東京大空襲
東京大空襲
1944年12月。マリアナ諸島から日本本土への空襲が、とうとう開始された。それはB-29による東京初空襲から始まった。
マリアナ諸島を離陸したB-29は、警戒していたマリアナ各島の日本軍により通報が行われ、本土手前の海上において最初の迎撃が行われた。
高度1万mの高高度であるため撃破できた機体は少なかったが、マリアナ諸島に残る友軍の通報を活かした迎撃が可能なことが証明された。
東京上空に差し掛かったB-29を迎え撃ったのは光毛玉であり、雲に遮られていない射界に入ったB-29を撃墜していった。
幸い雲は少なく、光毛玉は次々とB-29を撃ち落していった。
来襲したB-29はどんどん数を減らしていき、爆弾を投棄して撤退していった。
撤退を開始したB-29を海上で待ち受けていた迎撃機が襲い、数機撃破することができた。とはいえB-29は頑強であり、多数の命中弾を与えて撃破しても飛行し続けていた。
B-29による空襲は雨天や曇りの日に行われるようになっていった。
そのため重要施設への命中率は低く、焼夷弾を用いた攻撃も雨が降っていれば有効ではなかった。
1945年3月。この頃になると防空体制も整い、雲が多い日でもB-29への有効な迎撃が行えるようになってきていた。
晴れた日であれば光毛玉に頼ればよく、雲が多い日は電探管制により誘導された迎撃戦闘機と、電探連動高射砲で対応できた。電波兵器は電波妨害とのいたちごっこではあるが、どうにか対応していっていた。
そんな中、マリアナ諸島の飛行場より大規模なB-29の出撃が確認された。
ただちに通報され、爆撃圏内の地域は警戒態勢に入った。
空襲予想時間は夜間であり、夜間戦闘機が高度を取り警戒する中、B-29の大編隊は低い高度から東京へ侵入し空襲を敢行した。
光毛玉と高射砲が迎撃する中をB-29は突き進み、大損害を被りながら木造家屋が密集する市街地に焼夷弾を投下していったのである。
乾燥し風の強い時期であるため、焼夷弾による火災は延焼していった。
空襲後、消防用に配備されていた水毛玉が出動し、各地で消火に努め被害を限局させるべく奮闘した。
空襲を強行したB-29の大多数は撃墜破したものの、民間人の被害が多く、1万人余りの老若男女が無差別に焼死したのである。
この明らかに民間人を狙った無差別爆撃に陸海軍は激怒し、報復を計画した。報復案の中には、マリアナの飛行場に強行着陸して暴れまわるというものもあったが、感情では同意できても戦術としては認められなかった。
捕虜の情報から、民間人虐殺を主導した指揮官が判明し、報復の対象となった。
陸海軍は協力し、虐殺を主導した指揮官の捕縛または討ち取る作戦が練られた。
具体的には、陸軍中野学校の卒業生を中心とした隠密潜入に長けた者達を集め、件の虐殺指揮官の所在を把握し、可能なら捕縛し日本へ連行し、叶わぬのなら報復を加えることとした。
各地から適任者を選抜し、あらゆる手段を用い迅速にマリアナ諸島の日本軍と合流させた。
隠密潜入に長けた兵達はさっそく潜入を開始し、密かに潜入経路を構築、米軍基地の監視を開始した。
慎重に慎重を重ねて行われた監視の結果、捕虜の情報などを基に件の虐殺指揮官と思しき人物を特定し、またその人物はグアム・テニアン・サイパンを行き来することが分かり、報復作戦はそれを加味して練られていった。
ところが、報復作戦の要としていた硫黄島が、翌4月に米艦隊による本格的な攻撃を受けたのである。
上陸作戦が開始され、硫黄島の飛行場は使えなくなったのであった。
硫黄島はペリリュー島の戦訓から、火炎放射器対策も万全となっており、強固に構築された地下陣地には、火・水・風毛玉が配置され居住性を上げてもいた。涼しく、火山ガスも換気され続け、水も豊富に使える状況は硫黄島での長期持久戦を可能とした。
光毛玉は地上で対空戦闘を行っていたが、米艦隊の本格的な攻撃が開始されると本土へ送還された。
硫黄島は地下要塞ともいうべきものになっており、飛行場が奪われても地下陣地は健在であり続け、細いながらも補給があるためマリアナ・ペリリュー・ルソン島と同様に、持ちこたえられると考えられていた。
大本営としては報復の出鼻を挫かれた形となったが、陸上機による爆撃や空挺降下が行えなくなっても水上機があると割り切り、作戦を練り直すことになった。
その結果、闇毛玉を搭載し偵察と輸送を担う二式飛行艇晴空改を用い、落下傘部隊による空挺降下が行われることになった。
1945年5月。ついに東京大空襲の報復のため、マリアナ諸島への攻撃が開始されようとしていた。
しかし、今度は沖縄に米軍が攻勢を掛けてきたのである。
日本の航空戦力を削るためか九州・沖縄・台湾が空襲を受け、各飛行場に損害も出ていたが、各飛行場の航空機は掩体壕で温存されていた。
米機動部隊の艦載機は、やはり光毛玉と直掩機により大損害を被っていた。
沖縄防衛は当然のことながら縦深防御が前提で、既に非戦闘員の疎間も可能な限り行われており、準備は万端であった。
海軍の艦艇も修理は完了し、航空機搭乗員の練度も上がっており、決戦の準備は整っていた。
沖縄での決戦が近いことから、大本営は東京大空襲の報復作戦の方針を少し変更し、難易度の高い件の虐殺指揮官の拘束連行には拘らず、報復として討ち取ることのみに専念することとした。
そして沖縄での決戦前に、作戦は決行されることになった。
沖縄への激しい空襲が行われてている中、サイパン・テニアン・グアム島の日本軍は米軍への攻撃を開始した。
夜間、それは米軍への散発的な砲撃から開始され、返す米軍の砲弾の雨で幕を開けた。
ほぼ一方的に日本軍の発射点へ砲弾が飛ぶ中、日本兵は計画通り飛行場を目指し、米軍の機関銃陣地などの障害を丁寧に排除していった。
照明弾に照らされ、迫撃砲弾が降り注ぎ、日本軍の進軍は止まり、砲撃に曝される一方となった。
グアム島では、伊400型潜水艦2隻から射出された特殊攻撃機晴嵐4機が飛来し、グアム島上空で対空砲火が上がる中を電探欺瞞紙をばらまき、米軍の対空電探への妨害を行った。
本来、伊400型潜水艦の搭載機数は3機なのであるが、火・水毛玉を載せるため1機減らしていた。火・水毛玉を載せることで艦内の気温と湿度を調節し、長時間の潜航を容易にして警戒の厳重なマリアナ諸島近海への接近の難易度を下げていた。
続いて、未だ日本の勢力圏内であるニューギニア島西部より飛来した、二式飛行艇晴空改30機がグアム島へ侵入。グアム島飛行場付近に落下傘部隊を空挺降下させた。
晴空改は、本来は完全武装の兵士を64人載せることができる晴空を基に改良しており、闇毛玉を搭載し偵察を行うため燃料槽の削減は最低限とし、完全武装した兵士も32人程載せることができた。また闇毛玉を載せるため、乗降口はそれに合わせた大きさの引き戸が機体後部にあり、落下傘部隊はそこから空挺降下を行った。
件の虐殺指揮官はグアム島に滞在している事は確認されており、直前の移動による作戦変更に備えサイパン・テニアン島でも、現地日本軍による攻撃が行われていた。
グアム島での空挺降下成功を受け、サイパン・テニアンの日本軍は飛行場への僅かばかりの砲撃を成功させた後、引き上げていった。
グアム島飛行場付近に空挺降下した落下傘部隊約千名は、米砲兵部隊や迫撃砲部隊などへ攻撃を開始した。
現地日本軍と挟撃する形となり、これを制圧。米防御陣地を突破した現地日本軍は、落下傘部隊と共に飛行場とその周辺への攻撃を開始した。
しかし、米グアム島守備隊は混乱から立ち直って反撃を開始しており、米軍施設への日本軍の進軍を阻んでいた。
飛行場に駐機してあった米航空機は破壊され、迫撃砲弾は米軍施設にも及ばんとしていた。
米グアム島守備隊が集結し日本軍が押されだした頃、突如として米軍施設群が大炎上し、地面は熱で溶解したのだった。
三度爆発的大炎上を起こし、その渦中にあった米軍施設は跡形もなくなった。
この戦果をもたらしたのは、混乱の中で隠密裡に潜入経路より運び込まれた火毛玉であった。
火毛玉の炎を収束させた火炎放射の射程は、およそ200m程度であったが、これを調教訓練によりさらに収束させることで、2000m前後まで射程を延ばすことができ、威力も格段に高めることができたのである。
電離気体砲とでもいうべき火毛玉の収束火炎放射は、その驚異的威力の割に発射地点周囲10m付近は人が耐えられる程度の高温ですんでおり、光毛玉の光線同様になんらかの力で守られていた。
ただし、毛玉が非常に脆弱なのは変わらないため、少しの反撃を受けただけでも消滅する危険があった。
そんな火毛玉を、米グアム島守備隊が陽動に気を取られている間に、目立つ白い巨体を隠蔽しながら目標へ届く距離まで運び込み、件の虐殺指揮官がいると思しき場所を焼き払ったのである。
仮に地下室や退避壕があったとしても確実に仕留められるよう、地面を超高温で溶解させ焼き払っていた。ただ、件の虐殺指揮官の生死の確認ができないことが難点であった。
米軍守備隊は一時混乱し日本軍が勢いを取り戻し、潜入部隊はその隙に撤収を行い、やがて日本軍も撤退したのだった。
上手くすればグアム島の奪還も可能なのではという意見もあったが、米守備隊の抵抗は侮りがたく、仮に奪還できたとしても損害は非常に大きくなり、島の維持も困難であったため断念されていた。
陸海軍は東京大空襲の報復に成功した。
件の虐殺指揮官の生死は確定していないが、明確に報復攻撃は完遂できたのであった。
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