未来への先行投資
黒い館の玄関扉の踊り場では、赤い髪の女が直立不動の体勢で腕を組んでいた。長身の女が見下ろす先には、肩を小さくして俯く少年が立っていた。
「······マラク。どうしてまたここに戻って来たの。ここはとても危険な場所なの。すぐに自分の家に帰りなさい」
「······ラファル。僕をこの館で働かせてくれないかな? ここで、ラファルの側で働きたいんだ」
少年は強い決意を秘めた表情で黒い眼帯の女の右目を真っ直ぐに見上げた。だが、ラファルの青い目は冷たく少年の覚悟を跳ね除ける。
「······昨日のような武器防具を片付ける仕事はいつもある訳ではないの。私の役目に人手は必要ないわ。帰りなさい」
ラファルの拒否姿勢はマラクの予想の範疇だった。漆黒の館は小さいながらも清潔に保たれており、ラファルは料理を作る事も不得手では無かった。
どう考えてもこの館で小柄で非力な少年が働ける道理が無かった。だが、少年は考えに考え抜いたある提案をラファルに話す。
「······未来への先行投資?」
赤い髪の女は少年の言葉に怪訝な顔を見せる。
「そう。僕は確かに今は何の役にも立たない。でも、何年後かは分からない。掃除も料理も覚えるし、力仕事もこなせるようになる。そしてラファルを守れるくらい強い剣士になる。いつかラファルが危険な目に遭った時は、僕がラファルを守る。必ず守るから」
少年の汚れを知らない純粋な瞳が揺れ、流血の無限地獄にその身を置く女の右目を見つめる。ラファルはマラクの両目を正視するのが困難になってきた。
「······マラク。ここに居るということは、数多の命を奪うということなの。貴方に人が殺せるの? それは、とても罪深いことなのよ」
「······構わないよ。僕はもう天国に行けなくてもいい。人を殺めて地獄に落ちてもいい。僕は僕に手を差し伸べてくれたラファルを守れればいい。それ以外は必要ないんだ」
「······貴方の家族は? 貴方に何かあったら、母親と妹はどうなるの?」
「家族も僕が守るよ。僕は絶対に死なない。強くなって、ラファルも母さんも妹も必ず守る」
マラクの身長は長身のラファルの胸までしかなかった。その小さな少年が、重い岩のような動かし難い決意を滲ませていた。
黒い眼帯の女は小さくため息をついた。今この場での少年の説得を断念し、マラクを台所部屋のテーブル前の椅子に座らせた。
ラファルはマラクの右足のブーツを外した。その時少年は苦痛で顔を歪める。細い右足首は、赤く腫れ上がっていた。
「捻挫は絶対に動かしてはいけないの。こんな状態で家からここまで歩いて来るなんて、無茶もいいところよ」
「······ごめんなさい」
マラクはさっきまで威勢が消え失せ、意気消沈したように俯く。すると、ラファルが右手を患部に添えた。その途端、女の右手が青白く輝く。
「ラ、ラファル? これは?」
「治癒の呪文よ。私は魔法は不得意で効果も弱いけど、応急処置にはなるわ」
ラファルが言う通り、青白い光は弱くどこか頼りなかった。それでもマラクは自分の足首の痛みが和らぐことを感じていた。
「······一週間は歩けないわね。昨日持って行った食料はどれくらい保つの?」
「心配しないで。母さんと妹の二人なら十日は保つから」
「······そう。暫くここで捻挫を治しなさい。但し、さっきの話を受け入れた訳じゃないわよ」
マラクは殊勝に頷きながら、内心では自分の計画通りに事が運んだ現状に狂喜していた。
ラファルなら捻挫を治す期間、この館に留まらせてくれるとマラクは予想していた。 怪我が治るまでの間に、何とかラファルを説得する。
それがマラクの描く青写真だった。だが、計画の一幕目が上手く行った事よりも、ラファルが捻挫の治療をしてくれた行為が何よりマラク少年の心を満たしていた。
歩けるようになるまで期間を区切った館への滞在。ラファルはその後は少年を元の家へ帰すつもりだった。
黒い眼帯の女の思惑は、その後見事に破綻することになるのだった。
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「虚無の街」
ヴィクトリア・ハーガット著
旅人はマールジャーラと名乗る生き物に出会った。
四本の足で仰々しく歩き、黒い毛で覆われている顔の中からは鋭く細い目が光っていた。
マールジャーラは心の無い旅人を欠陥品だと悪しざまに罵った。
頼みもしないのに旅に付いてくる四足歩行の生き物に、旅人は一切の不満を口にしなかった。
何故なら、マールジャーラが虚無の街の場所を知っていたからだった。




