3. いらんことを
私は目を閉じた。
……何をどう願えばいいのだろう。
心が美しい者の願いを叶えると言われても具体的な作法が分からない。
――そもそも心が美しい者の願いだとすると、私の願いが本当に叶うのだろうか?
それにあの三女神はそんな清廉潔白みたいな娘の願いだからと叶えてくれるとは思えない。
……だが考えても仕方がない。とにかく願ってみるしかないのだ。
私は胸の前で手を組み、静かに願った。
「六代魔王オダノブの封印を解いてください」
……何も起きない。トミヒデもネネも、そして後ろで見ているヨシカワのも無表情でこちらを見ている気配を感じ取る。
否応なく高まっていく緊張感。
冷や汗が出てくる。
――もっと女神様にも分かりやすく主張すべきかもしれない……。
私は胸の前で組んだ手を一層力強く握りしめ、天に向かって宣言した。
「――穢れなきワタクシの清らかなる心でもって申し上げます!六代魔王オダノブの封印を解いてくださいいいいいい!!」
私の目は血走っていたことだろう。
ぶふっ、とネネが吹き出す音がした。
――なんだよ!!こっちはトミヒデのために頑張って祈りを捧げていると言うのに!!
当然、何も起きなかった。
うん……知ってた。
目を血走らせて叫んだところで女神様が「おお清らかじゃ!」と感動してくれるわけがないのだ。
――ちょっと落ち着こう。
私は深く息を吐く。
そもそも冷静に考えてみれば、私は復活させようとしているオダノブのことを何も知らないではないか。会ったこともない人間の封印を解いてくださいと適当に言われたところで、女神だってどうしようもないだろう。
そりゃ何も起きないわよ。
「少し聞いてもいいですか。オダノブとはどういう人だったのですか?」
トミヒデのおでんを食べる手が止まった。
無表情のまま目がわずかに細くなり、そしてぽつりと語り始めた。
「圧倒的な奇襲。神殿すらも焼き討ちにする型破り。オダノブ様は誰からも恐れられていた」
淡々とした調子だが、どこか遠くを見ているような声だった。
「そんな強権で魔王らしい魔王だったオダノブ様は……それでも統治する民の暮らしをより良くするために、あらゆることを尽くす人だった」
遠き異国の技術をふんだんに取り入れ、軍を強くするためだけでなく民の生活を良くするために日々心を砕いていたのだという。
「恐ろしい御方だった。だが恐ろしいだけの御方ではなかった」
トミヒデはそこで言葉を切った。
強面で、皆から恐れられていて。
それでも民のことを第一に考えて生きている。
――私の中で、ある男の顔が浮かんだ。
強面で、不便で、隣にいるだけで息ができなくなるような人。
アズキアイランドで「まずはこの島を富ませる」と言った人。
そして、強面に似合わず実は子供のような顔で無邪気に笑う、そんな人。
もしも彼が遠くに閉じ込められたとして。
誰にも届かない場所に封印されたとして。
私は――助けに行くだろうか?
答えは考えるまでもなかった。
さっきまで緊張で固くなっていた胸の奥が凪いでいく。
代わりに、何かが静かにあふれてきた。
こぼれないように胸に手を当てる。
私は目を閉じた。
「神様」
自然と口から出る言葉に、私は身をゆだねた。
「どうか、封印を解いてください」
気づけば目から涙があふれていた。
なぜだか分からない。悲しいわけではない。怖いわけでもない。
ただ、大切な人を失った誰かの気持ちが、胸の中で自分のもののように痛かっただけだ。
周囲はしんと静まり返っていた。
トミヒデもネネも、そして後ろのヨシカワも、誰も何も言わなかった。
しばらくそんな静寂が続いた。
◇
「何も、起きませんね」
私が言うと、後ろからそっとハンカチが差し出された。
……ヨシカワは相変わらずこういう時だけは気が利く。
私はそのハンカチを受け取って目を拭っていると、トミヒデは淡々と静かな声で言った。
「もとよりいつの時代のどんな願いかも分からんのだ。仕方のないことだろう」
その声はほんの少しだけ落胆しているように聞こえた。
なんとなく、胸が痛んだ。
「……やはり直接行って女神に願うしかないのかもしれんな」
トミヒデは静かに目を伏せ、おもむろに片手を上げると合図を送る。
ザッと、トミヒデの背後から複数の兵士が音を揃えて現れた。
兵たちが私とヨシカワを囲むように広がっていく。
「ネネが人質足り得ないことはバレたからな、新たな人質だ。……お付きも含めて悪いようにはしない」
――確かに、冷静に考えれば当然のことだ。
このまま私たちを帰してしまえば帝国が海賊を廃止する理由はなくなる。トミヒデにとってオダノブの復活は全てを賭けた悲願なのだ。交渉の材料を手放すわけがない。
むしろ今まで事情を包み隠さず話してくれたことに、この男なりの誠意があったと言えるだろう。
兵士たちがじりじりと距離を詰めてくる。
ヨシカワの手が腰の剣にかかった。
だが相手は十人以上、この人数では――と考えていたその時。
上から音もなく何かが降ってきた。
黒い影が兵士たちの間に着地した瞬間、鋭い金属音が連続で響く。
先頭の兵士二人が弾き飛ばされた。
コバヤカワだった。
「逃げろ!」
初めて聞いたコバヤカワの大声に、私は本当に跳び上がりそうになった。
「この状況を皇帝陛下に伝えるのだ!」
コバヤカワは叫びながらも剣を振るう手は正確だった。兵士たちの攻撃を捌きながら私たちが逃げる道を切り開こうとしている。
「コバヤカワが伝えるのが一番確実でしょう!」
私が叫び返すと、コバヤカワが振り向かずに怒鳴った。
「『守ってくれ』と陛下に頼まれた!」
――ああ。
あの日の光景が、命に代えても守り抜くという無言の誓いが蘇る。
確かに、ここで私が逃げ延びることができたなら。
帝国に情報を持ち帰ることができたなら。
彼は――皇帝は帝国を手放さずに済むだろう。
でもこの兵士の網を私とヨシカワだけで抜けられる?
コバヤカワが時間を稼いでくれている間にも新たな兵士が廊下の奥から駆けてくる足音が聞こえる。
トミヒデは相変わらず淡々と腕を組んだまま我々を見ていた。
焦るな、考えろ。何とか逃げ延びる術は――。
右往左往する私の肩を、ふと後ろから叩かれた。
「悪運もつきましたね、姫様」
声をかけてきたのはヨシカワだった。
彼はいつも通り飄々とした顔をしていた。
剣の柄に手をかけたまま、それでも声だけはいつものヨシカワだ。
……不思議だ。
こいつの声を聞くと、どんな時でも肩の力が抜けていく。
「運と度胸だけで切り抜けてきた人生も、そろそろここいらで終わりですかね」
私はヨシカワに笑いかけた。
笑みを浮かべていることに、自分でも驚いていた。
「いっそのこと、助けに来てくださった皇帝陛下と一緒にセトウチの島にでも隠居するのもいいかもしれませんね」
ヨシカワは飄々と返す。
「インノアイランドあたりなんか、のどかでよさそうですよ」
行ったこともない島の名前を出すヨシカワ。
――コバヤカワが敵の剣を弾き返す、ほんの一瞬の猶予の中で。
――ヨシカワが私の肩の力を抜いてくれた、ほんの一瞬の凪の中で。
――私はいつも通り言いたいことを、いらんことを、本気で口にするのだ。
「せっかくなら、彼が守りたかったセトウチの海だから」
私は天井を見上げた。
「魔王にあげてもいいように、いっそのこと二つあったらよかったのに。セトウチの海」
その言葉が口から出た瞬間。
世界が、光に包まれた。




