10´ イヤリング
俺の頭の中で、あるパズルが組み上がっていく。
クロノアは今、アランレイスに完全に集中している。痛覚を愉悦に変え、意識を極限まで尖らせて、アランレイスを「ただ殺す」ことだけを考えている。そして、彼の鉄壁の防御を支えているのは、おそらく、あの赤黒いイヤリングだ。
あれがある限り、アランレイスがどれほど鋭い剣を振るっても、クロノア肉体は強制的に「正解」の動きをするだろう。
逆に言えば――あのイヤリングさえなくなれば、あいつはただの「片腕の折れた、狂った男」に成り下がる。
「えっ……? お兄さん、まさか……!」
俺は答えず、貯蔵穴の縁へと這い寄った。
今のアランレイスとクロノアの距離は、5メートルもない。
アランレイスが剣を振るたびに、火花と風圧が巻き起こり、周囲の穀物粉が激しく撹乱される。
この「音と視覚のノイズ」こそが、俺の唯一の隠れ蓑だ。
(落ち着け……。あいつの魔道具のアルゴリズムは、アランレイスの攻撃に特化してる。殺気もない、魔力もない、ゴミみたいな俺の動きなんて、あいつの魔道具はターゲットに指定しないはずだ……たぶん)
就活の面接会場で、足が震えて動けなかった時のことを思い出す。
あの時、俺は「自分は誰からも必要とされていない」と思っていた。でも、今は違う。
ここで俺が動かなければ、この街の希望である剣聖が死ぬ。守ってくれた人たちが死ぬ。
(俺が……やるんだ)
俺は、肺にたまった空気をすべて吐き出した。アランレイスが、三度目の『蒼裂』を放とうと、剣を大きく振りかぶった。クロノアが避ける体勢を構える。イヤリングが、これまでで最大の輝きを放つ。
その瞬間だった。
「うおおおおおおおおっ!!」
俺は、穴の底から文字通り「飛び出した」。粉塵の渦を突き抜けて、クロノアの背後へと跳ぶ。
クロノアの意識は、正面のアランレイスの「奥義」に100パーセント向けられていた。
彼のイヤリングが反応してたのは、剣聖の放つ破滅的な一撃のみ。
その後ろから、無様に、がむしゃらに腕を伸ばして跳んでくる、武器すら持たない無能の存在は、魔道具の演算から完全に排除されていた。
「――ぅん!?」
クロノアが、初めて驚愕に目を見開いた。彼の視線の端に、俺の歪んだ顔が映る。
俺の指が、クロノアの耳に触れた。
冷たい。
凍りつくような冷気が、指先から伝わってくる。だが、俺は怯まなかった。自分の爪が剥がれても、指がちぎれたとしても構わない。その赤黒いイヤリングを掴み、俺は全体重をかけた。
「これ……だぁぁぁっ!!」
力任せに、引きちぎる。ブチィ、という鈍い音とともに、クロノアの耳たぶが裂け、鮮血が俺の顔に飛んだ。
赤黒い輝きが、俺の手の中へ消える。
「アランレイス!!」
俺は叫んだ。
その声に応えるように、アランレイスの瞳に、勝利の確信が宿った。
クロノアの世界から、加速された色彩が消えた。
魔道具の神経介入による防御反応の能力が断たれ、クロノアの意識は、本来の「人間」の感覚へと引き戻された。
アランレイスは、剣を振りかぶった姿勢のまま、無理やり軌道を修正した。
奥義ではない。 ただ、彼が剣を握ったその日から、数十万回、数百万回と繰り返してきた、もっとも純粋で、もっとも完璧な「ただの一閃」。
銀光が、クロノアの首筋を静かに薙いだ。
「あ…………」
クロノアの視線が、宙を泳いだ。
パキィィィィン、と。
アランレイスの剣が、クロノアの首ではなく、そのすぐ下――右肩の付け根を断ち切った。
どさっ。
クロノアの右腕が、黒い手袋をはめたまま、床に転がった。
肩の断面から、噴水のように鮮血が舞い上がり、貯蔵庫のレンガの壁を瞬時に紅く染め上げる。
「…………ああ」
クロノアは、自分の失われた腕を見つめ、それから俺を見た。
俺は、引きちぎったイヤリングを握りしめたまま、石畳の上に無様に転がっていた。
「……私の……腕が……」
彼はよろめきながら、数歩下がった。
その顔から、あの不気味な愉悦が消えていた。
そこにあるのは、エラーを突きつける計算機のような、理解しがたいといった表情だった。
「感じる……あなた……。あなたは何者なんですか、ヨースケ……」
クロノアの声には、もはや余裕はなかった。彼は残された左手で、激しく噴き出す肩の血を抑えようとするが、指の間から赤黒い液体が溢れ出し、彼の真っ白な法衣を無残に汚していく。
「俺は……何者でもない……俺が何者かだったら、とっくに逃げてる」
俺は、立ち上がろうとして、足に力が入らずに四つん這いになった。荒い呼吸の合間に、床に散らばった穀物の粉が喉に張り付いて、むせ返る。
「あんたが勝手に一人で満足そうに喋ってた『定め』だか何だか……そんなの、知ったことかよ」
俺は、震える手で地面を突き、クロノアを睨みつけた。
あいつが何を信じて、何を救おうとしているかなんて、俺には1ミリも理解できないし、理解してやるつもりもない。
アランレイスが、剣を支えにしながら、ゆっくりと歩み寄る。その身体からは、もはや闘気は感じられない。だが、彼の瞳は、かつてないほど澄みきっていた。
クロノアは、しばらくの間、無言で俺ら二人を見つめていた。
やがて。彼の口元が、わずかに吊り上がった。
それは先ほどまでの愉悦とは違う、自嘲を孕んだ、歪な笑みだった。
「ふふ……ははは! 素晴らしい。本当に素晴らしいですよ! ヨースケ殿、アランレイス殿!」
クロノアは、血まみれの左手で、懐から小さな、真っ黒な球体を取り出した。
「定めにない一節。書き換えられた結末。……ああ、世界が歪む音が聞こえる。これこそが……これこそが、真の混沌だ……!」
彼はその球体を、床に叩きつけた。
パリンッ!
ガラスが砕けるような音とともに、球体から漆黒の煙が噴き出し、一瞬で貯蔵庫の中を埋め尽くした。
同時に、先ほどの粉塵爆発で引火していた火の手が、魔道具による煽りを受けて一気に巨大な火柱となった。
「今日は、この腕を差し上げましょう。……忘れないでください、ヨースケ殿。あなたは私の世界に、もっとも醜く、もっとも美しいシミを付けた。……次に会う時は……『絶望』に満ちた結末を、私があなたのために書き上げましょう」
煙の向こうから、クロノアの狂気に満ちた声が遠ざかっていく。
アランレイスが、煙の中へ素早く剣を突き出したが、そこにはもう、手応えはなかった。
その断罪官は、自らの血を道標にするようにして、炎の向こう側へと消えていた。
「っ……逃げられたか」
アランレイスが剣を鞘に収め、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「アランレイスさん!!」
俺は慌てて駆け寄った。
彼の白銀色の鎧はボロボロになり、左腕の傷からは未だに黒ずんだ気が立ち上っている。
「……大丈夫だ。死ぬほどではない」
アランレイスは、自嘲気味に笑った。
そして、彼は俺の顔をじっと見つめ、その手を俺の肩に置いた。
「ヨースケ。……俺の負けだ」
「えっ……?」
「お前がいなければ、俺はあいつの魔道具を崩せなかった。……お前が、俺を勝たせてくれたんだ」
アランレイスの手は、震えていた。
俺は、手の中に残っていた赤黒いイヤリングを見つめた。
血に染まったその魔道具は、もう光を発することもなく、ただの醜いガラスの塊としてそこにあった。
(俺……やったんだな)
就活から逃げ、人生から逃げ、この世界に飛ばされてからも、ずっと「俺なんて」と思い続けていた。
でも、今、この瞬間だけは。
俺はこの世界にとって、意味のある存在になれたような気がした。




