、土床に転がっていた自身よりも大きな体躯の囚人に一つを伝えた。
「そうか…」
のそっと上半身を起こしたスモレンスクの大将は、胡坐をかきながらぼわっとした赤髪を右手でバサバサっと掻き毟ると、ふわあと欠伸を一つした。
「それで、俺はどうなるんだ?」
「……」
どうにでもしてくれ。
諦めというよりも、一つの使命は果たしたといったような満足を宿して、ギュースが未来を伺った。
「それなんだがな…」
グレンは言いながら、食料貯蔵庫と化した隣の牢屋から一つの木箱を取り出すと、中から一本のワインを引き抜いた。
「なんだ? 気前がいいな」
マグを渡すでもなく、二重の格子の隙間から筒状の陶器を横向きにしてグレンが差し出すと、傷痕の残る顔の表皮に訝しそうな表情が浮かんだ。
「一つ、話があってな…」
「……」
格子を挟んだ状態で、グレンがのっそりと土床に腰を下ろした。
穏やかな声質に変化は無かったが、赤髪の将軍は、酒好きの偉丈夫の手許に酒が無い事に気が付いた――
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