【117.赤毛の子】
「傲慢…なのかしらね」
敵国の大将軍と会話を交わした翌日、昼下がりの国王居住区で、リアがぽつりと呟いた。
「……」
帳簿整理をしていたラッセルが壁沿いに備わった机から視線を向けると、赤みの入った髪を背中に回した王妃が、西側の景色を小窓から眺めながら、憂いの表情を覗かせていた。
夏が過ぎ、萎れてしまったヒマワリみたいな生気の無さではなくて、ちょっと元気のないオリエンタリスの花弁ような…
ひんやりとした肌寒さを感じる中で、跳ね回る子供たちの高い声が屋外から届いた。
「相容れない主張に、どのように向き合うか…という事ですか?」
「そうね…」
言いながら、ラッセルが紅茶を用意するために腰を上げると、小さな王妃は溜息交じりに同意した。
「あくまでも私の考えですが…どうあっても、リア様の望むようにはならないかと…」
小さな火を起こし、陶器に入った紅茶を鍋に注いで温め直したのちに、王妃の元へと運んだ尚書が、ことりと音を鳴らして白い丸椀をテーブルの上に預けた。
「二つの勢力があります」
言いながら、ラッセルは左手を大きな瞳の前に差し出して、手のひらを上にした。
美将軍との鍛錬を重ねてマメを拵えている。続いて尚書は手首の方には木片を、指先の方には炭となった黒い木片をちょこんと載せた。
「この状態で、お互いが不干渉なら良いのですが…相手の存在が目に入ったなら、そういう訳にもいきません」
「……」
視界に入れば気になるし、エサだと思えば奪いに来る――
ラッセルは、現在の状況を簡潔に表した。
「そこで、私達は仕切りを作る事にした…」
続いて色の違う二つの木片の間を右手で遮った。
「加えて、休戦協定を結ぼうとしている…」
「そうね…」
「それでも、ウサギの匂いと姿を、狼は忘れないでしょう」
「……」
「結局は、現状のままで対応するか、我慢ならなければ、今の状況を変えるしかありません」
「変える?」
薄い顔が発した結論に、大きな瞳が上目となった。
「……」
尚書は手のひらから右手を外すと、中指を使って黒い木片をピンと弾き飛ばした。
木片は石壁に当たってコンと音を立てたあと、コロッと転がってリアの小さな足元で動きを止めた――
「本気?」
驚きの混じった表情で、リアの瞳が改めてラッセルに向けられる。
自身の心情や考えを、理解している筈なのに…
「これが、現在の状況です」
「……」
上から注がれる表情と鋭い眼光は、これまで以上に厳しいものであった――
声には上げずとも、理想を追い求める王妃に対して、自重を促すような…
「長い歴史の中には、戦いを望まぬ領主だって居たでしょう」
動きの止まった王妃に対して、尚書が諭すように言葉を並べた。
「世界をご覧ください。戦わぬ国が残っていないのは、結局のところ、滅亡したからです」
「……」
揺るがぬ現実が、小さな身体に降り注ぐ――
彼女が描く理想像は、幾多の者が挑み、跳ね返され、飲み込まれていった巨大な壁なのだ――
「力を否定しているわけでは無いのでしょう?」
続いた発言に、リアの頭にはスモレンスクとの戦いの場景が浮かんだ。
武力に対して、武力で抗う…
それは確かに、力を否定した姿ではないのだ――
「忘れてはなりません。狼に対して我々が渡り合えるのも、背後に熊が控えているからです」
「……」
抗えない、純然たる現実。
リアが思うよりも大局を望んだ発言に、トゥーラの誇る小さな頭脳は前夜に続いて時間を止めるのだった――
「少々、乱暴な具申を致しました」
「良いわ。大丈夫」
小さな椅子の背もたれに背中を預けて、王妃はやるせない表情を浮かべた。
一歩を下げたラッセルが、伏し目となる。
続いて翻った猫背を察すると、リアは過去を思い起こした。
「国なんて、所詮は器だって言ったこと、覚えてる?」
「はい」
尚書の足が止まって、半身になった。
「トゥーラは小さな器だけど……固い器にしましょう」
「……はい」
尊敬する王妃の決意を、ラッセルは静かに受け止めた――
暖かな陽射しを受けながら、西へと向かった集団は、カルーガの地を踏んでいた。
「スモレンスクまで、来るのか?」
2階建ての宿を前にして、大きく育ったナナカマドの幹に馬を繋ぐと、スモレンスクの副将であり、両国を渡る使者でもあるブランヒルは、監視役としてトゥーラから派遣された小柄な隊長に尋ねた。
「いや、オカ川を越えたら、適当に見届けて戻るつもりだ」
「そうか…」
負傷兵を抱えたままの渡河では不便な事もあるだろうと、ロイズが慮ったのだ。
当然、融和を図る為でもある。
「あなたなら、大丈夫でしょう」
穏やかな笑顔を浮かべながら、メルクが労った。
重責を担いつつ、旗色の違う個々の人間を率いることの難しさを、彼も理解している――
「まったく、お人好しが多いな」
複雑な感情は残っているだろうに、国王の思うところを体現している。
少なくとも、自軍であれば不満が噴出するに違いない。
筋肉を纏った両肩を上げると、ブランヒルは呆れた声を吐き出した――
「白湯を、お持ちしました」
太陽がすっかりと沈んだ頃、カルーガに唯一存在する宿屋の2階で、ブランヒルは宿の者から陶器の水筒を受け取った。
2階の客間は3つ。一つをブランヒルが、残りの二つをトゥーラの監視兵が2名ずつで割り当てた。
使者として遇する結果ではあるが、他の者の手前、ブランヒルの居心地は悪かった。
しかしながら、親書を携えている者を、相反する思想を抱えた者と同じにする訳にはいかない。
二階へ上がる者を警戒するべく、メルクは交代で監視を行う事にした。
「お気遣い、感謝する」
「寒くなります。毛布が足りないようでしたら、申し付け下さい」
「一つ、尋ねても?」
宿の女将と思われるほっそりとした中年女性が柔らかな声を発すると、ブランヒルが口を開いた。
「はい…」
返答には、少なからず警戒が含まれる。
無理もない。たとえ経済的な恩恵があろうとも、侵略者という事実は変わらない。
昂った兵が滞在中に狼藉を働く事も度々あって、争いによって流れ着いた者を多く抱えるカルーガで、歓迎されるような理由は殆ど無いのだ――
「いや、大したことじゃないんだ…」
ブランヒルは警戒を解くように穏やかな口調となって、言葉を続けた。
「10年ほど前かな……この村に、赤毛の女の子が住んでいたと思うのだが…ご存じか?」
「……」
冷えた空気の中を言葉が伝って、女将に緊張が走った。
暗がりの中、水筒を手にした右手のピクとした反応を、ブランヒルの視線は逃さなかった――
「いや、大したことじゃないんだ。忘れてくれ」
「すみません…私もここへ来てから10年ほどで…今はこうして宿屋をやらせて貰っていますけど、生活が大変で、村に馴染む事にも苦労をしていたもので…」
身体全体で恐縮を表しながら、女将は訥々と言葉を続けた。
「部下の者が以前、世話になったと言っていてな。聞いてみただけだ。ありがとう」
「申し訳ございません…失礼します」
「……」
女将は小さく頭を下げると、木製の扉をパタンと閉めた――
翌日を迎えた秋の空は、快晴であった。
朝のひんやりとした空気の中、雲一つない青空が、視界の半分を埋めている。
「女将とは、もう長いのか?」
「へえ。そろそろ20年になりますかね」
「気の利いた、良い方ですな。またいつか、今度はゆっくり温泉にでも浸からせてもらいます」
「是非、お待ちしております」
宿の主人と手慣れた挨拶を交わすと、ブランヒルは先に歩き始めた仲間の背中を追うように、西の方へと馬を進めた――
「それでは、お達者で」
負傷者を抱えるスモレンスクの兵士たち。
オカ川を渡るのを手伝って、数日分の食料が向こう岸に渡るのを見届けると、小柄なメルクが明朗な声を発した。
「貴殿も」
馬車の利用は、川の手前まで。
川を挟んで互いが向き合うと、長身のベインズを含む数人を除いた面々は、メルク達が背中を向けるのを待つという形で、ささやかな敬意を表した――
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