SS: 温かい大根と失われた記憶(労働者視点)
右腕のボルトを締め直しながら、俺はただ前を見て歩いていた。
今日の労働ノルマは達成した。配給所で三十秒かけてサプリメント・ペーストを胃袋に流し込み、あとは居住ブロックへ戻って、六時間の休眠モードに入るだけだ。
俺の右腕と両足は機械だ。
工場での事故で失ったが、すぐに都市が代替パーツを支給してくれた。痛みもないし、疲れも感じにくい。素晴らしい効率の良さだ。
感情なんてものは、この街ではエラーでしかない。マザーの言う通りに動き、マザーの言う通りに生きる。それが一番楽なのだ。
……そう、思っていた。
『なんだ……この、匂いは』
下層区の冷たい路地裏で、俺の嗅覚センサーが異常な数値を弾き出した。
サプリメントの無機質な匂いしか知らなかったはずの俺の脳髄に、何かが直接語りかけてくるような、強烈で、優しくて、たまらなく「温かい」匂い。
気がつけば、俺はふらふらと、赤提灯の下がる謎の屋台の前に立っていた。
「へい、いらっしゃい。寒かったでしょ、温かいの食べていきなよ」
黒髪の青年が笑いかけ、割烹着の少女が「大根」というものにダシ汁をかけて差し出してきた。
食べるな。非効率だ。そんなことをしても労働生産性は上がらない。
頭の中で警告音が鳴り響く中、俺は震える手でそれを口に運んだ。
「――っ!?」
噛み締めた瞬間、俺の世界は完全に崩壊した。
口の中いっぱいに溢れ出す、熱くて、甘くて、深みのある黄金の旨味。
サプリメントでは決して満たされることのなかった「胃袋の奥底」が、一瞬にして満たされていく感覚。
『美味しい』
気がつけば、俺の目からオイル……いや、本物の涙が溢れ出していた。
フラッシュバックする記憶。俺がまだ全身生身の人間だった頃。雪の降る寒い夜に、小さな食卓で、母さんがよそってくれた温かいスープ。
あの時も、俺は「美味しいね」と笑って、母さんも笑っていた。
俺は、ただの「歯車」なんかじゃなかった。温かいご飯を食べて笑うことができる、人間だったのだ。
「あぁ……なんて、温かいんだ……」
俺は屋台のカウンターで、大の大人がみっともなく泣きじゃくった。
青年が出してくれた「豚汁」というスープは、さらに暴力的なほど美味しくて、俺の凍りついていた心を完全に溶かしてしまった。
帰り道。俺の足取りは、不思議なほど軽かった。
非効率な食事をしたせいで、マザーの評価は下がるかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
俺の腹の中には、今も確かな『温かさ』が残っている。
「……明日も頑張ってネジを締めて……また、あの屋台に行くか」
機械都市の冷たいネオンを見上げながら、俺は人間らしく、本当に久しぶりに、ふっと笑みをこぼしたのだった。




