第15話 いつまでたっても重ならない…と思う
翌朝の工房は、いつもの墨の匂いに、少しだけ別の緊張が混ざっていた。
戸を開ける音、紙を裁つ音、釜の湯が鳴る音。どれも普段どおりなのに、誰も冗談を長く続けない。ベクシが来るまでの時間を、皆それぞれの作業で薄めているようだった。
ヤスミンは机の端で、昨夜の帳簿写しをまとめていた。だが筆が進まない。母のことと、ラージン商会の名と、ハッサンの父の図面と、自分の赤い糸の感覚が、全部ひとつの机へ載りすぎていた。
「少し外、歩いてくる」
誰にともなく言うと、ヴィウンタだけが顔を上げた。
「一人で大丈夫ですか」
「大丈夫。……たぶん」
水路沿いの路地は、朝の光がまだ浅い。パンを焼く匂いが角ごとに違い、洗い水が細く流れている。こんな普通の朝なのに、自分の足だけ町から半歩ずれている気がした。
追いついてきた足音で、振り向かなくても誰だか分かる。
「逃げる気か」
ハッサンだった。
「逃げるって言い方、ほんと上手くないね」
「訂正する。離れる気か」
「もっとひどい」
ヤスミンは立ち止まり、石壁にもたれた。
「私がいると、話がぐちゃぐちゃになる気がするんだよ。六年前の件は私情そのものだし、赤い糸のことなんて証明もできないし」
ハッサンは一拍置いてから答えた。
「今の君は、証言者として危うい」
その瞬間、胸のどこかがきれいに冷えた。
自分でも似たことを考えていた。だから余計に刺さる。
「そう」
「感情が強すぎる状態では、相手につけこまれる。検査が入る前に、距離を取るのは悪くない」
手順としては正しい。整理としても、たぶん正しい。
けれどヤスミンが欲しかったのは、整理より先の何かだった。
大丈夫か、とか。
一緒に立つ、とか。
そういう曖昧で、証拠にならない言葉。
彼はそれを選ばなかった。
「気遣ってるつもり?」
「つもりではなく、必要な判断だ」
「ほら、そういうとこ」
ヤスミンは笑いそうになって、笑えなかった。
「私が揺れてるの、あんたは最初に整理の都合で見るんだね」
ハッサンの眉が寄る。
「都合ではない。守るための順番だ」
「その順番の中に、私自身は入ってるの」
問いかけたあとで、自分が何を聞いたのかに気づき、ヤスミンは唇を噛んだ。
ハッサンも、すぐには答えられなかった。
入っていると言えば足りない。入っていないと言えば嘘になる。そういう顔だった。
路地の向こうで、桶を運ぶ音がした。誰かの日常が、こちらの息苦しさに関係なく流れていく。
ヤスミンは視線を外したまま言う。
「私たち、いつまでたっても重ならない…と思う」
言葉にした途端、冗談では済まない重さになった。
ハッサンの口元がわずかに動く。何か返そうとして、適切な言葉へ辿りつけない顔だ。
その沈黙が、返事そのものだった。
水路の面で朝の光がちらつき、その揺れだけが二人のあいだへ細く残った。
ヤスミンは胸の奥で何かが縮むのを感じた。
好きとか、そういう単純な名ではまだ呼べない。けれど認めてしまった分だけ、ずれたときの音が大きい。
「戻るよ」
そう言いかけたとき、工房の方角から荒い足音が駆けてきた。エドリラだった。
「ヤスミン、ハッサン!」
息を切らして手を振る。
「来た、役所の検査。もう工房へ入ってる!」
路地の空気が、一瞬で切り替わった。
ハッサンは何も言わず走り出し、ヤスミンもそのあとを追う。さっき交わした言葉の棘は胸に残ったままだが、抜いている暇はない。
工房の戸口が見えたとき、中では知らない低い声が響いていた。
監査官ベクシは、もう長机の前に立っていた。




