9話 全てを捨てても
「こちらが、新たな報告書でございます」
港の倉庫街の片隅で暗闇の中、仕立ての良いスーツに身を包みシルクハットを被った老紳士が、書類を差し出す。
辺りに人の気配はない。
「ありがとう」
ケローネは、そう言うと書類を受け取り手元の灯りだけでそれに目を通す。
――使用人の証言によると、子爵夫人はエミスの不手際を責め立て、男爵令嬢と比べ罵り、エミスに使用人のようにお茶の用意を命じると、入れたお茶を目の前で捨てた。
その一文が目に入り、手元に力が入る。怒りで書類を握りつぶしそうになる。
「罪を暴くだけでは足りないな…。エミスを踏みにじった奴らだ。地獄を見せなければ。叩けばいくらでも埃は出そうだな。取引先、融資先、それから愛人の家も徹底的に調査を頼む。必要な人と金は、いくら使っても構わない」
「承知いたしました」
老紳士は、丁寧にケローネにお辞儀をする。
ケローネは、倉庫の前に乱雑に積まれた木箱の上に腰掛けた。
「なぁ、ホヌ。」
怒りを鎮めるように深く息を吐いた後、ぽつりと語りだした。
「……あのクソ野郎との結婚の話潰したら……段取りがついたら……後は見守るだけのつもりだったんだ。俺に光をくれた彼女が、幸せに過ごしてくれたらそれでいいと」
「はい」
ホヌは静かに返事をする。
「でも……手放せなくなった。彼女と過ごして、この穏やかな時間がずっと続いて欲しいと、そう願ってしまう」
ケローネは、両手で顔を覆うと項垂れた。
「こんなの想定外だ。……どうしたらいい?」
主の弱気な姿を、久しぶりに見たなとホヌと呼ばれた老紳士は思った。
「あなた様の世界に連れて行っても……水が合わねば辛いだけでしょう」
「……そうだな」
ケローネの声は今にも消えそうだ。
「ここは亀さんとして、問題が片付けば綺麗に去るのがお互いの為でしょうなぁ」
ほっほっほっほと、短いあごひげを触りながらホヌが笑う。
「わかってる……わかってるんだ、そんなこと。
それでも……それでも彼女を望んでしまうんだ!」
(――今の生活が永遠に続けばと)
「俺が彼女を望めば……不幸にしてしまうのか?」
ケローネは、拳を強く握りしめる。
「願ってはいけないのか……彼女と……共に生きることを!」
ホヌは、主がこんなに感情を乱すのも久しぶりだと少し高揚した。あのお嬢さんといると、主の人間らしい感情がこうも自然に引き出されるとは。
「いけないことではございませんよ」
穏やかに、諭すようにホヌは言う。
「ただ……そうですなぁ。彼女が、テス……坊ちゃまの世界に合わぬなら坊ちゃまが、彼女の世界に馴染めるかを考えてみて下さい」
「俺が……彼女の世界に?」
それは、考えつかなかった。自分の元に連れて行くか、諦めるか、この二択しか無いように思っていたからだ。
「ええ、自分の世界に引き込むだけが方法ではございませんよ。坊ちゃまが持つものすべてを捨てて、それでも彼女と共にありたいと思えるか。それもまた、容易ではございませんが」
ケローネは、その言葉の意味を想像する。
「元より、執着の無かったものだ。捨ててしまえる……とは言える。ただ…」
「ただ?なんですかな?」
「俺は、世の中を分かってるつもりでいたんだ。自然界も人間の世界も弱肉強食。弱い者が強い者にやられる。胸糞悪い話だが貴族は平民を、人として見ていない奴も多い」
世の中に目を向けるようになって、人間の汚いところも沢山わかってきた。
「ただ、そういう奴らは最低だと思うけど、どこか他人事だったんだ。今回……エミスがこんな目にあって初めて憤りを感じた」
最低な人間と、不幸な人間がいる。それを知っていただけだった。
「知っていることと、経験することは違う。だから、全てを捨てて彼女の世界に入った時、こんなはずじゃ無かった、こんなの無理だって壁にぶち当たるかもしれない」
ホヌは、主の言葉に黙って頷く。
「……それでも、です。たった一人の男として、どんな時も全力を出して守り、幸せに出来ると思えるか。またそうしてでも、あのお嬢さんに傍にいて欲しいと思えるのか」
ケローネは、目を瞑って考える。ホヌの言葉一つ一つに、ゆっくりと思いを巡らす。
エミスと過ごしていく中で、家族ってこんな感じなのかもと思った。
ケローネには、両親との温かい思い出がない。
愛情を注いでくれたのは、両親よりもむしろ使用人たちだ。
大切にされているのは、分かっていた。
でも、それは求めるものとは少し違う気がしていた。
大勢の使用人に囲まれ、腕利きの料理人が作った食事をとる。贅沢なことなのだが、ケローネはそこに喜びを感じたことはなかった。
食事とは、マナーを気にしながら、生命を維持するためだけのものだった。
しかし、エミスと過ごすようになってから食事とはこんなに楽しく美味しいものなのだと気づいた。
毎日、エミスの待つ家に帰るのが楽しみになった。
美味しそうな匂いと、エミスの「おかえりなさい」が温かく、ケローネの胸を満たした。
食べる物なんて、適当でいいとキノコをそのまま食べようとして、それは凄い剣幕で怒られた。
でも、それが本気で心配してくれたからと分かると嬉しくなった。
「人が真剣に怒っているのに笑うな!」とエミスには更に怒られたが。
生まれて初めて、家というものの温かさを知った。すぐに帰りたくなる。
ケローネの中で、エミスとあの家の存在が日に日に大きくなった。
離れていても、エミスを直ぐに思い出す。
街で見かけるもの全て、エミスに贈りたいと買い占めそうになるが、ぐっと我慢する。
どこにいても、早く会いたいと胸が騒ぐ。
彼女といると、どんな些細なことでも笑いあえる。
いつも笑顔でいられる。
市場や街へ一緒に出かけた、今日のあの満ち足りた幸せな時間。
手元のお揃いのブレスレットを、そっと撫でる。
エミスとの時間を、手放せるのか。
この幸せな時間を失ったあと、自分はまた笑って生きて行けるのか。
「……うん。」
思いは変わらない。目を開け、ホヌを真っ直ぐに見る。
「やっぱり諦めきれない。エミスと一緒にいたい。俺の全力で、どこまで通用するのか分からないけど」
愛する女性の為に、全てを捨てる。若いなぁ、ロマンだなぁとホヌは口角を少し上げる。
「あともう一つ、覚悟せねばならぬ事がございます」
「……なんだ?」
ホヌの言葉を待つ一瞬に、緊張が走る。
「全てを投げ捨て、彼女の元へ行ったとしても……
坊ちゃまが振られる場合があるということです」
「振られる……?」
ケローネは、目をパチクリさせた。
「……考えてなかった」
ホヌは、小さな目を限界まで見開いた。
「それは……なかなかの自信でございますな」
「えっ?だって、今の状態で拒否されるなんて想像する?……デートも楽しかったし、なんていうか、同じ家で生活する今の状態って、しん……新婚さんみたいなのに」
言った後で、カッと顔を赤くするケローネ。
「結婚式から攫われただけでも、一大事なのに、その結婚にそもそもの問題があったのですから、束の間の穏やかな時間を愛と錯覚しておるかもしれませんぞ」
その言葉が、ケローネに突き刺さる。
「ホヌ、容赦無いね…」
「坊ちゃまを心配すればこそですぞ」
ホヌは、ニコニコ笑っている。それが、ケローネには楽しんでいるように見えた。
エミスに拒絶され、全てを捨て、地位も身分もなくなる……哀れな自分の姿を想像する。
行き着く先は……?
「……なぁ、ホヌ。全てを捨てて、それでもエミスに拒否されたら…俺どうすればいいかなぁ。海に帰る…?」
「フォッフォ!海に帰られますか!いいですよ、このホヌ、海の底でも地の果てでも、傷心の坊ちゃまにお供致しますぞぉ!」
「……ありがとう、ホヌがそんなに忠義者だったなんて」
「ホヌが味方についておりますぞ!安心して傷心なさいませ!!」
「……振られる前提なの、やめて?」
ケローネは、がっくり肩を落としながらなんとか反論した。
「さあさあ、情けない話はやめて先ずは、奴らを駆除しませんと」
ホヌの言葉に、ケローネは表情を変える。
「そうだな、あいつらには自分たちの愚かな行いをしっかり反省させなければな」
漆黒の海を見つめながら、ケローネは破滅の為の段取りを静かに考える。
(絶対に赦さない)
それから間もなく、子爵家を沈める最初の一手が打たれた。そして、それは波紋のごとく大きく広がっていくこととなる。




