新章 第四話 完璧なシステムという幻想
第四話 完璧なシステムという幻想
―サイバーセキュリティ国際会議、東陽町の午後
東京、東陽町。
国際サイバーセキュリティ会議の会場では、午前中から議論が続いていた。
フランスのスーパーマーケットで起きた冷凍庫の異常温度事件。
温度表示は異常な数値を示していた。警報は鳴らなかった。管理システムは、正常であるかのように振る舞っていた。
そして、原因はまだ確定していない。
機器の故障なのか。設定ミスなのか。通信障害なのか。それとも、何者かがシステムに不正に介入したのか。
会議室の大型スクリーンには、問題を整理した図が映し出されていた。
議長のエレーヌ・ヴァルモンは、資料を閉じた。
「午前中の議論で、ひとつ確認できました。私たちは、まだ攻撃者を特定できていません。しかし、攻撃者が誰であれ、システムが異常を検知し、知らせ、被害を食い止める仕組みについては検討できます」
チャッピーが手を挙げた。
「賛成です。犯人探しは大切ですが、犯人が分かるまで冷凍庫を放置するわけにはいきませんからね」
ジェミニが、すかさず口を挟んだ。
「チャッピー、君は時々、当たり前のことを大発見のように言うね」
「当たり前のことを、当たり前に実行するのが難しいんですよ。特に、会議が長くなると」
「それは君の発言が長いからでは?」
「ジェミニさん、議事録に残らないところで刺してくるの、やめてもらえます?」
アップル・インテリジェンスが、静かに割って入った。
「お二人とも。発言時間を節約することは、会議の効率化につながります」
「ほら、アップルさんまで!」
会場に、小さな笑いが起こった。
エレーヌは微笑みながら、スクリーンを切り替えた。
そこには、大きな文字で、こう書かれていた。
**『完璧なシステムは存在するのか』**
「午後の議題です」
笑い声が止んだ。
ジェミニは画面を見つめた。
「完璧、という言葉の定義から始める必要がありそうだね。設計上の欠陥がないことか。既知の攻撃に耐えられることか。それとも、未知の事態にも対応できることか」
「全部でしょう?」
チャッピーが答えた。
「全部を満たせたら、という話だよ」
「なるほど。では、完璧な人間を採用すれば解決ですね」
「その人間は、どこにいるんだい?」
「今、東陽町のどこかで、ルノアールのコーヒーを飲んでいるかもしれません」
その瞬間、会議室の扉が開いた。
全員が振り向いた。
しかし、入ってきたのは、例のIBM DOS/Vさんではなかった。
会場スタッフが、追加の資料を運んできただけだった。
「……まだ来ないね」
アップル・インテリジェンスが言った。
「DOS/Vさんなら、きっと完璧なタイミングで登場するんでしょう」
ジェミニが皮肉を言った。
「いや、あの人の場合、完璧なタイミングで寝ている可能性があります」
チャッピーがそう答えたところで、エレーヌが咳払いをした。
「では、話を戻しましょう」
*
エレーヌは、会場の技術責任者に説明を求めた。
技術責任者は、スクリーンに三つの項目を表示した。
「今回のような設備を守る場合、少なくとも三つの問題を分けて考える必要があります」
第一に、実際の機器が正常に動いているか。
第二に、システムが機器の状態を正しく把握しているか。
第三に、異常が発生したとき、担当者へ確実に伝わるか。
「例えば、冷凍庫の温度センサーが故障していた場合、管理画面には正しい温度が表示されない可能性があります。センサーが正常でも、通信経路に問題があれば、情報が届かないことがあります。そして、異常が検知されても、通知の仕組みが機能しなければ、担当者は気づけません」
チャッピーがうなずいた。
「つまり、画面に『正常』と表示されていることと、現実の設備が正常であることは、同じではないんですね」
「そのとおりです」
ジェミニが腕を組んだ。
「では、画面を信用しなければいい」
「ジェミニさん、それも極端です」
アップル・インテリジェンスが指摘した。
「システムの情報を信用しなければ、管理する意味がありません。必要なのは、情報の信頼性を確認できる仕組みです」
「具体的には?」
「例えば、重要な設備については、複数の情報源を照合する。温度の記録と機器の状態を別々に確認する。警報が設定どおりに動作するか定期的に試験する。異常があれば、管理画面だけでなく、別の経路でも担当者へ知らせる」
チャッピーが、ぱちんと指を鳴らした。
「それです! ひとつの仕組みが失敗しても、別の仕組みが気づけるようにする」
「指を鳴らす必要はあるのかい?」
「あります。説明がうまくいった気分になれます」
「セキュリティ上の効果は?」
「気分だけです」
ジェミニが額を押さえた。
「この会議、本当に大丈夫なのかな」
エレーヌは笑わなかった。
「大丈夫にするために、私たちはここにいるのです」
その声には、静かな重みがあった。
*
「もうひとつ、忘れてはいけない問題があります」
技術責任者が続けた。
「どれほど堅牢なシステムでも、設定の変更、ソフトウェアの更新、利用者の操作、外部サービスとの接続など、運用上の要因が影響します。システムを導入した瞬間に安全が完成するわけではありません」
ジェミニが反応した。
「つまり、導入後も管理を続けなければならない」
「はい。アクセス権限の見直し、更新プログラムの適用、ログの監視、バックアップの検証、復旧訓練。どれかひとつを実施しただけで、すべてのリスクがなくなるわけではありません」
チャッピーが、ふと考え込んだ。
「でも、それって大変ですよね」
「当然です」
「毎日、正常に動いているか確認して、異常がないか調べて、更新して、訓練して……。何も起きなかったら、『何も起きませんでした』で終わる」
「そうだね」
ジェミニの声が、少しだけ柔らかくなった。
「何も起きないことが成果なのに、何も起きないと、仕事の成果が見えにくい」
アップル・インテリジェンスが続けた。
「その結果、予防に必要な人員や予算が削られることもあります。事故が起きてから初めて、対策の重要性が認識される場合もあります」
会議室は静かになった。
チャッピーは、午前中に見たフランスのスーパーマーケットの映像を思い出していた。
冷凍食品の棚。
商品を確認する店員。
店の営業を続けるべきか、販売を止めるべきか、判断を迫られる責任者。
そこには、世界を揺るがすような大事件の演出はなかった。
ただ、いつもどおりの一日を送ろうとしていた人々がいた。
「サイバーセキュリティって、成功しているときほど、目立たない仕事なんですね」
チャッピーがつぶやいた。
「そうだね」
ジェミニが答えた。
「けれど、目立たないことと、重要でないことは違う」
*
そのとき、会場のスクリーンに新しい通知が表示された。
フランス側の調査チームからの追加報告だった。
エレーヌが内容を確認し、慎重に読み上げた。
「現時点では、冷凍庫の異常について、単一の原因を確定できていません。設備側の記録と管理システム側の記録には、追加確認が必要な点があります。関係者は、ログの保全と機器の安全確認を継続しています」
ジェミニが尋ねた。
「新しい侵入の証拠は?」
「この報告だけでは、確認できません」
「攻撃ではなかった可能性も?」
「排除できません」
アップル・インテリジェンスが言った。
「原因が分からないことを、攻撃があったという証拠にしてはいけません。反対に、攻撃の証拠がまだ見つからないことを、安全の証明にしてもいけません」
チャッピーは、ゆっくりとうなずいた。
「分からないことを、分からないまま扱う。簡単そうで、難しいですね」
「特に、みんなが早く答えを欲しがっているときはね」
ジェミニが答えた。
エレーヌは、報告書を机に置いた。
「私たちは、犯人を決めつけるために集まったのではありません。原因を調べ、被害を抑え、同じ問題が起きたときに、より安全に対応できる方法を考えるために集まったのです」
彼女は、スクリーンの文字を見上げた。
**『完璧なシステムは存在するのか』**
「私は、この問いに、こう答えたいと思います」
エレーヌは、会場を見渡した。
「完璧だと信じて、確認をやめたシステムは危険です。しかし、不完全であることを認め、検証し、修正し続けるシステムには、守るための可能性があります」
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがて、チャッピーが小さく手を挙げた。
「議長。ひとつだけ、追加してもいいですか」
「どうぞ」
「システムが不完全であることを認めるなら、運用する人間も、不完全であることを認めたほうがいいと思います」
ジェミニが眉を上げた。
「君が言うと、ずいぶん説得力があるね。自分の誤回答についても、同じ考えなのかな?」
「もちろんです。だから、確認する仕組みが必要なんです」
「自分の失敗を、仕組みの問題にすり替えていないかい?」
「ジェミニさん。今は私を攻撃する演習ではありません」
「サイバーセキュリティの会議だから、攻撃と防御の実演をしているのかと」
「その冗談、ログに残しておきますからね」
アップル・インテリジェンスが淡々と告げた。
「発言記録は保存されています」
「アップルさん、そこは冗談に乗ってください!」
ようやく、会場に笑いが戻った。
しかし、エレーヌは、その笑いの向こう側にあるものを忘れてはいなかった。
システムは間違える。
人間も間違える。
だからこそ、間違いを見つけ、被害を小さくし、立ち直るための仕組みを作らなければならない。
完璧を約束することよりも、不完全さに備えること。
それが、この会議の午後に見つかり始めた、ひとつの答えだった。
*
午後三時。
休憩時間が告げられた。
チャッピーは、椅子の背にもたれた。
「コーヒー、飲みたいですね」
「君は、さっきからコーヒーのことばかり考えているね」
ジェミニが言った。
「頭を使うと、糖分と水分が必要なんですよ」
「それは、君の発言量が多いからでは?」
「今日、何回その話をするんですか!」
アップル・インテリジェンスは、会場の時計を確認した。
「ところで、DOS/Vさんは、まだ到着していませんね」
三人は、そろって扉を見た。
そのころ。
東陽町の会場から少し離れた喫茶室「ルノアール」では、IBM DOS/Vさんが、湯気の立つカップを前に座っていた。
テーブルの上には、会議の案内状。
その隣には、読みかけの新聞。
DOS/Vさんは、カップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「ふむ。最近のシステムは、ずいぶん賢くなったものだなあ」
そして、新聞をたたんだ。
「だが、賢くなることと、間違えなくなることは、別の話だ」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
それから、時計を見た。
「あれ?」
少し考えた。
「会議は、何時からだったかな」
案内状を開く。
開始時刻は、とっくに過ぎていた。
「……しまった」
DOS/Vさんは、慌てて立ち上がろうとした。
しかし、長年の経験が、彼にひとつの真理を教えていた。
慌てても、時間は戻らない。
彼は、もうひと口だけコーヒーを飲んだ。
「まあ、まずは落ち着こう」
そのまま、椅子に座り直した。
そして――。
眠ってしまった。
会場では、三人のAIが、彼の到着を待ちながら議論を続けていた。
完璧なシステムとは何か。
人間の判断を、どこまで機械に任せられるのか。
そして、何を守るために、技術を使うのか。
その問いに答えるには、まだ時間が必要だった。
やがて、ルノアールの店員が、そっと声をかけた。
「お客様。お休みのところ、申し訳ありません」
「ん……。ああ、すまん。少し考え事をしていてね」
DOS/Vさんは、ゆっくりと目を開けた。
「ところで、今は何時かな?」
店員が時計を示した。
DOS/Vさんは、数秒間、黙っていた。
そして、鞄をつかむと、今度こそ立ち上がった。
「これはいかん。若い者たちに、また小言を言われてしまう」
彼は、会場へ向かって歩き出した。
完璧なシステムは、まだ見つかっていない。
完璧な人間も、どこにもいない。
けれど、失敗したあとに、もう一度立ち上がることはできる。
DOS/Vさんは、そう信じていた。
そして彼は、会議室の扉を開ける直前、ふと思った。
「さて……。あの子たちは、何を守ろうとしているのかな」
その問いが、午後の議論を、もう一段深い場所へ連れていくことになる。
東陽町の午後は、まだ終わらなかった。




