2. なんか人質っぽくない
私は目の前で湯気を立てているおでんの鍋を見つめた。
大根、こんにゃく、卵、ちくわ。ふつふつと静かに煮えている。
私は用意された皿をおもむろに手に取り、おでんを盛り始めた。
後ろから「え、何食べようとしてるんですか」と言いたげな気配がする。なんならドン引きしている様子すら感じるが知ったことではない。
確信があったのだ。
この魔王が毒を盛るとか、そういうくだらないことはしない。
相手の三手先を読むような男が毒などという安い手を使うものか。
「ヒメジのおでんは生姜醤油をかけて食べるんだ」
トミヒデが小皿を指さした。
生姜醤油。おでんに生姜とは変わった食べ方だ。
私は生姜醤油を受け取ると豪快にかけまわし、大根を丸ごと口に放り込んだ。
「はふはふっ!!」
熱い熱い熱い!!
大根が口の中で爆発的な熱を発している!
しかし。
はふはふ言いながら噛みしめると、出汁をたっぷり含んだ大根の旨味が口の中に広がり、生姜醤油が追い打ちをかけてくる。
醤油の濃い味付けなのに、生姜が後味に清涼感を与えて重くならない。
爽やかなおでんというのは初めての体験だ。喉を駆け抜けると、すぐに次の一口が欲しくなる。
「……生姜も意外とおでんに合うんですね」
口の中をやけどしそうになりながら私は目の前の魔王を見て言った。
アホみたいに口を押さえた私を見て、トミヒデはほんのかすかに口元を綻ばせた。
「さすがはモーリの娘。胆力があるな」
……おでんを躊躇なく食べたことを胆力と呼ばれるのは複雑な気持ちだが、まあいい。
ふとトミヒデの隣からもはふはふと聞こえてくることに気づいた。
視線を向けると、俯いていると思っていた姉が勢いよくおでんをかき込んでいた。
あれ、なんか人質っぽくない!?
確かに姉妹だから私と同じことをしていてもおかしくはないけれど……もっとこう、悲壮感漂う感じを想像していたのに。
青白い顔で鎖に繋がれて……みたいな?
私が愕然としながらおでん姉を眺めていると、トミヒデはおでんを食べつつも語り始めた。
「俺は元々、オダノブ様の部下だったのだ」
その声は先ほどまでの淡々とした調子とは少し違って聞こえた。
「サルなどと呼ばれていてなぁ……豪快なあの人からすると、俺みたいなのは確かにサルと変わらんだろうがな」
トミヒデは懐かしむように遠い目をした。
おでんの湯気の向こうで、その目はどこか寂しそうだった。
「なぜ、セトウチなんですか?」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。
魔王が進軍することに特別な理由なんてないのかもしれない。領土が欲しい、海が欲しい、それだけかもしれない。
でも寂しそうなトミヒデの顔を見ていたら、聞かずにはいられなかった。
トミヒデはおでんを食べる手を止めて言った。
「イツクシマの女神の力を借りて、オダノブ様の封印を解くためだ」
その声には、一切の迷いがなかった。
「イツクシマの女神?」
「ああ。三女神のうち、『時と空間を司る女神』の力が必要なのだ」
……え?
時と空間?
あの三柱の中にそんな大層な女神がいただろうか。
私の記憶にあるイツクシマの女神はいか女神、鹿女神、酒女神だったような……。
あの三柱の中に『時と空間を司る女神』がいるのかな。
どれだろう?どれであっても信じがたい。
「オダノブ様は時空の狭間に封印されたのだ」
トミヒデは続けた。
「この封印は施した勇者アケチにすら解けないものだった。できるとすればそれは……神ぐらいのものだ」
勇者アケチを討ってもオダノブの封印は解けなかったというわけだ。
「だから、セトウチを明け渡すように皇帝に書状を出したのですか?」
私が聞くと、トミヒデは静かに頷いた。
「魔王の軍勢で陸から攻め落とすことはできるかもしれない」
その声は淡々としていた。まるで天気の話でもするかのように。
その調子からもトミヒデに自信があることが感じられる。
「帝国は女神に守られているから海からは攻められん。だが今回はモーリの守護がない。陸からなら、落とせる」
かつてセトウチを守った二本の柱。海のムラカミ、陸のモーリ。
その片方が失われた今、陸からの守りには穴がある。
「だがそれでは無用な血が流れる。帝国を攻め滅ぼした者に、女神が手を貸してくれるかも分からんしな」
力で奪えば女神を敵に回す。力を使わなければ帝国は落とせない。
だからあの書状を出したのか。
「あの書状の真意はセトウチを明け渡させることにあったのではない。ムラカミかモーリの血を引く者と交渉するために出したのだ」
「ムラカミかモーリの血……?」
なぜここで家系の話が出てくるのだろう。
ふとトミヒデの隣を見やると、姉のネネは未だに美味しそうにおでんを食べていた。
この人質っぽくない姉と、何か関係があるのだろうか。
「女神とムラカミは約束を交わしていると言われている。ムラカミとその盟友モーリに連なる者で、最も美しい心で願い事をした者の願いを一つだけ叶える、と」
最も美しい心で、願い事を。
「その力を使えば血を流さずにオダノブ様を復活させられるかもしれない」
……なんというか、突拍子もない話ではないだろうか。
あのだらだら三女神の誰かが「時と空間を司る神」で、願いをなんでも一つ叶えてくれる?
そして最も心が美しい子孫?
どちらも現実感がない。
トミヒデは隣のおでん姉を見やった。
「彼女にも願ってもらったんだがオダノブ様は復活しなかった。……心が美しくないからだろうか」
次の瞬間、ネネはおでんを食べ続けたまま、躊躇なくトミヒデの脛を蹴った。トミヒデは「いてっ」と小さく声を漏らす。
……本当に人質っぽくない。
どちらかというと気心の知れた腐れ縁に見える。
「見ての通り、長く魔王軍と共にいるネネに人質としての効力はない。モーリとしての自覚すらほぼない」
冷静に考えれば当然のことなのかもしれない。
姉が攫われたのは私が生まれるよりも前の話だ。
物心つく前から魔王軍の中で育ち、モーリの記憶もなくここでおでんを食べて過ごしてきたならば「あなたはモーリの姫ですよ」と言われても「そうなんですね」としか言いようがないだろう。
……なんだか私と似ている。
私だって、モーリの血を引いていると知ったのはつい最近のことだ。
「オダノブ様を復活させてくれたなら、金輪際セトウチに魔王軍が侵攻しないと誓おう」
トミヒデの声が少しだけ低くなった。
「だから、どうか」
そう言って、あの淡々としていた魔王が頭を下げた。
……なんというか。
私もモーリとしての自覚は薄い。正直に言えばほとんどない。
心が美しいかと問われれば、育ての親であるサヌキ国王に通行料二倍をふっかけるような女だ。美しいわけがない。
けれど。
トミヒデの淡々と語る顔の奥にある寂しさを、私は感じ取ってしまっていた。
主を失った男が、主を取り戻すためだけにここまでのことをしてきたのだ。
魔王を名乗り、勇者を討ち、軍を束ね、城を奪い、書状を出し。
その全てがたった一つの目的のためだった。
……なんとなく、助けてあげたくなってしまったのだ。
いつもそうだ。目の前で困っている人間を見ると放っておけないのが私の悪い癖なのだ。
「本当に、女神様たちはムラカミやモーリの子孫の願いを叶えるのですか」
「ああ。ムラカミと会って約束を交わした女神は神力を落とした。時間と空間を遡行し、何かを叶えたはずなのだ」
「分かりました」
私は言った。心が清らかとも、モーリとしての自覚が強いとも言えないけれど。
「願うだけなら、願ってみせましょう」




