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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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15/28

第15話 いつまでたっても重ならない…と思う

 翌朝の工房は、いつもの墨の匂いに、少しだけ別の緊張が混ざっていた。


 戸を開ける音、紙を裁つ音、釜の湯が鳴る音。どれも普段どおりなのに、誰も冗談を長く続けない。ベクシが来るまでの時間を、皆それぞれの作業で薄めているようだった。


 ヤスミンは机の端で、昨夜の帳簿写しをまとめていた。だが筆が進まない。母のことと、ラージン商会の名と、ハッサンの父の図面と、自分の赤い糸の感覚が、全部ひとつの机へ載りすぎていた。


 「少し外、歩いてくる」


 誰にともなく言うと、ヴィウンタだけが顔を上げた。


 「一人で大丈夫ですか」


 「大丈夫。……たぶん」


 水路沿いの路地は、朝の光がまだ浅い。パンを焼く匂いが角ごとに違い、洗い水が細く流れている。こんな普通の朝なのに、自分の足だけ町から半歩ずれている気がした。


 追いついてきた足音で、振り向かなくても誰だか分かる。


 「逃げる気か」


 ハッサンだった。


 「逃げるって言い方、ほんと上手くないね」


 「訂正する。離れる気か」


 「もっとひどい」


 ヤスミンは立ち止まり、石壁にもたれた。


 「私がいると、話がぐちゃぐちゃになる気がするんだよ。六年前の件は私情そのものだし、赤い糸のことなんて証明もできないし」


 ハッサンは一拍置いてから答えた。


 「今の君は、証言者として危うい」


 その瞬間、胸のどこかがきれいに冷えた。


 自分でも似たことを考えていた。だから余計に刺さる。


 「そう」


 「感情が強すぎる状態では、相手につけこまれる。検査が入る前に、距離を取るのは悪くない」


 手順としては正しい。整理としても、たぶん正しい。


 けれどヤスミンが欲しかったのは、整理より先の何かだった。


 大丈夫か、とか。


 一緒に立つ、とか。


 そういう曖昧で、証拠にならない言葉。


 彼はそれを選ばなかった。


 「気遣ってるつもり?」


 「つもりではなく、必要な判断だ」


 「ほら、そういうとこ」


 ヤスミンは笑いそうになって、笑えなかった。


 「私が揺れてるの、あんたは最初に整理の都合で見るんだね」


 ハッサンの眉が寄る。


 「都合ではない。守るための順番だ」


 「その順番の中に、私自身は入ってるの」


 問いかけたあとで、自分が何を聞いたのかに気づき、ヤスミンは唇を噛んだ。


 ハッサンも、すぐには答えられなかった。


 入っていると言えば足りない。入っていないと言えば嘘になる。そういう顔だった。


 路地の向こうで、桶を運ぶ音がした。誰かの日常が、こちらの息苦しさに関係なく流れていく。


 ヤスミンは視線を外したまま言う。


 「私たち、いつまでたっても重ならない…と思う」


 言葉にした途端、冗談では済まない重さになった。


 ハッサンの口元がわずかに動く。何か返そうとして、適切な言葉へ辿りつけない顔だ。


 その沈黙が、返事そのものだった。


 水路の面で朝の光がちらつき、その揺れだけが二人のあいだへ細く残った。


 ヤスミンは胸の奥で何かが縮むのを感じた。


 好きとか、そういう単純な名ではまだ呼べない。けれど認めてしまった分だけ、ずれたときの音が大きい。


 「戻るよ」


 そう言いかけたとき、工房の方角から荒い足音が駆けてきた。エドリラだった。


 「ヤスミン、ハッサン!」


 息を切らして手を振る。


 「来た、役所の検査。もう工房へ入ってる!」


 路地の空気が、一瞬で切り替わった。


 ハッサンは何も言わず走り出し、ヤスミンもそのあとを追う。さっき交わした言葉の棘は胸に残ったままだが、抜いている暇はない。


 工房の戸口が見えたとき、中では知らない低い声が響いていた。


 監査官ベクシは、もう長机の前に立っていた。



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