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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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第16話 工房への疑い

 監査官ベクシは、第一印象だけなら礼儀正しい男だった。


 濃紺の上着は皺ひとつなく、手袋は外して畳み、机の端へきちんと置く。声も大きすぎない。だが視線だけが、工房の物を物として見ていなかった。値札のつく順に棚を眺める商人の目に近い。


 「検査は通常業務です」


 ベクシは言った。


 「近ごろ旧市街で公的掲示に不備が相次いでいる。筆耕と板制作を請ける工房として、確認は必要でしょう」


 パゾスが口を開きかけたが、ヴィウンタが袖を引いた。


 ベクシの後ろには補佐が二人ついている。すでに受注帳と納品控えの束へ手が伸びていた。


 「必要な確認なら立ち会います」


 ハッサンが前へ出る。


 「私もこの件を担当しています」


 ベクシはにこりともせず目だけを向けた。


 「だからこそ、あなたは外れていただく可能性がある」


 工房の空気が固まる。


 「利害関係が近すぎる。私的な接触も多いと聞いています」


 言外の意味がいやに粘ついた。ヤスミンは反射的に一歩出そうとして、ヴィウンタに手首を押さえられる。


 ベクシはその様子を見逃さなかった。


 「ほら。感情的な連携は、調査の信用を落とします」


 「言いがかりだ」


 バレールが低くうなる。


 「六年前の札の木枠を出したのはうちだ。証拠を持ち込んだ側を、改ざん側と結びつける気か」


 ベクシは肩をすくめた。


 「六年前の札に、なぜこの工房の人間がそこまで詳しく触れられるのか。そのこと自体が、確認対象になります」


 ヤスミンの背が冷えた。


 見える、感じる、違和感が分かる。そうした説明しにくいものは、疑う側に回られた瞬間、一番弱い。


 「控え帳は持ち出さないで」


 ヴィウンタが珍しく強い声を出した。


 「写しを取るなら、この場で」


 「必要な資料は預かります」


 補佐が無遠慮に帳箱へ手を入れる。


 パゾスが椅子を蹴って立った。


 「おい、その箱は」


 「パゾス」


 ヤスミンが止める。


 今ここでぶつかれば、向こうの思う形になる。


 分かっていても、悔しさで指先がしびれた。


 結局、受注帳の一部と、営業掲示の下書き控え、縁談登録札の写し帳が持ち出された。ミスラフから借りた帳簿までは手が伸びなかったが、それはハッサンが局の貸与資料だと前へ出て守ったからだった。


 ベクシは帰り際、ヤスミンへだけ一瞬視線を止めた。


 「町で評判の筆耕師だそうですね」


 声は穏やかだ。


 その穏やかさが、かえって不気味だった。


 「評判は、時に事実を曇らせます。お気をつけて」


 戸が閉まったあと、しばらく誰も動かなかった。


 最初に音を立てたのは、パゾスが机を叩いた拳だった。


 「気をつけるのは向こうだろうが」


 クリストフが小さな声で言う。


 「受注帳がないと、今週の納品確認が遅れます」


 ヴィウンタはすでに残った控えを並べ直していたが、その指先がいつもより硬い。


 「控えの控えはあります。でも、客は事情を待ってくれません」


 その言葉どおり、午後になると工房の前を通る足が少し減った。


 迷子札の依頼に来るはずだった若い母親は、戸口まで来て引き返した。芝居小屋の貼り紙を頼んでいた男は、「少し様子を見たい」と言って日を改めた。噂は鍋の湯気より早い。役所の検査が入った工房だと知れれば、それだけで人は半歩離れる。


 ハッサンは夕方、局から戻るなり、机へ拳をつくでもなく、ただ静かに言った。


 「私も一時的に資料閲覧を制限された」


 「は?」


 パゾスが素っ頓狂な声を出す。


 「ベクシが上へ報告した。工房との接触が深すぎると」


 ヤスミンは何も言えなかった。


 自分がいるせいだ、と口の中で言葉が固まる。


 ベクシは黒幕ではないのだろう。あの男は、もっと乾いた種類の人間だ。上へ成果を示したい。責任の火の粉を避けたい。そのために、いちばん切りやすい場所を切る。


 旧市街の工房も、ハッサンの立場も、その刃の前では同じ重さでしかない。


 日が暮れるころ、常連の菓子屋の女主人がそっと焼き菓子を置いて帰った。けれど注文はしなかった。


 応援したい気持ちと、関わりたくない気持ちが、同じ皿に載っているような顔だった。


 ヤスミンは戸口の影でそれを見送り、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 私がいるから。


 六年前の件に私情で食い込んで、赤い糸だの違和感だの、証明しにくいものを持ち込んだから。


 そう思い始めると、止まらない。


 工房へ戻ると、皆はそれぞれ残った仕事に手をつけていた。誰も責める顔はしていない。だから余計につらい。


 紙を押さえる指も、板を運ぶ肩も、いつもどおり働いている。その輪の中に自分の椅子だけが半歩ずれて見えるのが、ヤスミンにはいちばんこたえた。


 ヤスミンは長机の端に置かれた筆を見つめたまま、小さく息を吸う。


 自分がここから離れたほうが、被害は小さくなるのではないか。


 その考えが、夕闇といっしょに、静かに形を取り始めていた。



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