第92話 くるまえびとアシス
イデア界。アシスの体調は日に日に悪化していた。
風の流れは不安定になり、木々は季節を迷い、雨雲は行き先を失う。
調和を司る神の力が弱まれば、世界そのものの均衡が崩れてしまう。
それでもアシスは笑っていた。
アシス 「大丈夫。」
アシス「まだやることがあるから。」
そんなある日。
地上を見ていたアシスは、思わず目を閉じた。
アシス 「喧嘩したのか。」
虹とロン毛。ほんの些細なすれ違い。
しかし、初めての感情ばかりの虹には大きすぎた。
ロン毛もまた、自然たちの声に振り回され、余裕を失っていた。
互いを思っていた。
だからこそ、傷つけてしまった。
虹は泣きながら一人になり。
ロン毛は後悔しながら空を見上げていた。
ナムネも苦しそうだった。
ナムネ 「どうしよう……。」
ナムネ「二人とも泣いてる。」
しかしアシスは静かに微笑んだ。
アシス 「大丈夫。」
アシス「二人が決めることだ。」
虹 「え?」
アシス 「仲直りするか。」
アシス「離れるか。」
アシス「一緒に生きるか。」
アシス「別々の道を行くか。」
アシス「誰かに決められるものじゃない。」
アシス「二人自身が選ばなきゃいけない。」
ナムネ 「でも、会えないよ?」
アシス 「だから、連れてこよう。」
ナムネは驚いた。
ナムネ 「人間をイデア界に!?」
アシス 「最後くらい、わがままさせて。」
そしてアシスは辺りを見回した。
アシス 「誰に頼もうかな。」
すると、水族館の水槽のくるまえびが顔を出した。
くるまえび 「呼んだ?」
ナムネ 「くるまえび?」
虹 「えび?」
アシスは嬉しそうに笑う。
アシス 「好きなんだ。くるまえび。」
くるまえび 「知ってる。」
実はアシスは、まだ人間だった頃からくるまえびが大好物だった。
神になってからも、海のくるまえびたちと仲良くしていた。
アシス 「頼めるかい?」
くるまえび 「もちろん。」
「アシスのお願いだもん。」
アシスは震える手を伸ばした。
調和の力。
残された力。
そのほんの一欠片を、くるまえびに託す。
すると。
くるまえびのしっぽは七色に輝き始めた。
くるまえび 「なんかすごい!」
ナムネ 「大丈夫なの?」
アシス 「たぶん。」
アシスは少し笑った。
アシス 「大丈夫。くるまえびを信じよう。」
くるまえび「しっぽを見てよ。」
ロン毛「しっぽ?」
くるまえび「虹でしょ。」
ロン毛「……………。」
確かに。
水槽の光を受けたくるまえびのしっぽは、七色に輝いていた。
初めて訪れる世界。イデア界。
その中心で。苦しそうに微笑むアシスが、静かに待っていた。
アシス 「やっと来たんだね。」
その笑顔は、どこか今までで一番優しかった。




