星空の下で
遠音荘は温泉街の最奥にあるため、外へと続く道は一本しかない。
サンダルをつっかけて凛花を探しに歩くと、ポツポツと光る街灯の先。
ガードレールの向こうに、ピンク色の浴衣姿が立っているのを見つけた。
「凛花ちゃん! 帰りが遅いって、みのりさんが心配してたよ」
片手を上げて声を上げながら近づくと、凛花はこちらを振り向いた。
「玄さん。こっち来てください! すごいですよ」
「え~? なになに?」
笑顔の凛花の隣に立ち、彼女が指さす方へと目を向ける。
山と山の間にぽっかりと谷が開き、その向こうには藍、群青、紫――夜の色が幾重にも溶け合う空を、大小無数の星々と天の川が埋めている。
街の夜空では見えないような小さな星まで、黒い天幕に針で穴を開けたように瞬いていた。
「うおっ、こりゃすごい……! 綺麗だねえ」
「ええ。本当に綺麗です。見惚れちゃいますね」
俺たちは、しばし無言で天を見つめる。
終電を逃した帰り道、夜空を見上げることは何度もあった。
だけど、こんなに素晴らしい星空を見たのは生まれて初めてだ。
「天の川って、本当に川みたいなんだな」
「写真で見るより、ずっと凄いですね」
「スマホで撮っても、この感動は伝わらないんだろうなあ」
試しにカメラを向けてみるが、画面に映るのは黒い空に白い点が少しあるだけだった。
「あー、ダメだ。肉眼の十分の一も綺麗じゃない。思い出に残したかったのに!」
「ふふっ。ありますよね、そういうの」
凛花が小さく笑う。
俺はスマホをしまい、また天を見上げた。
しばらくすると、一筋の光が夜空を横切る。
「あっ!」
「えっ?」
声が重なる。
白い光は、音もなく空を流れ、あっという間に消えていく。
「流れ星……見た?」
「はい!」
二人で顔を見合わせて、苦笑する。
「願い事する暇なんてなかったな」
「消えるの早すぎです! 三回も言えませんよ」
「だよなあ。……もし、もう一度星が流れたら、凛花ちゃんは何を願う?」
「私はシンプルに、健康とか平和かな。玄さんは?」
「俺は切実だよ。職場環境の改善。毎日毎日、残業ばかりで参ってるんだ。もう少し仕事が減って、定時で帰れる日が増えてほしいよ」
そんな話をしていた時だ。
ガサッ!
背後の木々の中で、何かが動く音がした。
凛花が小さく悲鳴を上げる。
ガサッ……ガサガサ……。
音を立てて藪が動く。風じゃない。
間違いなく、何かがいる……しかも、相当デカいぞ!
凛花が、不安そうな声で言う。
「ひょっとして、イノシシじゃないですか……?」
「そういや、この辺で捕れるんだったな」
その時、藪の中がキラリと光った。
獣の目だ。目線が高い……イノシシじゃない!
背中に嫌な汗が浮かんだ。
「イノシシなら、まだ逃げようがある。でも、もしも万が一、熊だったら……?」
「く、熊!? 玄さん、私怖いです!」
熊の恐ろしさはよく知っている。
先日、ゴールデンカムイを読破したばかりだ。
俺は生唾をゴクリと飲み込む。
「凛花ちゃん。君は俺の後ろに隠れていろ。大丈夫、熊なら俺が囮になるよ。君はその隙に逃げるんだ。いいね?」
「げ、玄さん、そんなこと言わないでください! 一緒に逃げましょう!」
いいや。
二人一緒に逃げても、追い付かれるのが関の山だろう。
俺は黙って首を振り、大きく息を吸うと、静かな声で言った。
「定時にて 帰る暮らしは 露と散り 残る迷宮 君に託さん」
「えっ。きゅ、急になんです?」
「辞世の句だよ。俺が死んだら、『サービス残業お断りダンジョン』の世話は頼む」
「は……? えっ……えええ??」
「さ、凛花ちゃん。こっちに来て!」
俺は凛花の腕を引っ張ると、ガードレールを盾にしながら、ゆっくりと音から距離を取り始める。
ガサガサと言う音は、ますます大きくなっていく。
そして、ついには藪から大きな影が飛び出す。
「出たっ! 逃げろ、凛花ちゃん!!」
俺は彼女を背後に庇い、決死の覚悟で仁王立ちした。
お願い、死なないで伏見玄!
あんたが今ここで倒れたら、ダンジョンスプラウトや理央のお土産はどうなっちゃうの?
有給はまだ残ってる。
ここを耐えれば、社畜に戻れるんだから!
次回、伏見玄死す!
ダンジョンスタンバイ!




