第98話 電柱とギタリスト
春の終わり。
空は高く、雲はゆっくりと流れていた。
一本の電柱の下に、一人の青年が立っていた。
長い髪。少し使い込まれたギターケース。
そして、どこか遠くを見つめるような目。
青年は、なぜ自分がここにいるのか分からなかった。
ここへ来ようと思った理由も。
なぜこの場所が好きなのかも。
何かを待っているような気がするのに、
何を待っているのかは思い出せない。
ただ、不思議と落ち着く。
昔から知っていたような懐かしさだけが、胸の奥に残っていた。
ロン毛「……変なの。」
そう呟いて、空を見上げる。
青空の中に、薄く白い雲が流れている。
どこかで見たことがあるような景色。
だけど、その続きを思い出そうとすると、
まるで夢のように消えてしまう。
青年は苦笑した。
ロン毛「まあ、いいか。」
誰かとの約束。
大切な思い出。
涙を流した日。
笑い合った日。
そんなものがあったような気もする。
でも、もう名前も顔も分からない。
不思議と寂しくはなかった。
心のどこかが、優しい温もりで満たされていたからだ。
ロン毛「幸せだったのかな。」
答える者はいない。
風の音だけが、静かに通り過ぎていく。
青年はギターケースを開いた。
中には古びたアコースティックギター。
なぜ弾けるのかもよく分からない。
けれど、指は自然に弦を押さえていた。
ポロン。
柔らかな音が鳴る。
懐かしい。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が少しだけ温かくなった。
ロン毛「……いい音だな。」
しばらく適当に爪弾いていると、
突然、一粒の涙が頬を伝った。
ロン毛「え?」
悲しくない。
苦しくもない。
なのに、涙だけが零れていく。
青年は笑った。
ロン毛「なんだよ。」
ロン毛「歳かな。」
誰に向けるでもなく呟く。
そして涙を拭き、ギターをケースにしまった。
夕暮れが近づき、街に長い影が伸びている。
電柱の上では、鳥たちが羽を休めていた。
青年は立ち上がる。
ロン毛「さて。」
ロン毛「どこ散歩するかな。」
行き先なんて決まっていない。
夢も、目標も、まだない。
だけど。歩いていけば、きっと何かに出会う。
そんな気がした。ギターケースを肩にかける。
その瞬間。優しい風が吹いた。
髪が揺れる。どこからか、花の香りがした。
青年は振り返る。誰もいない。
夕焼けに染まる道。揺れる草花。
遠くで鳴く鳥の声。
それだけ。それだけなのに、
なぜか、たくさんの誰かに見送られているような気がした。
ロン毛「……じゃあ、行ってくる。」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
けれど、どこかで誰かが笑ってくれたような気がした。
青年は少しだけ笑う。
そして、最初の電柱の下から、
新しい人生へ向かって歩き出した。
空には、雨も降っていないのに、
淡く、七色の光が浮かんでいた。
しかし青年は気づかない。
気づかなくてもいい。
その光は、もう世界を繋ぐ奇跡ではない。
ただ、一人の青年の未来を祝福するように、静かに空に溶けていった。




