4. できるじゃないか
慌てて男の小屋に駆け戻ると、意外な光景が広がっていた。
てっきり油女とうどん男が取っ組み合いの喧嘩でもしているものだと思っていた。
しかし油女は小屋の入り口で立ち尽くしていた。
口を半開きにして、男の手元を見つめている。
うどん男は油を塗った麺を二本の棒にかけ、少しずつ、少しずつ、引き伸ばしていた。
見たこともないほど細く。
前代未聞の麺が男の手の中で生まれようとしていた。
細く。
どんどん細く。
麺同士は張り付かない。油が薄い膜となって一本一本を守っている。
男の指先が震えるほどの緊張感の中で、それでも麺は切れることなく伸びていく。
それはまるで、天上から吊るされた絹の糸のようだった。
「できた……」
男は額の汗を拭いもせず、半ば放心したようにつぶやいた。
小屋の中に誰も声を出す者はいなかった。
油女も、ヨシカワも、私も。
男は震える手でその糸のような麺を湯に落とした。
わずかな時間で引き上げられた麺は、水を切った瞬間にきらりと光った。
油の薄い膜が水の粒を弾いて、まるで宝石を細く引き伸ばしたかのように輝いている。
「食ってみてくれ」
男が差し出した丼を受け取る。
私とヨシカワ、そして気づけば隣に立っていた油女もそれぞれの丼を手にしていた。
麺で持ち上げると、繊細で、しかし確かな弾力をもってついてくる。
口に運んだ。
瞬間――。
爽やかな風をまとったような清涼感が口の中に広がった。
口の中でプルプルの麺が踊っている。
信じられないほど細く、しっかりとしたコシがある。
そして細いからこそ歯を立てた瞬間にプツリと小気味よく切れる。
子供でも噛み切れる。老人でも食べられる。
男が夢見たものが、今まさに私の口の中にある。
そして、ああ、こののど越し。
あまりの喉通りの良さに喉が痙攣しそうだ。
麺が自ら滑り落ちていく。飲み込んでいるのではない。麺の方から走っていくのだ。
油の薄い膜がまとわせる滑らかさがこの奇跡のようなのど越しを生んでいる。
ああ、これは――。
「すごい……」
油女が目を潤ませながらつぶやいた。
さっきまで「泥棒!」と叫んでいた女の目から涙がこぼれそうになっている。
ヨシカワも丼を持ったまま驚いた顔で固まっている。
「これは……うどんではない」
私がそう言うと、全員の視線がこちらに集まった。
うどんではない。
でも、うどん以下でもない。
これはうどんを超えた、新しい何かだ。
「これは、この島をおいしい島にする麺です」
私は言葉を選びながら、しかし確信をもって言った。
「この島を勝利へと導く麺です。この食べ物は勝利の食べ物。呼ぶとしたらこうでしょう」
そして、丼を掲げて宣言した。
「『勝麺』と」
静寂の後、最初に動いたのはうどん男だった。
男は拳で目元を拭うと、震える手で丼を持ち上げて勝麺を啜った。
油女もいつの間にか泣いていた。自分の油が生んだ奇跡を、麺を啜りながら噛みしめている。
誰も何も言わなかった。
小屋の中に響くのは麺を啜る音だけだった。
――この島が「おいしい島」になった瞬間だった。
ひとしきり皆で勝麺を食べた後。
満腹感と多幸感に全員が酔いしれている時だった。
ヨシカワがふと、何でもないことのように言ったのだ。
「これ、この油もすごくないですか?」
◇
事態は急速に動き出した。
数日後、迎えに来た皇帝に勝麺を食べさせた。
強面の皇帝が一口啜って、一瞬止まり、そして二口目を啜って怖い顔をする。
「これを作ったのはお前か」
「いえ、勝麺男です」
「……勝麺男?」
皇帝は深くは聞いてこなかった。
ただ出来上がった勝麺をいくつも船に積み込むよう指示を出したのだった。
帝国に持ち帰られた勝麺は、諸侯たちの舌を直撃した。
あまりののど越しにサヌキの重鎮すら「これを我が国にも」と欲しがったという。
うどんの国の人間がうどんでないものを欲しがることが、どれほどのことかサヌキで生まれた私にはよく分かる。
そして皇帝は勝麺だけでなくもう一つのものを持ち帰っていた。
油女の油だ。
おそるおそる味見した諸侯たちは、一様に目を丸くした。
果物のような爽やかな香り。
口に含むとまるで水のようにさらりと広がる口触り。
そして最後にほのかに残る甘みと苦み。
こんな油は見たことがないと諸侯たちは口を揃えた。
この油は「おりーぶ」なる果物をすりつぶして作るらしい。
あの梅のようで梅ではない果物の正体がこれだった。
油女には壮絶な過去があった。
昔、漁に出た際に海に流されたことがあるのだという。奇跡的に遠い異国の地に漂着し、そこで出会ったのがこのおりーぶだった。
油にした時の美味しさに惚れ込み、苗を抱えてアズキアイランドに戻った彼女はおりーぶを必死に育てた。
この島は雨が少なく日照時間が長い。本人は知らなかったが、その条件こそがおりーぶが最も好む環境だった。
――「何もない島」だからこそ、育つ果物だったのだ。
おりーぶ油は諸侯たちを唸らせて瞬く間に高級品として広まっていった。
アズキアイランドでは島民が一丸となっておりーぶの栽培を広げ始めた。
ただし問題がなかったわけではない。
おりーぶは実をつけるまでに長い年月がかかるのだ。
勝麺も同様だった。その美味さを聞きつけた島民たちが弟子入りを志願したが、あの繊細な技術は一朝一夕に身につくものではない。
今のところ作れるのは勝麺男ただ一人だ。
島の未来は明るい。だが潤うまでにはまだ時間がかかる。
しかしその問題を解決したのは皇帝だった。
皇帝があの日持ち帰った岩。
あの岩を石工の多い領地の諸侯に見せたところ、その硬さと色味が城の建材として極めて優秀だと判明した。
諸侯はすぐさまアズキアイランドに屈強な採掘者たちを送り込んだ。
島の岩は高級石材として取引され始め、お金が島に流れ込んだ。
そして面白いことが起きはじめた。
石材の採掘のために島にやってきた男たちが勝麺を食べ、弟子入りを志願するようになったのだ。
屈強な腕は麺を伸ばすのにも向いていたらしい。弟子は着実に増えていった。
さらに石材を買い付けに来た諸侯たちは勝麺とおりーぶ油を土産として持ち帰り、その評判がまた新たな客を呼ぶ。
島民たちはやってきた男たちに手伝ってもらい、おりーぶの苗を次々と植えていった。
石材が今日を支え、勝麺が明日を育て、おりーぶが未来を実らせる。
アズキアイランドは、瞬く間に活気のある島へと変貌していったのだ。
◇
「疲れたああぁ」
数ヶ月ぶりの船の甲板で私は盛大に伸びをした。
皇帝はその後も何度も帝国と島を往復していたが私はずっと島に残った。
おりーぶの苗を島中に広げ、油女と勝麺男の喧嘩を仲裁し、採掘に来た男たちに勝麺を振る舞い……。
気づけばおりーぶの苗は島のあちこちに根を張っていた。
勝麺男の弟子は次々と増えていた。
採掘者と訪問者は後を絶たず、港にはいつも船が停泊している。
あの老人が「この島には何もない」と呟いていた港が今は人で溢れている。
……もう大丈夫だ。
そう感じたから、私は島を離れた。
帰りの船で、私はいつものように甲板の手すりにもたれかかっていた。
隣には皇帝が立っている。
行きの船旅と同じ構図だ。
でも、あの時とは何かが違う気がした。
「結局、島にお金を運んだのは皇帝陛下でしたね」
私がそう言うと、皇帝は海の遠くに目を向けたまま少し間を置いて答えた。
「……いや。石材だけでは島民は卑屈なままだったろう」
その声は行きの船で統治者の信念を語った時と同じ、穏やかな声だった。
「島を変えたのは、お前が見出した者たちだ」
勝麺男と、油女。
あの二人が見つかったのは確かに私がきっかけだったけれど、それは偶然の産物だ。
「……予想以上の成果を上げてくれた」
皇帝がぽつりとそう言った。
その怖い顔は相変わらず怖い。
でも。
行きの船ではまともに見ることができなかった皇帝の横顔が今はなぜか目を離せない。
満足げな怖い顔。なんだか癖になりそうだ。
私は自分でも気づかないうちに、にやにやと皇帝の顔を眺めていた。
「なんだ?」
怪訝そうにこちらを見る皇帝に、私はにやけたまま聞いた。
「皇帝陛下。満足いただけましたか?」
「ああ。満足のいく結果となった」
皇帝は苦笑い交じりに答えた。
それでもやっぱり怖い顔のままだった。
イツクシマ神殿でも、アズキアイランドでも、ずっと変わらないこの怖い顔。
「じゃあ」
だから私は、いつもと同じように、不意に思ったことを口にした。
「――じゃあ、笑ってください」
皇帝の目が少し見開かれた。
一瞬、ほんの一瞬だけ、この強面で不便な皇帝が照れくさそうな顔をした。
そして。
――なんだ。できるじゃないか。子供のように無邪気な、そういう顔が。
セトウチの海風が、二人の間を吹き抜けていった。




