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9´ 奥義――蒼裂

 穴の底。

 粉塵の微粒子が、差し込む光に照らされて、まるで雪のようにゆっくりと舞っている。  

 俺の心臓は、まるで耳元で鳴っているかのように激しく脈打っていた。


 ――勝てるのか?


 自問が脳裏をよぎるたび、冷たい汗が背中を伝う。


 目の前で繰り広げられているのは、人間業を遥かに超越した死闘だ。アランレイスの斬撃は、俺の目では「光の筋」としてしか認識できない。

 数秒のあいだに何度も繰り出される斬撃。それを、クロノアは不気味なほど正確に、あの黒い手袋で受け止め続けている。


「……っ」

 アランレイスの呼吸が、わずかに、だが確実に荒くなっている。

 一撃一撃に魂を込めた斬撃。それを無尽蔵に繰り出し続ける体力など、この世に存在しない。対するクロノアは、いまだ煤ひとつ付いていない法衣を揺らし、余裕の笑みを浮かべている。


(……おかしい。やっぱり、絶対におかしい)

 俺は、震える手で自分の服のすそを強く掴んだ。


 アランレイスの剣は速い。速すぎる。普通に考えれば、あんな近距離で、一撃の予備動作すら見せない神速の剣を、すべて「見てから」防ぐなんて不可能なはずだ。  


 だが、クロノアはそれをやっている。

 いや――「やらされている」ように見えた。


 俺は目を凝らした。ネカフェにひきこもって、画面の向こうの敵が繰り返す単調なモーションを、死んだ魚のような目で見続けていたあの無益な時間。現実から目を逸らすために、ゲームキャラのわずかな『予備動作』や攻撃の『癖』を嫌というほど目に焼き付けてきた経験が、今、俺に一つの違和感を与えていた。


 それは、クロノアが動く「タイミング」だ。  


 彼はアランレイスの剣を見て動いているんじゃない。アランレイスの剣が、彼の一定の「間合い」に踏み込んだ瞬間、まるで機械的なスイッチが入ったように手が動いている。


 そしてその瞬間、彼の耳もとで揺れる、血のように赤黒い、毒々しい色のイヤリングが、ごくわずかに明滅していた。


(あれだ……。あの赤黒いイヤリングが光るたびに、あいつの手が勝手に動いてる……!)


 それは、たぶん「未来予知」のような高尚な力じゃない。もっと物理的で、もっと強制的な何かだ。  たとえば、装着者への脅威に対して自動的に防御反応をとらせる、補助用の魔道具。


 もしあれがクロノア自身の技量なら、もっと「流れ」があるはずだ。アランレイスの剣を捌く動作に、美しさやリズムがあるはずなんだ。  

 でも、あいつの動きはぶつ切りだ。防ぐ瞬間だけ、操り人形の糸を引っ張られたみたいに、不自然な速度で腕が跳ね上がる。


 間違いない。あいつはあのイヤリングで、剣聖の速度に無理やり「追いつかせて」いるんだ。


「お兄さん……逃げましょう。今のうちに……」

 隣で使用人の女性が、消え入るような声で俺の袖を引く。  


 そうだ。逃げればいい。剣聖とやらが戦っている間に、隙を見て扉から出れば助かるかもしれない。

   

 俺は、ずっとそういう人間だったはずだ。  


 大学三年の冬、第一志望の面接会場のビルを見上げて、吐き気がしてそのまま電車に乗った。自分には何の強みもない。語れるエピソードもない。

 優秀な奴らが並ぶ中で、自分が無価値であることを突きつけられるのが怖くて、俺は逃げた。逃げ続けて、ネカフェの薄暗いブースの中で、「別に努力をしなくても、優秀じゃなくても、死ぬわけでもないんだしいいじゃないか」そうやって安心してきた。


 でも――。


 今、俺の前で血を流しているアランレイスは、俺のために剣を振っている。 俺を守るために、限界を超えて戦っている。  

 あの銀色の鎧が錆び、崩れ落ちても、彼は一歩も引かずに絶望的な力に立ち向かっている。


(ここで逃げたら……俺は、一生ネカフェのブースの中から出られない)


 拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みが現実を引き寄せる。

 俺には魔法もない。剣聖のような技もない。だけど、この泥臭い観察力だけはある。ゲームのラグやバグ、敵のアルゴリズムを見抜くために磨いた、あの「無駄な時間」が、今だけは武器になるはずだ。


「……待ってください。あいつの鉄壁の防御には、穴がある」

 俺は女性に短く告げ、再び戦場に目を向けた。


 アランレイスが、剣を大きく引き、重心を後ろに下げた。  


 先ほど、彼は言った。――認識のできない攻撃、と。


「奥義――『蒼裂そうれつ』」


 アランレイスが剣を横なぎに一閃させた。  

 その瞬間、俺の視界の中で、舞い散っていた穀物粉の粉末が、目に見えない巨大な「塊」に押し流されるようにして、一気にクロノアへ向かって弾け飛んだ。


(――見えた!)


 それはただの斬撃じゃない。  

 剣の腹で空気を叩き潰し、見えない刃として飛ばす技のようだ。


 だが今は、粉末がその通り道を白い影のように描き出している。粉塵爆発の残りカスが、皮肉にも見えない刃の軌道を教えてくれている。


「ふふっ!」

 クロノアのイヤリングが、これまでで最も激しく、不吉な赤黒い光を放った。  

 クロノアの手袋が吸い寄せられるように斬撃の軌道にのる。


 ドォォォォン!!

 目に見えない衝撃が、クロノアの手袋に激突し、貯蔵庫の壁に深い亀裂を走らせた。  

 凄まじい衝撃波が穴の底まで届き、俺たちは思わず顔を伏せる。


「……ぐっ……!」

 砂煙が晴れた時、クロノアの姿があった。  

 だが、その余裕に満ちた立ち姿には、明確なダメージが刻まれていた。


 クロノアの左側の脇腹が裂け、白い法衣がじわりと赤く染まっていく。  

 そして左腕。法衣の袖が破れ、その下の皮膚がどす黒く変色し、不自然な方向に折れ曲がっていた。


「……ふ、ふふふ……」


 クロノアから、乾いた笑いが漏れた。  

 確かにクロノアは手袋で受け止めた。だが、蒼裂は空圧の斬撃、その刃は手袋一枚がカバーできる範囲を超えていた。  


 相殺しきれなかった空気の刃が、手袋を回り込み、彼の身体を側面から叩き、肉を裂き、骨を砕いたのだ。


「……かすったのみ……ですか。非常に……不服ですね。これではたりません」


 クロノアが折れた左腕を、まるで自分のものではない道具のように見つめる。  

 そして、彼はその折れた腕を――自分の右手で、無理やり元の位置に押し戻した。

 バキッ、という生々しい骨の音が響く。


 俺は思わず吐き気を催した。だが、クロノアの表情は、苦痛に歪むどころか、恍惚とした笑みに彩られていた。


「ああ……! これが、痛みですか。なんと、なんと素晴らしい……。死が生の輪郭を作るようだっ……」


 彼は血の滴る脇腹を愛おしそうに撫で、指先に付いた赤黒い液体を、陶酔しきった表情でゆっくりと舐めとった。  

 金の瞳が、狂気的な光を帯びて激しく揺れる。


「ふふっ……ははは! これほどの痛み、人生で初めてですよ。ええ、初めてです。だから、こんなに嬉しいのですね。お礼を言いますよ、アランレイス殿。……あなたは、私をここまで高揚させた。その功績に免じて、最高の死を捧げましょう」

   

 彼は損傷した身体を微塵も感じさせない速度で、アランレイスへと肉薄した。

 アランレイスの顔に、明確な焦燥が浮かぶ。  


 今の奥義は、彼にとっても文字通り「乾坤一擲けんこんいってき」の攻撃だったはずだ。それを食らってなお、笑いながら攻勢に転じてくる狂人を前に、剣聖の心に微かな「死」の予感がよぎる。


 だが、アランレイスは止まらなかった。ここで引けば、陽介たちもろとも蹂躙される。

 彼は軋む筋肉の悲鳴を無視し、残された全力を剣に込めた。


「奥義――『蒼裂そうれつ』っ……」


 二度目の『蒼裂』。  

 一度目よりもさらに鋭く、最短の軌道で放たれた不可視の刃。

 舞い散る穀物粉が、その軌跡を白く浮き彫りにする。


 しかし。  

 クロノアは今度は、手袋を構えなかった。


 ――ピリッ。

 あの赤黒いイヤリングが、これまでで最も不吉な色に明滅する。手袋で止めても受けきれないことを学習したのだろう。  

 クロノアの身体が、まるで物理法則を無視したかのように不自然な角度で傾いた。    

 耳元を、猛烈な空気の塊が通り抜ける。蒼裂の余波がクロノアの銀髪を数本散らしたが、その身体にはかすりもしなかった。彼はその斬撃を躱したのだ。


「……っ!?」

 アランレイスの足が、ついに止まった。  


 剣を支えにしなければ立っていられないほど、その肩が激しく上下している。全速の連撃に加え、奥義の連発。剣聖の肉体といえど、そのリソースは限界をとうに超えていた。


「おや……。おっと、お疲れのようですねぇ」

 クロノアが、折れた左腕をだらりと下げたまま、一歩、また一歩と近づいてくる。  

 その歩調は、まるで午後の散歩を楽しむ貴族のように優雅で、それでいて死神の足取りよりも確実だった。


「すぐに肉塊にして、これ以上疲れないようにして差し上げなければ。ああ……。なんと慈悲深い、実に慈愛に満ちているでしょう?」

 歪んだ慈悲。破壊を救済と信じて疑わない、狂信者の眼差し。  

 アランレイスは必死に剣を持ち上げようとするが、指先が震えて力が入らない。


(ダメだ。このままじゃアランレイスが殺される……!)

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