2. 度が過ぎている
「一回来てみたかったんですよね、ドーゴリゾート!」
私は高級温泉宿の窓を開け放って叫んだ。
話は少し遡る。
◇
先日の応接室でのこと。
サヌキ王は冷や汗をかきながら言ったのだ。
「御妃様、通行料を二倍になど。どうかそのような無体な処置はおやめいただけませんか……?」
そんなことは知るもんか……!
確かにこの耄碌じじいは私を大事に育ててくれた。それは感謝している。
だがしかし、大事に育てたことと、その大事に育てた娘を影武者として海賊の皇帝に嫁がせたことは全く別の話である。
何度死ぬかと思ったことか。
ウニホーレンの席で唾をまき散らして啖呵を切り、揚げもみじをナイフとフォークで食べ、先日も誰のものだか分からない肖像画を描いてもらった。
すべての苦労は影武者であることがバレないようにするためだ。
ついさっきもこの応接室に来るまで、処刑されるかと思っていたんだから!
静かに怒り、この耄碌じじいから搾り取れるだけ搾り取ってやろうと決意した私にサヌキ王は最後の切り札を切ってきた。
「ドーゴリゾートへの招待券では、いかがですか?」
その瞬間、私の怒りは音を立てて霧散した。
ドーゴリゾート。
それはサヌキの隣に位置する、貴族ですら容易に利用できないほどの高級リゾートだ。
歴史と格調ある建築の佇まいは他の追随を許さない品格を漂わせ、街を歩くだけで風雅な気持ちになれる。
そして食事をすれば食材にこだわった上質なグルメが舌を直撃するという。
格別な情緒が漂うリゾート地だ。
サヌキで侍女をしていた頃から、いつか行ってみたいとずっと憧れていた場所だった。
こうして私は通行料二倍を撤回して、皇帝と二人でドーゴリゾートにやってきたのである。
◇
窓の外には湯気の立つ街並みが広がっている。どこからか上品な出汁の香りが漂う。
目を潤ませ、頬を赤くし、窓枠に身を乗り出して興奮する私の後ろで皇帝が苦笑いをしていた。
「いいのか?サヌキの船の通行料を二倍にしていたら、ドーゴリゾートなんて毎年三回は行けたぞ」
皇帝が冗談めかしてそんなことを言ってくる。
「まあ別に、故郷であるサヌキからお金を搾り取って贅沢したいとは思ってませんでしたよ……」
私はそう言いながら、宿が供してくれたドーゴリゾート名物の『お坊ちゃま団子』を食べている。
小さな三色の団子が串に刺さっていて、いかにも可愛らしい。口に入れると、滑らかなこしあんの舌触りが広がり、後から上品な甘みが追いかけてくる。
お茶を一口含むと、団子の甘さをお茶の風味が爽やかなものに変えてくれる。
「でも、さすがに影武者として他国に嫁がせるのは度が過ぎていると言うか……」
私はまた団子を口に運びながら言った。
「ちょっとぐらい仕返ししたくもなりますね」
確かに帝国一強となりつつあるセトウチで発言力を高めるために、裏で政治工作したくなる気持ちは分かる。
ただでさえ、サヌキはうどん子しか生えない痩せた土地なのだから。
それでも上手く使われっぱなしというのは私の気持ちが許さなかった!
「まあ確かに、ドーゴリゾートの招待券はサヌキの懐事情から考えるとちょうどいい仕返しになるかもしれないな」
そう言いながら、皇帝もお坊ちゃま団子に手を伸ばした。
強面が小さな団子をつまんで口に入れている様子は、不釣り合いにもほどがあって。
私はクスリと笑ってしまった。
団子で腹ごしらえをした後は、ドーゴリゾート最大の名物である温泉に入ることにした。
ドーゴの温泉は肌に優しい泉質で「美人の湯」と呼ばれているらしい。
美人の湯。
なんと甘美な響きだろう。
私もこの湯に浸かれば美人になれるのだろうか。
このそばかすが消えたりしないだろうか。
……まあ、消えないだろうな。
そばかすが湯で消えるなら、サヌキの侍女時代に賃金を全額前借してでもここに来ただろう。
脱衣所で服を脱いで浴場に足を踏み入れると、もわっと湯気が顔を包んだ。
そして目に飛び込んできたのは壁一面のタイル絵だった。
山があり、川があり、鶴が舞い……なんだか雅な風景画が描かれている。
湯に肩まで浸かると、体がぽかぽかと温まっていく。
ああ……極楽だ。これは極楽に来てしまった。
不思議なものだ。
ナオアイランドでは病気の冬瓜に首を傾げるほどに芸術というものがさっぱり分からなかった私だけれど。
温泉に浸かってぼーっとしながら眺める絵は、なぜだか名画に見えてくる……。
湯気の向こうに揺れる鶴が今にも飛び立ちそうだ……。
これが芸術の力なのか、温泉の力なのかは分からない。たぶん温泉の力だと思う。
極楽極楽……。
◇
その日の夕食は、さすがドーゴリゾートと唸るほかない豪華絢爛なものだった。
鯛のご飯。
ヒラメの煮つけ。
そして、見事なさしの入った分厚いお肉がずらりと並ぶ。
一生分の贅沢をしている気分。
帝国の食事も美味しかったけれど、ドーゴリゾートの料理はまた方向性が違う。
素材の良さを丁寧に引き出す品のある味付けで、一口ごとに「ああ、高級」と思わせてくる。
そして出てくるお酒も特徴的だった。
「どうぞ、ドーゴエールでございます」
給仕が運んできたのは琥珀色の麦酒だった。
ドーゴエール。この地の名物だというこのお酒は、聞くとみかんを使った麦酒らしい。
みかん?
みかんの果実酒ではだめだったのだろうか。
なぜ麦とホップとみかんを混ぜようと思ったのか、いくらドーゴがみかんの産地でも組み合わせの発想が突飛すぎないか。
しかし、そんな疑問はこのお酒を一口飲むことで吹き飛んだ。
麦酒の苦みを飲み込んだ瞬間、爽やかなみかんの後味が喉を突き抜けていく。
みかんが麦酒を邪魔するのではなく、さらに爽やかにしているのだ。
変わった味だが、確かに合う。これは美味い。
「いや最高ですね、皇帝陛下!」
私が満面の笑みで言うと、皇帝は相変わらずの強面でドーゴエールを渋そうに飲みながら聞いてきた。
「そういえば先日聞きそびれたが、サヌキでは侍女として働いていたのか?」
先日、私を処刑台に送られる気分にさせたあの言葉だった。
しかし――。
「はい。コムギ姫の侍女として長年仕えてきました!」
今はご機嫌だった。
ドーゴエールと豪華な夕食のおかげで、何を聞かれても笑顔で返せる気がする。
皇帝は強面を少しだけ優しそうな顔に変えて、私に問いかけてきた。
「聞かせてくれ。サヌキではどんな生活をしていたんだ?」
「物心ついた頃から私は侍女でした。侍女、と言ってもサヌキは貴族と庶民の距離が近い国だから……」
そう言って、私は語った。
サヌキの神事でコムギ姫の着物の着付けを失敗して、壇上で帯が解けかけた話。
私が咄嗟に姫の後ろに立って背中を押さえ続け、なんとか誰にも気づかれずに乗り切った。
市場で売っていた「そばかすが消える」という怪しい塗り薬を全財産はたいて買った話。
塗ったらそばかすが消えるどころか顔が真っ赤に腫れて大変だった。
サヌキの夏祭りでうどん早食い大会に出た話。
サヌキの男たちに交じってうどんを鬼の形相で飲み込んでいたら姫にも国王にも呆れられた。
私のそんな他愛のないくだらない話を、彼はいつもの強面で聞いてくれた。
ときどき、あの時の子供のような笑顔を見せながら。
……いつからだろう。
この強面で、全身から険しいオーラが出ているこの人と話すのに緊張しなくなったのは。
アズキアイランドの帰りに彼の笑顔を見た時からだっただろうか。
「サヌキでは、ツユという名前だったそうだな」
「はい。うどんのツユが由来だと思っていました」
なにせサヌキは、うどんに魂をかけている国だから。
「ツユ……」
彼は静かにその名を繰り返した。
「梅雨の時期に拾われた、モーリの姫」
そう言って、彼は私の頬に手を添えた。
ごつごつした、大きな手だった。帝国を動かしてきた手。
その手の感触に、少し驚いて体が跳ねた。
……でも、不思議と嫌じゃなかった。
「モーリの姫と言われると、ちょっと笑っちゃいますね。私がお姫様と言われても、全然ガラじゃないものだから」
「いや、高貴なフリはともかくとして、度胸だけは間違いなくモーリの血を引いた娘だと確信できるよ」
そう言ってクスリと笑う彼。
私もつられて少し笑ってしまった。
その夜。
私と彼はずいぶん長いこと話し込んでしまった。
その内容を詳しく話せないのは、ドーゴエールに酔ってしまったからだ。
ただ一つ。
長年コンプレックスだったこのそばかすを、彼が気にしていないらしい、ということがよく分かった夜だった。




