2話 亀男
そっと、音を立てずにベッドから降りる。このまま外へ飛び出したいところだが、出た先に誘拐犯がいないとも限らない。
足音を立てないように、ゆっくりとベッド脇の窓に近づく。カーテンが掛かっていて外が見えない。ゆっくりと…うす緑の亀柄カーテンを捲り、外の様子を窺おうとして、驚いた。すりガラスで外が見えなかったのだ。ただ、ぼんやり映る景色は町中ではないようだと判断した。
仕方ないので、室内を見回す。
窓脇には大きな水槽があり、“ケローネ”と立派なプレートが付いている。
『ケローネだ!亀だ!』と叫んでいたあの亀男の声を思い出す。
ケローネとは亀の名で間違い無いはずだ。
エミスはそっと中を覗いたが、中に亀の姿は無かった。しかし水槽には、半分以下に貯められた水と、陸地が作られていて流木やレンガ、亀の寝蔵なのかひっくり返った植木鉢などが置かれている。餌の置かれた皿もあるので、ここは確かにケローネの住処なのだろう。
(…人間の姿になってるから、ここにいないのかしら?)
まさか人間が亀なわけがないだろう、とは思うもののバカな考えが浮かんでしまった。
立派なデスクの横には沢山の本が並んだ本棚がある。
『カメ大図鑑』『亀のくらし』『世界の亀』『カメの健康管理』『世界各地の亀の伝承』『古代神話〜甲羅を持つ神〜』
どの本も、亀に纏わるタイトルばかりだ。更に、外国語の文献もあり、表紙には大きく亀が描かれていた。
(…あの人、亀の研究ばかりしておかしくなった人?)
エミスにそんな考えが浮かんだ時だった、足音が近づいてくる。
(――しまった!)
反射的にあの男が帰ってきたと思い、とっさにデスクの上にあった金属製のペーパーナイフを手に取って…
――柄には亀の飾りが付いていた
それを構える。
バンッ!!と乱暴に扉が開き、男が入ってきた。
エミスは瞬時に、グッとペーパーナイフを握りしめた。
目が合った瞬間、
「…ええっ?!」
男――あの誘拐犯は、驚きの声を上げた。
両手にはいっぱいの紙袋、右手首には手さげの紙袋が複数ぶら下がり、左手には細長いパンが飛び出た紙袋。
「……は?」
その男の姿を見て、握りしめていた手が緩みエミスの気も削がれてしまった。
向き合ったまま、お互いを暫く凝視する。
誘拐犯が、ハッと我に返った。
「ちょちょちょちょちょっと待って!」
荷物に塞がれている両手のひらをなんとか見せて、エミスの方を向いたまま、横歩きでテーブルに荷物を置いた。
そして、そっと一歩引いた。
「ごめん、驚かせて!少し急用ができて、出かけたんだ!僕は君に危害を加えない!本当だ!この袋の中身も怪しいものじゃない!食べ物と服だ!確認してくれてもいい!僕は離れとくから!」
男は、両手を上げて必死に訴えている。
「…目的は何なの?誰に雇われた?」
エミスはペーパーナイフを再び握り直し、睨みを効かせて、精一杯の低い声を出した。
「君を助けたかった!雇い主なんていないよ!」
「助けたかったって、何!?あんなふうに結婚式無茶苦茶にして!何から助けてくれたのよ!!」
そう無茶苦茶になったのだ、結婚式もエミスの思いも何もかも。
あんな風に結婚式が中断され、トルトの一族になんと言われるか。
平民と貴族の結婚、エミスの家は財力があるといってもしょせんは平民だ。
土壇場で花嫁が消えた、その醜聞を被った家族は今頃理不尽な思いをしているはずだ、そう思うだけで泣きたくなる。
この先は地獄なのだ、エミスに全く非がないのに。
「誰も頼んでない!結婚式の最中に攫ってくれだなんて!私の人生無茶苦茶にして!!何が助けるよ!何に恩義感じてるのか知らないけど、全部あんたの自己満足よ!!バカにすんなぁぁぁ!」
怒りと悔しさに任せて、全力で叫んだ。
男は不意打ちを食らったような顔をして、愕然としていた。
「ごめん…」
酷くしょぼくれた声を出すものだから、我に返りエミスの気が抜ける。
「止めなくちゃって焦ってて…結婚」
男は続けた。
「君が幸せなら、それでいいと思っていたんだ。婚約者もその家族も、君を本気で望んでいると街中がその話をしていた。実際、街で見かけた君は、婚約者と並んで楽しそうな顔をしていた」
悲しそうに見つめる瞳に、彼は何が言いたいのかとエミスの胸が騒ぐ。
「だから、気づくのが遅れてしまったんだ。あんな形になったけど、結婚の誓約だけは阻止しなければと思ったから。」
――彼は知っているのか
「だって卑怯じゃないか」
――どうやって知り得たのか
「君が婚約破棄を出来ない段階になって、手のひらを返してくるなんて」
――あの屈辱的な出来事を
「社交も跡取りを産むのも、男爵令嬢の愛人にさせる。君はお飾りの妻として表に出ずに、家政に取り組めだなんて。」
婚約誓約書を正式に提出した直後だった。
優しかったはずの婚約者が豹変した。
『お前に求めるのは、財力だけだ。平民との子供なんて欲しいわけが無いだろう?』
トルトの――婚約者の言葉
幸せの絶頂から、どん底に突き落とされた瞬間だった。
突きつけられた冷たい瞳と言葉がよみがえり、手が震える。
「……っ!」
涙が頬を伝う。我慢していたものが抑えきれなくなった。ずっと、泣くものか負けるものかと堪えていた。
「本当にごめん。あんな最悪な性根の腐った人間たちだったなんて分からなくて…。あの日から、君の幸せだけを願っていたのに、辛い思いをさせて…」
男は、自分の事のように苦しそうに顔を歪める。
「君を悲しませたり、苦しませたりするつもりじゃなかったんだ。ただ、時間がなかった…」
何故、見ず知らずの男が自分の気持ちに寄り添って悔しそうに、苦しそうにしているのかエミスは不思議な気持ちになった。
そして辛い気持ちを全て吐き出すように、エミスは大声で泣いた。
男は、エミスが落ち着くまで余計な声もかけず、動きもせずそこにいてずっと見守っていた。
どれくらい泣いただろう…時間の感覚が無くなった頃に男はハンカチを差し出した。
亀の柄だった。




