4. ついてこい
光に驚き、思考もできないまま目を閉じた。
まぶたの裏が白く焼けている。周囲の喧騒も剣戟の音も、すべてが遠くなっていく。
しばらく私は頭を抱えて目を閉じていた。
――そして何も聞こえない空間で、恐る恐る目を開けたそこには、セトウチの海が広がっていた。
綺麗なセトウチの海。
島が並ぶセトウチの海。
……さっきまでヒメジ城の応接室にいたはずなのに。
「サルか」
その声が聞こえた瞬間、全身の毛穴が一瞬で全て開いて冷や汗がどばどばと出始める。
いや、毛穴どころか心臓すら止まったのではないかと思った。
あまりにもドスの利いた声。
私がかつて感じたどんな恐怖よりも強い何かが背骨を這い上がってくる。
皇帝ムラカミの声を初めて聞いた時、私はセトウチのカキになりたいと心から願った。
――この声は、そんな皇帝さえ凌駕する恐ろしい響きを放っている。
聞いた人間はその場で遺書を書き始めるだろう。
遺書どころか辞世の句まで詠み終えるだろう。
人々がこの人物を恐れ、敬い、そして呼ぶ名前は。
『魔王』――六代魔王オダノブが、そこに立っていた。
「サルか。我が封印を解いたのだな」
私の横でトミヒデの体が震えていた。
先ほどまでの淡々とした様子はもうどこにもない。
「大儀であった」
その一言を聞いた瞬間。
トミヒデはその場に膝をついた。
あの常に冷静だった男の目から涙がこぼれ落ちていた。
ぼろりぼろりと、大粒の涙があふれて止まらない。
「オダノブ様……」
声が震えている。三手先を読む冷静沈着な男の声ではなかった。
「おかえり……なさいませ……!」
まるで祈りをささげるようなトミヒデの姿を見て。
敵のはずなのに、私は胸の奥が温かくなるのを感じてしまった。
主を失っても諦めなかった男が、主を取り戻すためだけに魔王を名乗り、勇者を討ち、軍を束ね――その全部が報われた瞬間だった。
……良かった。
「しかし世界をもう一つ創造するだなどと、神の力はもはや天災と変わらんな」
恐ろしい声が呆れたように言う。
世界をもう一つ?
私は不思議に思ったが、答える者はいなかった。
「オダノブ様。一つご報告がございます」
トミヒデが涙を拭いながら、しかし真っ直ぐに頭を下げた。
「オダノブ様を取り戻すために、セトウチを攻めないと魔王の名において誓いました」
「ふん。セトウチを手放したか」
「申し訳ございません」
「いや」
オダノブは目の前に広がるセトウチの海を指さした。
「代わりに、征服しがいのある世界が目の前に広がっているではないか」
――復活していくらも経っていないのにもう征服の話をしている。
さすが六代魔王。スケールが違う。
「ついてこい。サル」
「はい!」
先ほどまで涙を流していたトミヒデの返事は晴れやかだった。
サルと呼ばれて嬉しそうにしている人間を私は初めて見た。
オダノブがセトウチの海へと足を踏み入れる。
その背中を追って、トミヒデも海へと歩み出した。
しかし一歩踏み出したところでトミヒデは立ち止まり、そして一瞬だけ我々の方へ振り返った。
「……ありがとう」
淡々とした真剣な顔で、深々と頭を下げたのだった。
二人の姿がセトウチの海に溶けていく。
「しょうがない人ね」
ネネが苦笑いを浮かべていた。
その目はトミヒデの背中を追っている。
「どこまでも、どこまでもオダノブ様の背中を追っていく」
呆れたような、それでいてどこか温かい声だった。
「小心者で小さな男のくせに。上を見上げすぎているのよ」
そう言ってネネは、二人が消えていったセトウチの海へと足を踏み入れた。
「お姉ちゃん!」
気づいたら叫んでいた。
今がどんな状況なのかは分からない。ここがどこなのかも分からない。
でも、なんとなく分かってしまった。
このまま行ってしまったら、もう会えなくなるのだと。
ネネが足を止めて振り返った。
穏やかな顔でこちらを見ている。
「姉妹なのに、今日初めて会ったのよね」
……そうだ。
私が生まれる前に攫われ、存在すら知らなかった姉。
今日初めて顔を見て、初めて言葉を交わして、初めて一緒におでんを食べた。
それがもう最後になるなんて。
「名前は――」
「……ツユ」
私の声はかすれていた。
「ツユ」
姉は私の名前を繰り返すと、少しだけ目を細めた。
「私は魔王軍と共にトミヒデと一緒に過ごしてきたの。ずっと。あの不器用な男のそばで……」
ネネはそこで小さく笑った。
「彼についていくって――とっくに決めてたの」
そう言った姉の目をみて、私は何となく察してしまった。
それが、一人の女として選んだ道なのだと。
「もう会えないかもしれないけれど……」
姉は一瞬だけ言葉を切った。
言い淀む彼女が言いたいことは、口にせずとも分かってしまう。
それでも彼女は言ったのだ。
「でも、元気でね」
何か気の利いたことを返したかった。
妹らしく、何か一言でも。
でも喉が詰まって声にならなかった。
ネネは微笑んだまま背を向けると、二人の魔王の後を追って海へと歩み出した。
「魔王様!」
ドタバタと騒がしい足音が続く。
先ほどまでコバヤカワと剣を交えていた魔王軍の兵士たちが、武器を投げ出すようにしてオダノブの背中を追いかけていった。
いや、剣を交えていた魔王軍だけではない。
城に詰めていた魔王軍全軍と思しき大量の兵士たちが、海へと向かって走り去って行く。
そして――。
目の前のセトウチの海が、ふっと消えた。
波の音が途切れ、潮の匂いが消え、視界が一瞬暗転して。
気がつけば、私はヒメジ城の応接室に立っていた。
おでんの鍋がそのまま置いてある。生姜醤油の小皿も、食べかけの大根も。
さっきまで確かにここで向かい合っていたトミヒデの席は空だった。
城はもぬけの殻だった。
コバヤカワとヨシカワと私だけが、呆けたようにその場に残されていた。




