復讐者
マラク少年が帰宅の途についた翌日、古びた黒い館の 守り人は自室の机で頬杖をついていた。
青い背表紙の分厚い本のページを水色の瞳でゆっくりと追っていく。
開かれた窓から優しい風が室内に入り込み、レースのカーテンが揺れる。二羽のスズメが小さく鳴きながら窓の縁に止まった。
羽を休めに来たのか。それとも秋の実りを探し求めてきたのか。招いたつもりのない来客は、寄り添うようにその身を寄せ合っていた。
スズメは春から夏にかけての繁殖期、つがいで行動して巣作りや子育てを行うと言うが、現在は初秋。
このスズメ達は自分たちの生態の常識から少し外れたつがいなのか。 黒い眼帯をつけた若く美しい女は、そんな事を頭の中で思案しながら自分も常識の枠からは外れた存在である事を再認識していた。
つがいのスズメ達が急に窓から羽を広げ飛び立った時、ラファルは開いた本を机に残したまま椅子から立ち上がった。
部屋のドアの前に立て掛けていた細剣を手に持ち、階段の手すりに左手を触れさせゆっくりと降りていく。
程なくして館の外に出たラファルは、前方に人馬を確認する。 それは白銀の鎧、兜、盾、剣で武装した騎士のような男だった。
男は馬から降り、真っ直ぐにラファルに向かって歩いて来る。
「俺の名はウォルンド・マルキリー。十年前、貴方に殺された騎士団長フェルンド・マルキリーの息子だ」
ウォルンドは凛々しい両眼で黒い眼帯の女を睨みつける。そして内心で驚愕していた。
十年前、父の死を息子であるウォルンドに知らせた従者の話では、黒い館の守り人は二十歳前後に見える赤い髪の女だった。
だがウォルンドの目の前に立つレザーコートに身を包んだ美しい赤い髪の女は、二十歳のウォルンドと変わらぬ若さだった。
「······怪しげな魔術を使っているのか。それとも化け物の類か」
ウォルンドは自分の中に立ち込める迷いの靄を振り払うように、腰から長剣を抜き放つ。
「貸金庫の守り人よ。父は貴方と正々堂々と一騎討ちの果てに敗れ死んだ。貴方を恨む筋は無いが、息子として父の無念を晴らす。尋常に勝負してもらいたい」
「······白銀の鎧の騎士よ。貴方は父の仇を取りに来たのであって館の貸金庫が目的では無い。と言う事かしら?」
「······父の名誉のために貴方に言っておきたい。父が十年前に貸金庫を狙ったのは国王の勅命ゆえ。決して私事の為ではない」
両目を閉じ、若々しい顔を歪めながら父の代弁をするウォルンドに、ラファルはさして興味が無さそうに冷めた両目で腰から細剣を静かに抜く。
「······貴方の父上の事情は分かったわ。だが、そこから一歩でも館に近づくのなら殺す。それだけよ」
ウォルンドは精悍な顔つきを取り戻し、覚悟を決めたようにラファルに向かって駆け出す。若き騎士の第一撃は、空気を切り裂く鋭い突きだった。
ラファルは長身だったが、ウォルンドの体格は更にその上をいった。若き騎士の重い突きを黒い眼帯の女は細剣で受け流す。
二本の剣が火花を散らし耳をつく金属音がさく裂する。ウォルンドの先制攻撃は凄まじい反撃で報われた。
ラファルは相手に対して身体を横に向け、右手に握った細剣で刺突の連撃を繰り出す。ウォルンドは左手に持つ盾でそれを防ぐ。
そして盾から腕に伝わる衝撃は若き騎士を驚かせた。身長は高いが細身の女の膂力では無かった。一気に守勢に立たされたウォルンドは、乱れる己の精神の手綱を必死に制御しようとしていた。
黒い眼帯の女の僅かな隙を探り、雨のように振り注ぐ死の一撃を凌ぎ続ける。ウォルンドに止めを刺そうとラファルが一歩踏み込んだ時だった。
「うおおおっ!!」
ウォルンドはその瞬間、盾と自らの身体を黒い眼帯の女に体当たりさせる。盾が異音を発し、若き騎士の突進は突然停止した。
女との体重差を考えても、吹き飛ぶのはどう考えてもラファルの筈だった。理解不能の現象の謎を解くべく、ウォルンドは盾の先を覗き込む。
若き騎士は両目を見開き呆然とする。ウォルンドの盾は、否、若き騎士の全体重は黒い眼帯の女の左手一本で止められていた。
そして白い綿手袋が着けられていたその左手が隆起し、赤く鋭い爪が伸び盾を切り裂いた。
鉄の盾が三つに切断され、ウォルンドが見たのは、無慈悲なほど冷徹なラファルの青い目だった。
「ぐうっ!?」
黒い眼帯の女はそのまま左手でウォルンドの首を掴み、自分の身長より高く持ち上げる。呼吸を強制停止された若き騎士は悶え苦しむ。
ラファルは右手に持った細剣を構え、その剣先をウォルンドの心臓に向けた。
「待ってラファル! その人を殺さないで!」
その時、聞き覚えのある声がラファルの聴覚に届いた。首を横に向けると、そこには、昨日この黒い館から去った筈の少年マラクが立っていた。
「その人は僕を助けてくれた人なんだ。お願いだから殺さないで!」
マラクは全力で走りながらラファルに叫ぶ。その時ウォルンドは苦しむ中、違う意味で衝撃を受けていた。
あの冷徹無比な黒い眼帯の女の目から戦意が消え失せていた。
ドサッ。
首の戒めから解放されたウォルンドは、腰を地面に打ちつけ背中から倒れる。自らの首に手を当て何度も咳き込む。
「······マラク。どうしてまたここに来たの?」
右足を引きずりながら、息を激しく切らし駆け寄った少年にラファルは静かに問いかける。マラクは騎士との事を語りだした。
昨日、マラクが険しい山道を登っていた時、石に足を取られ足首を捻挫してしまった。そこへ、余りの難路に不機嫌そうな顔をした馬を引き連れ歩いていた騎士が通りかかった。
若き騎士はマラクと重い荷物を馬に乗せ、少年の集落まで送ってくれた。その騎士の向かう先を見て、マラクは一抹の不安を感じた。
「······やっぱりあのお兄さんはラファルの元へ来たんだね。間に合って良かった。お願いだラファル。あのお兄さんは善良な人だ。どうか殺さないで欲しい」
「······善良かどうかは関係ないわ。この館に害を成す者は必ず殺す。それが決まりなの」
「決まり? それはラファルが決めた事なの?」
「違うわ。私が決めた事じゃない。でも、私はその掟に従っているの」
「その掟はここにはいないよ。掟をどう決めるかは、ここにいるラファル自身だ」
少年の迷いの無い両目とその言葉に、黒い眼帯の女は表情が凍りつく。
長い時間、自分で思考する事を放棄し続けていたラファルにとって、マラクの台詞は眠っていた感情を刺激するものだった。
「······ウォルンドと言ったわね。勝負はついたわ。二度とここには来ないで。次は無いわ。覚えておきなさい」
ラファルはそう言うと、踵を返し黒い館へ向かって歩いて行く。ウォルンドは拳を地面に叩きつけ自分の不甲斐なさを罵る。
「お兄さん、良かった無事で」
マラクがウォルンドの元へ歩み寄り、昨日の恩人の命が助かった事を喜ぶ。
「······今日は君に助けられたな少年。君はあの女と一体どういう関係なのだ?」
「······恩人だよ。ラファルも僕の恩人なんだ。だからその恩を返したい。ううん、ラファルを守れるくらい強くなりたいんだ」
マラクの顔はもうウォルンドに向けられていなかった。レザーコートを纏った長身の女の後ろ姿を追うように、足を引きずりながらマラクは歩き出した。
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「虚無の街」
ヴィクトリア・ハーガット著
虚無の街ネアン。掠れた文字で書かれた古書の中には、確かにその名があった。
その街では、心の無い人間達が空虚な日々を送っていた。
何も感じない旅人は考えた。この街こそ自分が居るべき場所だと。
天啓を受けた旅人を祝福するかのように、大雨を降らした雲間から光が射し込む。
旅人は歩き出す。自分が居るべき居場所を求めて。




