2´ 異世界、初入街
「――何を話しているの? あなたたち」
聞き覚えのある、凛とした、それでいて鈴を転がすような澄んだ声が背後から響いた。
その一言が、鋭い刃のようにピリピリと張り詰めていた重苦しい空気を一瞬で切り裂く。
「聞こえなかった? 何をしているのかって聞いたんだけど」
俺と、そして今にも剣を抜きそうだった二人の兵士。
三人の視線が吸い寄せられるように、門の反対側に佇む彼女へと向けられた。
逆光を背に受けて立っていたのは、淡い緑色の髪を風になびかせた少女だった。
その整った容姿、そして何より、周囲の空気を支配するような気高さを前にして、兵士たちの顔から一気に血の気が引いていく。
「こ、これは……シェリア様!」
俺のトレカを握りしめていた方の兵士が、ピンと弾かれたように直立不動の姿勢をとった。
あんなに威圧的だった屈強な大男が、今はまるで雷鳴を聞いた子供ように怯えている。
「……この、妙な布を纏った流れ者が、ギルド・タグではなく、見たこともない、竜が封じられた『マギ・プレート』を所持していたもので。……もしや密偵の類いかと思い、入街を阻止していたところであります!」
兵士は弁明するように、必死の形相で俺のトレカを差し出した。
シェリアと呼ばれた少女は、平然とした足取りでこちらへ近づくと、兵士の手から無造作にカードを奪い取った。
彼女は俺の顔と、そのカードを交互に一瞬見る。
カードが放つ虹色の光沢を捉えた瞬間、彼女の瞳が鋭く細められた。そのあまりに精巧な加工は、彼女の目には「未知の高度な魔道具」として映ったようだ。
だが、彼女はすぐに何食わぬ顔でふん、と鼻を鳴らす。
「大げさね。ただの旅の護符じゃない。……その人は私の知り合いよ。入街を許可してあげて」
「はっ……シェリア様の、お知り合い……!?」
兵士たちは愕然として顔を見合わせた。
「なぜこんな男が」という疑念と、「彼女の言葉なら従うしかない」という諦めが混ざったような表情だったが、結局、彼女に異を唱える度胸はなかったらしい。
「失礼いたしました! すぐに開門いたします!」
あんなに難癖をつけてきたのが嘘のように、兵士たちは慌てて門を開け放ち、深々と頭を下げた。
シェリアは俺にトレカを投げ返すと、「行くわよ」とだけ短く告げて、迷いのない足取りで門の奥へと歩き始めた。
「あ、おい、待ってくれ……!」
慌ててカードをキャッチし、俺は彼女に置いていかれまいと、その巨大な門の先へと足を踏み入れた。
一歩、境界を越えた瞬間。
網膜を刺すような鮮やかな色彩と、暴力的なまでの活気が俺を襲った。
「――っ……」
俺は、あまりの光景にその場に固まってしまった。
人、獣人、人、エルフ、ドワーフ、獣人……。
視界を横切る、あまりにも多様な種族の群れ。
艶やかな毛並みを震わせる獣人が、巨大な荷車を引くドワーフの横を通り過ぎる。
長い耳をなびかせたハーフエルフが、露店の店主と親しげに笑い合い、その足元を小さな角が生えた子供たちが駆け抜けていく。
石畳に響く無数の足音、鼻をつく香辛料と家畜の匂い。
それらすべてが、俺が知っている商店街とは決定的に違う「異世界の日常」として、そこに存在していた。
「いや、薄々……気づいてはいたけどさ……」
コスプレでも、映画のセットでもない。
目の前に広がる圧倒的な『現実』を前に、俺は立ち尽くしてしまった。
「い、異世界転生ってやつですか!?」
いや、現実での俺は死んでいないはずなので、正しくは異世界"転移"が正解か――。
いやいやいや。信じられるか!?
俺は別に死んだわけでもないし、召喚されるようなことをした覚えもない。
しかし、俺の視界に入ってくる光景は、まさにゲームやラノベで見るような異世界のそれだった。
「何をそんなに騒いでいるの、あなたは」
淡い緑の髪を持つ美少女。
さっき、シェリアと呼ばれたその娘は、俺に奇異の目を向けてくる。
いいさ、大歓迎だ。
面接官の「お前、何しに来たの?」というゴミを見るような視線に比べれば、美少女からの蔑みなんてご褒美みたいなもんだ。
「い世界、てん……何? よくわからないけど、気になってついてきてみたら門兵に止められてたみたいだから、親切で助けてあげただけよ」
そう言いながらも、彼女の視線は俺のジャージのポケット……つまり、さっきのカードをしまった場所を向いていた。
実際は俺のトレカを怪しんで、俺のことを尋問しようとしているんじゃないだろうか?
「なら、さっきは何で俺のこと追っ払ったんだよ」
「最近、アル爺と私に絡んでくる輩がいて、そいつらの一味かと思ったけど、違ったようね。その顔を見ればわかるわ」
「どういう意味だよ」
というか、耳が長い。
この娘はやはりエルフか何かなのか?
エルフというと、魔法を使ったりするイメージがあるが、やはり魔法を使ったりするのだろうか。
それに、さっきの門兵の反応を見るに、相当な権威か何かを持っているらしい。
「それで? あなたは何者なの。見たところ旅装束でもないし……浮浪者か何か? 場合によっては、また街から出てもらうことになるけれど」
マズい、マズい、マズい。
街に入れたことで、内心どこか「クリア」したような気になっていたが、状況は何も変わっていなかった。
いや、むしろ悪化している。
身元不明の不審者として、今度はこの最強に可愛い自警団(?)に突き出されるパターンだ。
「あ、いや! 俺は……相原陽介って言うんだけど」
「アイハラ・ヨースケ? 変わった名前ね。で?」
「その、ちょっとした事故で記憶が混乱してて。でも、この免許証を見てくれればわかる通り、由緒正しい……」
(……なにやってるんだ、俺は。異世界でこんなプラスチックの板が通用するはずがない。
だが、パニクった脳は、窮地を脱する唯一の手段として、染み付いた現代の習慣――「身分証の提示」を、無意識に選択してしまっていた)
混乱したまま、震える手で免許証を突き出した
必死に食い下がろうとした、その時。
街の奥、巨大な時計塔の方から、重厚な鐘の音が三回響き渡った。
「――っ、しまった。すっかり忘れたわ」
シェリアが顔色を変えた。
さっきまでの余裕が消え、焦りがその端正な顔をよぎる。
「いい? そこでじっとしてなさい。本当なら守備隊のところまで連れて行くつもりだったけど、急ぎの『招集』が入ったわ。街の広場から動かないこと。変な気を起こして逃げようとしたら……わかってるわね?」
彼女は腰に差した細剣の柄に指をかけ、鋭い視線で俺を釘付けにした。
「わ、わかった。動かない、絶対動かないから」
「……信じるわよ。……不審な動きをしたら、承知しないから」
シェリアは風のように身を翻すと、驚くほどの速さで人混みの中へと消えていった。
あとに残されたのは、異世界の中心でジャージ姿のまま取り残された、内定ゼロの俺一人。
「招集……? というか、動くなとか言われても、こんな場所で立ってられるかよ」
俺は、シェリアが消えていった人混みの奥を睨みつけながら、小さく毒づいた。
右を見ても左を見ても、歴史の教科書かファンタジー映画から飛び出してきたような連中ばかりだ。
そんな中で、ド○キの安物ジャージを着た男がポツンと立っている。
その方がよっぽど不審者だし、さっきの門番たちに見つかったら、今度こそ「マギ・プレートの偽造」か何かで極刑になりかねない。
「せっかくの異世界だ。見どころは腐るほどありそうだしな……」
俺はジャージのポケットに手を突っ込み、期待と不安が入り混じった足取りで歩き出した。
石畳の舗道には、見たこともない紋章が刻まれた旗がはためき、通りに並ぶ露店からは、焦げた肉の匂いや、嗅いだこともない芳醇な香辛料の香りが漂ってくる。異世界への期待感が高まる。
だが、甘かった。
「おい、そこ! 邪魔だ、どけ!」
「ひえっ!?」
背後から迫ってきたのは、巨大な二足歩行の鳥(ダチョウを凶暴にしたような何か)が引く荷車だった。
慌てて横に飛び退くと、そこは露店がひしめくエリアで、俺の足が積み上げられた木箱に引っかかる。
ガッシャーーーン!!
「あ、あああ……!」
「てめぇ! 何してんだ! 俺の特製『ルルの実』が台無しじゃねえか!」
真っ赤な、トマトに棘が生えたような果実が石畳に散乱する。
店主らしき強面のドワーフが、首を鳴らし、丸太のような腕をまくりながら詰め寄ってきた。
「す、すみません! 弁償します、今払いますから!」
俺は体に染みついた条件反射で財布をひったくり、中から千円札を一枚抜き取ってドワーフに差し出した。
「ほら、これで! お釣りはいいですから!」
だが、ドワーフは差し出された紙切れをまじまじと見つめた後、その顔を怒りで転がった"ルルの実"のように真っ赤に染め上げた。
「……あぁ? てめぇ、俺を舐めてんのか?」
「えっ……?」
「なんだこの薄汚ねぇ、妙に手触りのいい紙切れは! こんな燃えカスにしかならねぇ紙クズで、俺の売り物を買い取ろうとしたのか!? ああ!?」
バカか俺は。ここは日本じゃない。諭吉も英世も、ただの紙に過ぎない場所なんだ。俺は脳死で言い訳を続けた。
「いや、紙クズじゃないです! これ、俺の国では、う○い棒百本分くらいの……」
「うるせぇ! 価値があるのは金貨と銀貨だけだ! 金がねぇなら体で払ってもらうぞ!」
「待て待て、話せばわかる! これ、透かしも入ってるし……あ、こら、離せ!」
「うるせぇ! そのだらしない服ごと、ドブネズミと一緒に洗ってやる!」
ドワーフの剛腕が俺の襟首を掴みかかってきた、その時。
散らばった果実の匂いに釣られたのか、空から巨大な翼を持ったトカゲ(?)が急降下してきて、広場は阿鼻叫喚のパニックに陥った。
そのトカゲはあたり一帯を蹴散らし、暴れまわっている。
死んだ。
就活をサボったバチが、異世界で、トカゲの餌という形で当たったんだ――。
そう思って目を閉じた瞬間。
キンッ、と、鼓膜を震わせるほど高く澄んだ音が響いた。
「――往来で騒ぐには、少々、羽音がやかましすぎるな」




