きみのためなら死ねる
「うおおおっ! 来いっ!」
草葉を揺らして、大きな影が飛び出した!
「ぶもぉ?」
鹿である。どっからどう見ても鹿である。
鹿は頭を上下に二、三度振ると、何事もなかったかのように道路をポクポクと歩いて去った。
凛花が、冷めた声を出す。
「玄さん。辞世の句がなんでし――」
「よ、よかったぁ~! 熊じゃなくってッ!」
俺は大きな声を出して、胸を撫で下ろす。
「お、俺っ、凛花ちゃんを守れなかったらどうしようかと……。ハハハ、マジでよかったよ! 俺がみっともなく恥かいただけで。ねえ? 凛花ちゃん!」
そう笑って話しかける。だが、凛花は返事をしない。
あ、あれ……?
俺があまりにマヌケなせいで、呆れてるんだろうか。
「ごめんね、凛花ちゃん。無駄に怖がらせちゃって」
謝ってみるが、やっぱり黙ったままだ。
困ったなぁ。
いっそ笑い飛ばしてくれたほうが、俺としても気が楽なのだが。
しばらくして、凛花が静かな声で言った。
「本当の熊だったら……玄さんって、命がけで守ってくれるんですね」
「へ? そりゃあ、そうだよ。当然じゃないか!」
だって、くたびれた社畜のおっさんと、若くて美人な女の子。
どちらが生き残った方が嬉しいかなんて、考えるまでもない。
……少なくとも俺はそう思う。
ところが、俺の言葉を聞いた凛花は、なぜか顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「えーっと。凛花ちゃん?」
呼びかけても、返事はない。
街灯の光の下で、俺たち二人の間に気まずい沈黙が落ちる。
どうしたものかと困っていると、不意に彼女が一歩近づいてきた。
そして、そっと俺の手を取る。
赤らんだ顔が、ゆっくりと俺へと近づく――その時だった。
「おーい! 二人とも、大丈夫かぁーい!」
叫びながら、剛が歩いてくる。
その後ろには、コロちゃんとみのりの姿もあった。
凛花が、パッと手を放す。
「剛さん。みんなも。どしたんすか?」
「どうしたもこうしたも、君たちがあんまり遅いってんで、みのりさんが僕らの部屋まで来たんだよ。それで、こうして探しに来たってわけさ」
俺は頭を掻いた。
「いやぁ。そいつは悪いことしちゃいましたね。でも、見ての通り俺たちは元気です」
熊と勘違いして鹿に大慌てしたことは、恥ずかしいので黙っておく。
「それよりも……」
俺は、背後を指さした。
「遅くなったのは、星があまりにも見事だったもんでね。みんなも見てくださいよ」
満天の夜空を見上げて、他の三人も「わあ!」と声を出した。
「おおっ! こりゃ素晴らしい!」
「あらまあ、絶景ねぇ~!」
「す、凄い……プラネタリウムより、ずっと凄い!」
しばらくの間、俺たちはワイワイと賑やかに星を眺めた。
やがて満足したところで、連れ立って遠音荘へと戻る。
部屋は別々の階なので、エレベーターでは俺たちが先に降りることになった。
扉が開き、俺が廊下へ出ようとした時だ。
凛花が、俺の手を取った。
「ん? どうしたの、凛花ちゃん」
凛花は、少しだけ照れたように笑う。
「玄さん。星空は、みんなの思い出になっちゃいましたけど……」
言いつつ、俺の手を握る指にギュッと力を込めた。
「流れ星は、二人だけの思い出ですね」
「うん。そうだな」
「玄さんの気持ち、よくわかりました。私も同じ気持ちです」
「……気持ち?」
「言わせないでくださいよ。恥ずかしいなぁ」
凛花はクスクスと嬉しそうに笑いながら、エレベーターの扉を閉めてしまった。
気持ちとは、一体……?
ああ! 俺の「残業から解放されたい」っていう、願い事の話かな。
彼女も、苦労してるんだなぁ。




