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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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第18話 返すべき言葉

 その夜、ことば屋つばめの戸は、閉まっているのに閉まっている感じがしなかった。


 外から見れば灯りが遅くまでともる、いつもの忙しい工房だ。だが中では、長机が完全に戦卓へ変わっている。板見本の代わりに町の簡図。恋文の紙の代わりに写し帳。迷子札の紐の横には、押印履歴と設計図の差分表。木屑と墨の匂いへ、夜更かしの茶の湯気が混じる。


 ヤスミンは机の中央へ簡図を広げた。旧市街から中央広場まで、橋が三つ、細道が五本、大きな導線は二つ。祭りの日、人の流れはいつもの倍以上になる。


 「看板だけ差し替えても足りない」


 彼女は最初にそう言った。


 誰も口を挟まない。皆、続きを待っている。


 「一枚の札だけ見ても、向こうは“勘違いです”で流せる。だから、途中途中で同じ話へ辿りつくようにしないと駄目。橋では正しい避難方向。店先では正しい許可の控え。登録所の近くでは認証墨の不正例。広場へ近づくほど、幸福論覚書の抜粋と、昔からの整備方針。誰がどこから歩いてきても、ばらばらの違和感が一本の話になるように並べる」


 ヴィウンタがすぐ書き留める。


 「読む順番の設計ですね」


 「うん。先に怒らせるんじゃなくて、先に分からせる」


 パゾスが顎へ手を当てた。


 「つまり、町じゅうをひとつの文章みたいに組むわけか」


 「そう」


 ヤスミンは橋の印へ指を置く。


 「第一橋には、短い札。『本来の避難路は北側』。ここは足を止めない人が多いから、説明は減らす。市場通りは立ち止まるから、営業許可の控えを添える。広場の手前には幸福論覚書。ここまで読んできた人なら、一番長い文でも入る」


 ハッサンが図面筒から紙を引き抜いた。


 「こちらも用意する」


 広げられたのは、父の旧設計図と現行図面を重ねた差分表だった。赤と黒で線が引き分けられ、削られた水路補修箇所と、本来残すべき逃げ路が一目で分かる。


 「危険なのは旧市街全体ではない。補修を削った水路側と、差し替えられた導線のほうだ。それを誰が見ても分かる形にする」


 ヤスミンは図面を見て、短く頷いた。


 昨日まで胸に引っかかっていた路地のやりとりが、完全に消えたわけではない。だが今、目の前の紙は私情より先に動かなければならないものだった。彼女は感情の棘をいったん脇へ置く。


 「図面は広場用と、途中掲示用で二種類。途中のは線を減らして」


 「分かった」


 返事が早い。


 昔ならそこへ、なぜ必要か、優先順位はどうかと一段挟んでいた男が、今は迷わず受ける。そのことが、かえってヤスミンの胸を静かにした。


 ミスラフが帳面を開く。


 「押印履歴は私が押さえる。どの印がいつどこで使われ、誰の机を通ったか。ラージン商会の再契約と、後見札の認証墨の重なりも追える」


 「証拠の束は私が順番を整えます」


 ヴィウンタが言う。


 「最初に生活への影響。次に公的文書の誤り。最後に設計図と押印記録。感情論だと切られない並びへ寄せます」


 バレールが木枠を軽く叩いた。


 「木の証拠は俺が持つ。釘穴と削り跡の説明なら、紙より口のほうが早い」


 エドリラは簡図の裏路地へ指を滑らせる。


 「配達路は任せて。表通りが詰まっても、裏なら抜けられる」


 カミが湯を足しながら言う。


 「眠気で字を落とすなよ。うちの茶は、夜通し用に濃くしてある」


 パゾスは空いていた板切れを引き寄せた。


 「住民の短い一言も要るな。長い説明の前に、鍋がなくなるのは嫌だとか、橋の向こうに家があるとか、そういうやつ。人の息づかいは、公式文だけじゃ出ない」


 ヤスミンはそこで深く息を吸った。長机の周りに並んだ顔を見渡す。誰も、昨日の検査のせいで腰を引いていない。それぞれがそれぞれの得意な場所へ、もう足をかけている。


 なら、自分が迷っている場合ではない。


 「守るために書き返す」


 声に出すと、言葉は机の上で形になった。


 「案内板で流れを戻す。控えで嘘をはがす。冊子で元の意味を返す。誰かを飾るためじゃなくて、暮らしを削らせないために」


 パゾスが口笛を吹きそうになって、ヴィウンタの視線に気づき、ぎりぎりで飲み込んだ。


 「いいね。そういう言い切りは、板に乗る」


 ハッサンはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


 「その方針でいこう」


 昨日の路地では、彼は順番の中に人を入れ損ねた。ヤスミンも、その痛みをまだ忘れていない。だが今の一言には、言い争いではなく並ぶ意思が入っていた。


 ヤスミンは図面の上から顔を上げずに返す。


 「あとで、路地の続きはする」


 小さな声だったが、聞こえるようには言った。


 ハッサンは一拍遅れて答えた。


 「逃げない」


 短い返事だったが、昨夜の路地で噛み合わなかったものが、ようやく同じ方向を向いた気がした。


 それだけで充分だった。今夜はそれ以上を求める夜ではない。


 そのとき、戸が急いで叩かれた。


 エドリラが開けると、明るい色の外套を肩へ引っかけた若い男が飛び込んでくる。細身で、声が入る前から人前に立つ仕事だと分かる身のこなしだった。手には丸めた台本束。


 「助けてくれ」


 男は言った。


 「今年の夏至祭、誰が台本へ毒を混ぜたのか分からない」


 パゾスが目をしばたたく。


 「おや、芝居小屋の顔だ」


 来訪者は息を整えながら軽く会釈した。


 「トゥオヴィ。中央広場の進行役だ。去年、ことば屋つばめで口上札を書いてもらった」


 ヤスミンも思い出した。雨で順延した芝居の日、急きょ書き直した案内札を持っていった男だ。台詞回しが早く、客の機嫌も風向きも読むのがうまい。


 トゥオヴィは台本束を机へ広げた。


 「告白タイムの進行台本なんだが、今年の版だけ途中に変な追加文がある。役所印つきで“式次第の改訂”として差し込まれた。俺ひとりじゃ、断っていい筋か分からない」


 ヤスミンが紙を引き寄せる。台本の紙は舞台用らしく大きめで、読み上げの間合いが取れるよう文が広く空けてある。その中段に、異様に整った追加文があった。


 『都市整備局より、旧市街西区の危険指定および自主退去手続きに関する告知を行う』


 茶屋の湯気が、一瞬止まったように感じた。


 祭りの最中に、それを読むつもりなのだ。


 恋や感謝を口にする場で、人の暮らしを切る告知を流し込む。ざわめきに紛れて、一気に“決まったこと”へしてしまう気だと、誰にも分かった。


 トゥオヴィが苦い顔で言う。


 「告白タイムは毎年、広場が一番やわらかくなる時間だ。親子でも恋人でも、友だち同士でも、誰かに一言言っていい。そこへ役所発表を入れたら、空気ごと持っていかれる」


 「最低だね」


 ヤスミンが台本を見たまま言う。


 「恋を語る場に、退去の文をねじ込むなんて」


 ハッサンの顔も硬い。


 「祭りの熱で押し切るつもりか」


 ミスラフが追加文の印影を確かめる。


 「印は本物だ。だが起案日が不自然に近い。急いで差し込んだと見ていい」


 トゥオヴィは台本の余白を指で叩いた。


 「進行役として、時間をずらすことはできる。だが、その先がないとただの妨害になる」


 ヤスミンは台本を閉じた。


 胸の内で、点だったものが一気に線になる。町へ向かう導線。書かれた控え。幸福論覚書。そして祭りの舞台。相手は路地だけでは足りず、人が一番心を開く場所まで使おうとしている。


 なら、こちらもそこを取り返すしかない。


 「じゃあ、あの舞台ごと取り返そう」


 口にした瞬間、工房の灯りが少し強くなった気がした。


 トゥオヴィが目を上げる。パゾスがにやりとする。ハッサンの視線が、まっすぐヤスミンへ向く。


 夏至祭の夜は、もう逃げ場ではなく、真ん中になる。



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