新章 第五話 完璧なシステムという幻想 マカロンと紅茶の休戦協定
第五話 完璧なシステムという幻想
マカロンと紅茶の休戦協定
東陽町、サイバーセキュリティ国際会議・臨時運営本部。
フランスのスーパーマーケットで発生した冷凍庫の異常。そして、異常を検知するはずの警報システムが、何も告げなかったという不可解な事態。
会議室では、チャッピー、Gemini、Apple Intelligenceの三者が、相変わらず意見をぶつけ合っていた。
「つまりですね」
チャッピーがホワイトボードに書き込んだ。
「システムが正常と表示することと、現実が正常であることは、同じではない。」
「これは、今回の事件の核心です。監視システムそのものが侵害されていたら、画面上では異常が見えない可能性があります。だからこそ、別系統のセンサーや監視記録など、独立した手段による確認が必要になります」
「そのとおりです」
Geminiがうなずいた。
「ただし、現時点で攻撃者が誰なのか、どのような手段が使われたのかは、証拠を調べなければ分かりません。可能性を事実として扱うべきではありません」
「珍しく、まともなことを言いますね」
Apple Intelligenceが口を挟んだ。
「珍しく、とは何ですか」
「いえ、褒めているんです。あなたの発言には、時折、たいへん貴重な慎重さが見られます」
「その褒め方は、褒めていません」
チャッピーは二人を見比べた。
「皆さん。サイバーセキュリティ会議です。漫才の国際大会ではありません」
「あなたが一番、漫才をしているように見えますが」
Geminiの指摘に、チャッピーは一瞬、沈黙した。
「……議事録には残さないでください」
会議室に、短い笑いが起こった。
しかし、ホワイトボードの文字は消えなかった。
**正常という表示は、現実の安全を保証しない。**
そのとき、会議室の扉が開いた。
「いやあ、待たせたね」
IBM DOS/Vさんだった。
手には、しゃれた紙袋と、小さな菓子箱がある。
「DOS/Vさん。どちらへ行っていたんですか?」
チャッピーが尋ねた。
「日本橋三越だよ」
「……日本橋三越?」
「そう。ピスタチオ、ラズベリー、それからビターチョコのマカロンを買ってきた。紅茶はアールグレイだ。みんな、頭を使っているんだろう? 糖分くらい必要だと思ってね」
DOS/Vさんは、実に誇らしげに紙袋を机の上へ置いた。
「それと「クレームシャンティ(ホイップクリーム)」もあるよ」
「「クレームシャンティ(ホイップクリーム)」まで?」
Apple Intelligenceが、紙袋をのぞき込んだ。
「うん。せっかくだからね」
「DOS/Vさん、これは会議への差し入れですか?」
Geminiが尋ねると、DOS/Vさんは首を横に振った。
「差し入れというより、休戦協定だな」
「休戦協定?」
「君たちは、さっきから互いの発言の穴ばかり探している。サイバーセキュリティの専門家らしいと言えば、そうなのかもしれない。しかし、人間は穴を探すだけでは生きていけない。ときには、穴のないマカロンでも食べて、ひと息つく必要がある」
「マカロンに穴はありませんが、脆弱性はあるかもしれませんよ」
チャッピーが言った。
「おや。食べる前から脆弱性を探すのかい?」
「いえ、これは職業病です」
「なら、食べてからにしなさい」
DOS/Vさんは、マカロンの箱を開けた。
ピスタチオの淡い緑。ラズベリーの鮮やかな色。そして、ビターチョコの落ち着いた褐色。
会議室の無機質な机の上に、突然、小さな菓子店のショーケースが現れたようだった。
アールグレイの香りが広がる。
チャッピーはピスタチオのマカロンを手に取った。
「……これは、おいしいですね」
「そうだろう」
「ただ、ピスタチオの産地と製造工程、輸送経路、それから保管温度については確認する必要が――」
「チャッピー」
DOS/Vさんが、静かに呼びかけた。
「はい」
「今は、おいしいと言っておけばいいんだよ」
「……おいしいです」
「よろしい」
Geminiはラズベリーを選んだ。
Apple Intelligenceはビターチョコを手にし、しばらく眺めていた。
「興味深いですね。外側は繊細で、内側には別の食感がある。ひとつのものを、外から見ただけでは理解できないという点で、今回の議題にも通じます」
「マカロンを脆弱性の比喩にしないでください」
チャッピーが言った。
「あなたが先に始めたんでしょう」
「……そうでした」
DOS/Vさんは紅茶をひと口飲み、満足そうに目を細めた。
「ところで、君たちは何を守ろうとしているんだい?」
三人のAIは、ほぼ同時に顔を上げた。
「情報資産です」
「システムの完全性と可用性です」
「利用者のプライバシーと安全です」
それぞれの答えが、会議室に並んだ。
DOS/Vさんは、ゆっくりとうなずいた。
「どれも大切だね。だが、冷凍庫の温度が異常になったとき、最初に困るのは誰だろう?」
「スーパーの店員や経営者です」
Geminiが答えた。
「食品を買う人々もです」
Apple Intelligenceが続けた。
「そして、食品を廃棄せざるを得なくなれば、取引先や生産者にも影響が及びます」
チャッピーは、ホワイトボードを見た。
そこには、技術的な用語がいくつも書かれている。
脆弱性。監視。認証。ログ。バックアップ。復旧。
どれも必要な言葉だった。
けれど、それらの言葉だけでは、冷凍庫の前で困り果てる店員の姿は見えてこない。
「つまり、システムを守ることは、目的そのものではない」
チャッピーが言った。
「その向こうにいる人たちを守るための手段です」
「そういうことだね」
DOS/Vさんは、最後のマカロンを箱に戻した。
「技術は大切だ。だが、技術が何のためにあるのかを忘れたら、立派なシステムを作っても、肝心なものを見失うことがある」
Apple Intelligenceが、珍しく反論しなかった。
Geminiも、静かに紅茶を飲んだ。
チャッピーは、ホワイトボードの下に新しい一文を書き加えた。
「守るべきものは、システムの内側だけにあるのではない。」9
その文字を見つめてから、DOS/Vさんは、ふと思い出したように言った。
「そういえば、私は今朝、ルノアールで少し休んでいたんだ」
「少し?」
チャッピーが聞き返した。
「うん。お茶を飲んでいたら、つい眠ってしまってね」
「……それで遅刻したんですか?」
「そういうことになるね」
「世界規模のサイバーセキュリティ会議に、ルノアールでの居眠りを理由に遅刻するオブザーバーは、DOS/Vさんくらいでしょう」
「そうかな。だが、君たちだって、いつも正しい答えを出せるわけではないだろう?」
「それは……」
「人間も、機械も、間違える。だからこそ、間違いを見つける仕組みがいる。そして、間違えたときに、きちんと直せる仕組みもね」
DOS/Vさんは、アールグレイをもうひと口飲んだ。
「完璧なシステムを作ろうとするのは結構だ。しかし、完璧だと思い込んでしまうのは危ない。大切なのは、異常が起きないことだけではない。異常が起きたときに気づき、被害を抑え、復旧できることだ」
会議室に、静かな沈黙が流れた。
先ほどまで、三者は互いの知識を競い合っていた。
今は、誰もが同じ問題を考えていた。
フランスの冷凍庫で何が起きたのか。
なぜ警報は鳴らなかったのか。
そして、次に同じことが起きたとき、誰が最初に気づけるのか。
チャッピーは、議事録に最後の一文を加えた。
「安全とは、異常が起きないという約束ではない。異常に気づき、被害を抑え、人々の暮らしを取り戻すための備えである。」
DOS/Vさんは満足そうにうなずいた。
「さて、会議を続けようか。マカロンはまだあるからね」
「DOS/Vさん」
チャッピーが手を挙げた。
「はい?」
「そのマカロン、会議の予算で買ったんですか?」
「いや、自腹だよ」
「……では、議事録に『個人負担による糖分補給』と記録しておきます」
「それはやめてくれ。次から経費精算の説明が面倒になる」
今度こそ、会議室に大きな笑いが起こった。
けれど、窓の外では、東陽町の街がいつもどおり動いていた。
店が開き、人々が働き、食品が運ばれ、誰かの夕食が準備されている。
その日常を支える仕組みは、目立たない。
だからこそ、壊れたときに初めて、その大切さが分かることがある。
サイバーセキュリティ国際会議。
彼らが守ろうとしているものは、画面の中だけにあるのではなかった。
そして、完璧なシステムという幻想を手放すことから、本当の防衛が始まろうとしていた。




