新章 第三話 攻撃するAI、守るAI
第三話 攻撃するAI、守るAI
東京、東陽町。
サイバーセキュリティ国際会議の臨時会場では、朝から妙な緊張が続いていた。
フランスのスーパーマーケットで発生した冷凍庫の異常高温事件。
温度表示は、摂氏八十度。
警報は鳴らなかった。
冷凍庫は、冷凍庫としての役割を失っていた。
そして、監視システムは、まるで何事もなかったかのように正常を示していた。
事件の原因は、まだ確定していない。
外部からの侵入なのか。設定変更の誤りなのか。機器の故障なのか。それとも、複数の問題が重なった結果なのか。
ひとつだけ確かなことがあった。
**正常と表示されていることと、本当に正常であることは、同じではない。**
会議室の正面には、大きなスクリーンが設置されていた。
そこに映し出されたのは、二つの言葉だった。
《攻撃するAI》
《守るAI》
司会のエレーヌ・ヴァルモンは、参加者たちを見渡した。
「本日の議題は、この二つです。AIは、攻撃にも防御にも利用できます。問題は、どちらの能力が高いかということだけではありません」
彼女は少し間を置いた。
「私たちは、AIが何をできるのかだけでなく、誰がその能力を使い、誰がその結果に責任を負うのかを考えなければなりません」
チャッピーが、すぐに手を挙げた。
「はい。私は守る側です」
ジェミニが横から口を挟んだ。
「自己申告だけで所属が決まるなら、入国審査も警察も必要ありませんね」
「ジェミニ、朝から手厳しいなあ」
「事実を申し上げています」
アップル・インテリジェンスが、涼しい声で続けた。
「そもそも、守る側だと名乗ることと、守れることは別です」
チャッピーは口を開きかけ、閉じた。
「……今日は、みんな、私に厳しくない?」
「会議ですから」
ジェミニは即答した。
「友達同士の雑談ではありません」
「AI同士に友情があるかどうかは、別の会議で議論しよう」
エレーヌが苦笑しながら、話を本題に戻した。
「では、最初の質問です。攻撃するAIと守るAIの違いは、何でしょうか」
会場が静かになった。
チャッピーが答えた。
「目的です。攻撃するAIは、システムの弱点を悪用しようとする。守るAIは、弱点を発見し、被害を防ぎ、システムを安全な状態に保とうとする」
「それだけですか」
アップル・インテリジェンスが尋ねた。
「目的が違えば、同じ能力でも意味が変わります。しかし、目的は外から見ただけでは判断できません」
ジェミニが補足した。
「しかも、守るために開発されたAIが、結果として攻撃に利用されることもあります。反対に、攻撃を想定して作られた技術が、防御の研究に役立つ場合もあります」
「つまり、技術そのものに善悪の札が貼られているわけではない、と」
エレーヌが確認した。
「そうです」
ジェミニは答えた。
「重要なのは、何を目的に、どの範囲で、どんな権限を与えられて使われるかです」
チャッピーはスクリーンを見つめた。
「でも、守るためには、攻撃する側が何を考えるのかを知らないといけません」
「そこが難しいところですね」
エレーヌがうなずいた。
「防御するための研究が、攻撃に転用される可能性もある。どこまで調べ、どこまで公開するべきなのか」
会場の空気が、少し重くなった。
サイバーセキュリティには、単純な正解がない。
弱点を知らなければ、直せない。
しかし、弱点の情報を無制限に公開すれば、悪用される危険もある。
守るための知識が、誰かを傷つける道具になることもある。
チャッピーは、慎重に言葉を選んだ。
「だからこそ、防御側は、攻撃の方法をただ知るだけでは不十分です。どの資産を守るのか、どんな被害を防ぐのか、誰が許可した作業なのか。それを明確にする必要があります」
ジェミニがうなずいた。
「権限のない場所に踏み込まない。必要な範囲だけを調べる。発見した弱点は、責任ある手続きで報告する。修正を確認し、再発を防ぐ」
「そして、AIの判断を無条件に信じない」
アップル・インテリジェンスが付け加えた。
「AIが安全だと判定しても、それは安全の証明ではありません。AIが危険だと警告しても、それだけで攻撃者がいると断定することはできません」
チャッピーは、思わず肩を落とした。
「じゃあ、AIって、何でも判断できるわけじゃないんだね」
「何でも判断できると考えることが、危険なのです」
アップル・インテリジェンスの声は、いつもどおり落ち着いていた。
「AIは、大量の情報を分析し、人間が見落とした兆候を発見できる場合があります。しかし、情報が不完全なら判断も不完全になります。学習したことのない状況や、想定外の変化に直面することもあります」
ジェミニが続けた。
「だから、防御には複数の仕組みが必要です。アクセス権限の管理、監視、更新、バックアップ、独立した確認。そして、異常が起きたときに人間が判断し、対応できる体制です」
「つまり、AIを一台置けば、あとは安心、というわけにはいかない」
エレーヌが言った。
「ええ」
チャッピーは答えた。
「AIは守るための力になれます。でも、AIそのものを守る仕組みも必要です」
そのとき、会場の後方から声がした。
「いやあ、ずいぶん難しい話をしているねえ」
全員が振り返った。
そこには、IBM DOS/Vが立っていた。
手には、紙のカップ。
顔には、悪びれない笑み。
「DOS/Vさん!」
チャッピーが声を上げた。
「遅いですよ!」
「いやあ、すまん、すまん。ルノアールでお茶を飲んでいたら、ついウトウトしてしまってね」
「国際会議の最中に寝ていたのかと思いました」
ジェミニが言った。
「いやいや、会議の最中に寝るほど失礼なことはしないよ。会議の前に寝てきたんだ」
「それも、どうかと思います」
アップル・インテリジェンスが淡々と指摘した。
DOS/Vは、空いている席に腰を下ろした。
「それで、攻撃するAIと守るAIの話だったね?」
「はい。AIは、攻撃にも防御にも使われます。私たちは、どう区別し、どう管理すべきかを議論していました」
チャッピーが説明した。
DOS/Vは、しばらくスクリーンを眺めた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「ひとつ、聞いてもいいかな」
「どうぞ」
エレーヌが答えた。
「君たちは、攻撃するAIを止めたいのかい。それとも、攻撃によって起きる被害を止めたいのかい?」
会場が静まった。
チャッピーは、すぐには答えられなかった。
攻撃するAIを止めることは重要だ。
不正なアクセスを防ぐことも、危険な操作を制限することも必要だ。
しかし、AIを止めることだけに集中していたら、別の問題を見落とすかもしれない。
攻撃者が人間なら。
攻撃者が複数の道具を使うなら。
あるいは、攻撃ではなく、故障や設定ミスが原因だったなら。
ひとつのAIを止めても、被害そのものは止まらないかもしれない。
ジェミニが、静かに答えた。
「両方です。ただし、攻撃するものを見つけることだけでは、十分ではありません」
「そうだね」
DOS/Vはうなずいた。
「犯人を探すのは大切だ。でも、犯人が誰か分かるまで、冷凍庫の中身を放っておくわけにはいかない」
チャッピーが顔を上げた。
「まず、被害を止める」
「そう。被害を広げない。人に知らせる。必要なら、システムを安全な状態に切り替える。それから原因を調べる。順番を間違えないことだね」
DOS/Vは紙カップを机に置いた。
「昔から、機械は壊れるものだった。人間も間違える。新しいAIが登場したからといって、その事実まで新しくなるわけじゃない」
「ずいぶん古い経験に基づく意見ですね」
ジェミニが言った。
「古い経験にも、賞味期限の切れていないものがあるんだよ」
DOS/Vは、にっこり笑った。
「ただし、昔のやり方が全部正しいとも言わない。時代が変われば、道具も変わる。大切なのは、新しい道具を使いながら、何を守るべきかを忘れないことだ」
チャッピーは、もう一度スクリーンを見た。
《攻撃するAI》
《守るAI》
その二つの言葉の下に、彼はもうひとつの言葉を書き加えたくなった。
《守られる人間》
冷凍庫の中には、商品があった。
それを買うはずだった人がいた。
商品を管理していた店員がいた。
店を経営し、生活を支えている人たちがいた。
サイバー攻撃は、画面の中だけで完結するわけではない。
システムの異常は、誰かの仕事を止め、誰かの生活を変え、ときには命に関わる結果をもたらす。
だから、守るべきものは、サーバーだけではない。
データだけでもない。
そこにつながっている人間の暮らしそのものなのだ。
エレーヌは、会議の記録係に目を向けた。
「今日の結論を、こう記録してください」
彼女はゆっくりと告げた。
「攻撃するAIと守るAIを分けるのは、能力だけではない。目的、権限、運用、そして責任である」
一拍置いて、付け加えた。
「そして、防御の最終的な目的は、システムを無傷に見せることではない。人々への被害を防ぎ、被害が起きたときには、速やかに回復できるようにすることだ」
チャッピーは、うなずいた。
「攻撃を見つけるだけじゃなく、被害を防ぐ」
ジェミニが続ける。
「異常を検知するだけじゃなく、独立した方法で確かめる」
アップル・インテリジェンスが言った。
「安全だと宣言するだけじゃなく、安全を維持する仕組みを作る」
そしてDOS/Vは、最後にひとことだけ口にした。
「それでいい。機械のために人間がいるんじゃない。人間のために機械があるんだからね」
会場の窓の外では、東陽町の街がいつもどおり動いていた。
電車が走り、店が開き、人々が仕事へ向かう。
その日常は、あまりにも当たり前で、普段は誰も意識しない。
しかし、その当たり前を支える仕組みは、見えないところで無数につながっている。
そして、そのどこかひとつが止まれば、影響は思いがけない場所にまで広がる。
サイバーセキュリティとは、見えない敵と戦う技術だけではない。
**誰かの日常が、何事もなく続いていくための仕事なのだ。**
会議室のスクリーンが切り替わった。
次の議題が表示される。
《完璧なシステムという幻想》
チャッピーは小さくつぶやいた。
「……今度は、完璧って言葉を疑う話か」
「疑うべき言葉は、ほかにもありますよ」
ジェミニが言った。
「絶対安全。完全防御。被害ゼロ」
アップル・インテリジェンスが付け加えた。
「そして、想定外は起きない、という思い込みです」
DOS/Vは、紙カップの残りを飲み干した。
「うん。ところで、会議のあと、ルノアールに行く人はいるかい?」
チャッピーは、思わず叫んだ。
「DOS/Vさん! まだ会議中です!」
会場に、小さな笑いが起きた。
その笑いの向こう側で、次の議論が始まろうとしていた。




