1. 続きってなんですか
しゃがれた声の老人は汚れた猫を抱きながら、広い港で力なく呟いた。
「この島には何もない。……何もないのだ」
――いやいやそんなに卑屈にならんでも。
なぜ、この世の終わりのような顔をした老人と対面し、ぼそぼそとしゃべるのを聞いているのか。
時は数日前に遡る。
◇
城に戻ってからの数日間、私は生きた心地がしなかった。
原因はもちろんイツクシマ神殿での皇帝の一言である。
『続きは城に戻ってからにしよう』
続き。
続きってなんですか。
いや分かっている。分かっているからこそ困っているのだ。
私の貞操が今まさに風前の灯火である。
しかし首の皮一枚のところで私の純潔は守られていた。
――皇帝が忙しかったのだ。
考えてみれば当然のこと。ムラカミ帝国はセトウチの海を牛耳る大帝国である。その長たる皇帝が二日も城を空ければ仕事が溜まらないわけがない。
皇帝は朝から晩まで右へ左へと忙しく動き回っていた。
――つまり、『続き』をする暇がないほど忙しいということだ。
政務万歳!
ありがとうセトウチの諸問題。
私はこの瞬間、セトウチの平和よりも皇帝の多忙を祈っていた。
そんな日々が続いていたある日。
ついに皇帝から呼び出しがかかったのだ。
心臓がはちきれそうだった。
ついに来たのか。ついに『続き』の時間ができてしまったのか。
覚悟を決めるべきなのだろうか。いやしかし私は影武者。
影武者が皇帝と契りを交わしたらそれはもう影武者の範疇を超えてない?
でも断れなくない?
――落ち着けツユ。とにかく行くしかない。
心の葛藤を山ほど抱えたまま皇帝の執務室の扉を開ける。強面の皇帝はいつものように怖い顔で書簡に目を通していた。
そして私を一瞥すると、彼はこう切り出したのだ。
「アズキアイランドを知っているか」
……え?
契りの話じゃないの?
私の内心はセトウチの荒波のように揺れていた。
契りの話が来ると思っていたのに島の話?
安堵と困惑……そして覚悟を決めかけていたところに食らった肩透かしに、なんだか今にも倒れそうだ。
動揺を悟られないよう、私は平静を装って聞いた。
「アズキアイランド?どこですかそれ?」
「帝国が統治する島のひとつだ」
皇帝は書簡をめくりながら答えた。
「だが、あまり振興がうまくいっていない。禄も満足に取れん状況でな」
大帝国にもどうやらそういう場所があるらしい。セトウチの海を牛耳る皇帝でも、すべてが順調ではないというわけだ。
強面皇帝に少しだけ人間味を感じた瞬間だった。
そして皇帝は、書簡から目を上げて私を見た。
「俺が直接行って立て直せないか見てこようと思うが――」
ふむ。皇帝自ら足を運ぶとは。なかなか面倒見がいいではないか。
「一緒に行くか?」
「行きません」
即答した。
我ながら見事な即答だった。
そりゃそうだ。なぜ私が行かなければならないのか。島の立て直しなんて、私にできることはない。
そんな私の即答を聞いて、皇帝は眉も動かさずに答えてきた。
「そうか。ならば諸侯の挨拶回りを代わりに受けてもらうことに……」
「やっぱり行きます」
即答した。
我ながら見事な即答だった。
諸侯の挨拶回りなど、コムギ姫の知り合いが来たらどうするつもりだ。
却下だ却下。そんなの絶対許さない。
私が手のひらをくるくると翻すので、さすがの皇帝も眉をひそめた。
「どういう風の吹き回しだ。ついさっき行かないと言ったろう」
怪訝な顔をする皇帝。
私は何も知らない離島を褒めちぎる!
「よく考えたらアズキアイランドって素敵な名前だなと思いまして」
「名前?」
「なんだかおいしいお菓子が出てきそうな名前じゃないですか。お饅頭とか出てきそう」
そう言うと、不思議なことに本当にそんな気がしてきた。
アズキアイランド。アンコ。お饅頭。
……うん、悪くない島に違いない。
「だから何もないから禄も取れないほど困窮しているんだと言っているだろう」
皇帝が深いため息をつく。
せっかく私が良いところを見つけようとしているのに、この強面は不便で夢がない。
「じゃあ私がおいしい島に変えてやりますよ!」
なぜか啖呵を切ってしまうこの口だった。
「さあ行きましょう!今日にでも行きましょう!」
もう止まらなかった。
追い詰められると余計なことを言うのもいつものことだし、余計なことを言った後に後悔するのもいつものことだ。
「……まったく、相変わらずわけが分からん」
皇帝はそう呟いたが、ほんの一瞬だけ強面が緩んだ気がした。
――今ちょっと笑った?
もう一度見るといつもの強面だったから、気のせいということにした。
こうして三日後。
我々はまたも船に揺られ、アズキアイランドへと向かうことになったのだった。
◇
船の旅。
帝国からアズキアイランドまでは丸一日ほどかかるらしい。
最近は船に乗ってばかりだからさすがに揺れにも慣れてきたのだから、我ながらたくましいものだ。
今日のセトウチの海はよく凪いでいた。
波は穏やかで空は高くて、船旅にはちょうどいい日和だ。
ちょうどいいのだが――やることがない。
ヨシカワは船の操舵で忙しそうだし、皇帝は船室で書簡を読んでいる。
暇を持て余した私は甲板の手すりにもたれかかって、近くを飛ぶ海鳥に話しかけていた。
「ねえ海鳥さん最近どう?魚は獲れてる?」
海鳥はギャアと鳴いて飛んでいった。
……うん。まあそうだよね。
「なんだ船で酔っぱらったのか」
背後から怖い声がして振り返ると、皇帝が船室から出てきたところだった。
相変わらずの強面だ。凪いだ海がこの人の顔だけで荒れそうである。
「酔ってません。……でも、今のはさすがにアホみたいでしたね」
素直に認めてしまう。あまりに晴れやかな天気なので、心まで穏やかで素直になっていた。
皇帝も手すりの隣に立ち、二人並んで海を眺める形になる。
なんだこの状況。なんだか気恥ずかしい。
「しかし誘っておきながらなんだが」
皇帝が海に目を向けたまま口を開く。
「お前がわざわざアズキアイランドまで来るとは思っていなかった。改めて聞くが、理由はなんだ?」
影武者だから諸侯に会いたくなかったんです、とは当然言えない。
咄嗟に思いついたことを口にした。
「皇帝陛下の仕事を見てみたかったからです」
言った後に、意外と嘘でもないなと自分で思った。
「ほう」
「海賊らしく島民を叩きのめして禄をふんだくるんでしょう?それを見届けてやろうかと」
軽口を叩くつもりで言ったが、皇帝に向かってこんなことが言えるようになったのかと自分で驚いていた。
皇帝は苦笑いを浮かべて言った。
「そんなことで帝国が大きくなるか」
そして海の遠くに目を向けたまま静かに語り始めた。
「ムラカミの武力を使えば、周辺の島々をひれ伏させることはできるだろう」
その声は怖い声のはずなのに、威圧感はなく穏やかに聞こえた。
「だがそれでは無用な恨みを買うだけだ。恨みで繋いだ錨はいつか鎖が切れ、足元から転覆させられるのだ」
波の音が静かに船底を叩いている。
「だからこそ各々の得意なことをやり、互いに助け合える関係を長く結んでいく。それが帝国というものだと俺は思っている」
皇帝は手すりに肘をついている。
「アズキアイランドも……島の人間が自分では気づいていない価値がきっとある。それを見つけて伸ばしてやるために行くのだ」
――海賊の言葉じゃない。
そう思った。
海の通行料を取っているから海賊なのだが、これは海の民を束ねる統治者の言葉じゃないか。
なぜだろう。
私はまっすぐ皇帝の顔を見ることができなかった。
「いっぱしの統治者みたいなこと言うじゃないですか」と茶化すこともできたはずなのに、その言葉は喉の奥で止まってしまった。
代わりに口をついて出たのは、自分でも予想していなかった言葉だった。
「おいしい島に、なるといいですね」
皇帝は相変わらず怖い顔で苦笑いしたまま「お前は相変わらずだな」と言った。
私も自分が何を言っているのか、よく分からなかった。




