脇役にリザルト画面はない
王都が燃えている。
アンネローゼが育ち、好きな人が―――いつかアンネローゼの夫となったかもしれない王太子が治めるはずの国が、天まで焦がす勢いで燃えている。大神殿と対極に位置する王城は記憶にある姿を留めていなかった。大陸北方がそうなったようにして闇が開き、滴り、王都ごと飲み込もうとしている。
これが魔王討伐の前哨戦も前哨戦、『旅立ちのイベント』だというから恐ろしい話だ。
妙に落ち着いている自分に少し笑った。神殿の外に出ると神殿兵たちが王都の付近では出会うはずもない恐ろしい魔物たちと戦っている。これまで数々の『預言』を的中させた聖女を守るためにと、命を賭けてくれている。おかげでセルゲイが神殿の奥までたどり着けたのだろう。
両手を組んで魔法を使った。ユズキが『レベリング』をしてくれたおかげで、この程度の魔物であれば一掃できる。
「聖女様!」
「ここはもういいわ。街の東に向かってください。『神託の勇者』たちが居たら守って差し上げて」
「ですが、御身は」
「……私は『聖女』よ。皆を守る役割を果たします」
ご武運を、と、今しがた勇敢に魔物を退けた兵にすらただ頭を垂れられるほどに、彼女はアンネローゼを強くしてくれた。
それでも足りない。到底届かない。なにせ聖剣とその使い手が居る状況ですら、『旅立ちのイベント』において魔王軍の幹部にも歯が立たないはずなのだ。
―――魔王はどこか、と探す必要もない。
王城から神殿に向けて、圧倒的な質量を持つ魔力の塊が移動しているのが分かる。炎の合間に噴き上がる闇の魔力が遠目でもはっきりと見えた。なるほどこれは強そうだ、とどこか現実離れした心地でアンネローゼはそれを見た。
封印を解き、聖なる武具を集める。魔王は聖女によって五つの武具とともに再び封印される。『トゥルーエンド』ではかつて封印された悪しき魔王の側面から引き剥がされた魔族の王が生き残り、聖女は魔王とすら絆を結ぶという。
「―――ユズキは、すごいわね」
あれを前に和解の道をと思うことなど、アンネローゼには出来そうにない。
燃え盛る街を歩く魔力の塊は、ひと薙ぎで兵やひとを薙ぎ払っていく。遠くでぱっと闇の炎が弾けて光る。ひとつ遅れて爆発音が王都のうつくしい街並みを薙ぎ払う。
本当の聖女ならば傷に呻く市民の前に跪き助けてと叫ぶその手を取っただろうし、普通の令嬢ならばきっとユークリッド公爵家の無事を祈っただろうけれど、アンネローゼはどちらもしなかった。やるべきことがあった。
私としての全てを捨ててでも、アンネローゼが守り、支え、信じる『聖女』の『預言』を叶えてやりたかったのだ。
ほんの僅かにでも希望をつなぐため、少しでも先へと燃える王都を駆け抜ける間にいろいろなひとを見た。
ひしゃげた盾。血の匂い。片目どころか胴から下がない姿。不利を悟ってセルゲイに聖女救出を言いつけて、かれが背を向け駆け出した時にはすでに満身創痍だったのにそこからさらに何人も救ったのだと、隣で死を待つばかりの副官が誇らしげに言う。
折れた杖。それを握った腕だけ。王都を守る城壁についた防護魔法の焦げ跡。ユズキの言だけではすぐに動かず、公爵家が研究費にと金貨を積んでようやく味方になってくれた曲者だ。そのくせこんな戦いの最前線で、皆の盾となって死んだらしい。早く旅に出たい、聖魔法と封印魔法の研究が楽しみだと不敵に笑う人だった。
「……済まない、アンネローゼ殿。役目を果たせず―――何も―――」
「いいえ。……ごめんなさい。私たちこそ、あなたを巻き込んでしまった」
「いいや。……おかげで、おれはさいごまで誰かのために―――この槍を―――……」
きょうの朝に出会ったばかりの隣国の英雄・アンバーなどは、それでも縁もゆかりもない王国の市民のために戦ってくれていた。英雄の名にふさわしいひとだ。冤罪などで座を追いやられるなど、こんなところで犬死にするなどあってはならない人だった。今倒れては、結局何一つ汚名返上の機会もないままなのに。
確定した死には効果のない治癒魔法をかけてもほんの少しの痛み止めにしかならなかっただろうが、誰も知り合いの居ない国で最期の瞬間に僅かでも面識のあるアンネローゼが傍にいられたのは果たして救いになっただろうか。
『預言』が果たされることはなくなった。『メインキャラ』、いずれ魔王を倒すはずのかれらはすでに欠けている。
終わりなのだ。『メインキャラ』が欠けては『トゥルーエンド』にはたどり着けない。レオンハルトとセルゲイだけで、果たして世界は救えるのだろうか。
「……シオンさまは?」
「魔王にせめて一矢、と。先ほど……」
市民の避難誘導を行うのは、少し前にユズキと一緒に会いに行った傭兵団の一員だ。亡国の王子がその憎しみを魔物に向けて、罪のない民たちを守り爪を研いでいたところを『聖女』の神託なのだと告げて旅の仲間にスカウトするまでにはひと悶着あった。
遅すぎる、どうして俺たちの国の滅びを預言してくれなかったのだと怒鳴られて、ユズキはすっかり落ち込んでいたものだ。彼女がこの世界にやってきたのは帝国が亡びた後のことだ。本来であればアンネローゼに向けられるべきだろう罵倒を、けれどユズキはただ俯いて受け止めていた。
それが八つ当たりだということはシオン本人もよく理解していたはずだ。最後には父母や兄妹、守るべき国を滅ぼした魔王を倒すいちばんの可能性だ、としてユズキに賭けてくれたのに。
―――いったいどこで預言を違えたのだろう。確かにアンバーは昨日王都へと到着したけれど、レオンハルトはまだ離れた場所にいる。それで問題ない、『フラグ』は立たないと、ユズキもそう言っていたのに。
「―――……ッ!!」
せめてシオンだけでも生き延びられないか、とこの期に及んで思いながら向かった先で、アンネローゼはついに魔王と相対した。
魔人たちの王、魔王。聖女と同じ黒いろの髪に、アンネローゼと同じ血のような赤い瞳。背には五百年前の封印の際に片方を捥がれた隻翼があり、その頭からは太く黒い角が二本生えている。ユズキから聞いていなければ、その禍々しいほど美しい男を悪の元凶、魔王と断じることは出来なかっただろう。
燃え盛る城下の大通りには、すでに物言わぬ屍しか転がっていない。魔物を配下のように侍らせるでもなく魔王はひとりだった。手にした黒炎を纏うつるぎの先にぼろ布のようになった青年を引っかけているだけだ。また間に合わなかった。
せめて一矢。せめて。それはアンネローゼも同じだ。少なくとも魔王の興味を自分に向けて、時間を稼ぐくらいはしなければ。
「久しいな、アンネローゼ」
そういうふうに思っていたのに、そう声を掛けられたときに手元に紡いだ魔法がばちりと弾けた。集中力が途切れたのだ。
「……魔王」
当然に、かれと自分は初対面だ。
アンネローゼは『闇堕ち』などしなかった。だから。なのに。その人間のものとは思えないような美貌の男を、見たことがあるような気がしてくる。
「これがあの忌まわしい武具の使い手か。弱い、弱すぎるだろう。宝の持ち腐れも良いところだ」
シオンの身体が無造作に剣のさきから払われて、遠く燃える民家の屋根の上に転がる。ぴくりとも動かない身体に罪悪感を覚える間もなかった。
「異世界とやらから来た女はどこに隠した?」
じっとアンネローゼを睥睨する男が、そう尋ねる。手が震えた。今すぐにでも膝をついてすべてを洗いざらい話してしまいたい、という誘惑がちらつくほどの威圧感。目の前の男に従わなければならない、と思わせるその圧倒的な力。
「少し見ぬ間に、ずいぶんと『聖女』らしくなったではないか」
けれど唇を噛み、もうあの小さな手を握ることのできない掌をきつく握ってそれに耐えた。
「……ええ。私は212代目聖女アンネローゼ。あなたに応える言葉を持ちません、魔王よ」
「褒めてやったのに、喜ばないな。……、誰かに褒められたい、と泣いていた愛らしいお前はどこに行ってしまったのだ」
心外とばかりに片眉を上げた男は、アンネローゼが両手のなかに練り上げているありったけの魔力を見ても何も仕掛けてこようとはしなかった。
「見せてみろ。『私こそが聖女に相応しい』のではなかったか?」
目の前の男は何の話をしているのだ。いったいなにが起きてここに居る。これほどまでに残酷なことをしてみせる。
―――本来アンネローゼはこの男の元に降るはずだった。
知っている。ユズキは躊躇わずそれを教えてくれた。アンネローゼもそれを受け入れた。そうはならないと二人で誓った。なのに。この男の緋色の瞳は、アンネローゼを敵視してはいなかった。まるで小さな子どもを揶揄うように、低く艶のある声が軽やかにアンネローゼを撫でてゆく。
「……」
「かつて俺を封印した五つの武具。女神の加護持つ忌々しいそれ。あの時の魂。よくぞまあ揃えたものだ。招かれざる聖女の魂胆は知れている。---が、輝きがあまりにも足りていない」
シオンを吹き飛ばした先をちらと見て、魔王は肩を竦めてみせた。
「その点、……お前は違うな。少しは見れたものではないか。その細腕を、よくそこまで鍛えたものだ」
「……」
「……それにしても。―――聖剣はその手に余るだろう」
魔力のコントロールが失われる。アンネローゼの足元から行き場を失った聖なる力の奔流が湧き上がり、炎が燃え盛る夜の王都に一瞬だけ光の柱が噴き上がる。
どっと汗が噴き出してアンネローゼの背を濡らした。
聖剣。
聖剣と言ったのか。目の前の男、憎き魔王は。
それはレオンハルトのものだ。尊きこの国の王太子。神殿に籠り平和を祈るお飾りの聖女のところへ折に触れてはやってきて、あたたかな言葉を掛けてくれた優しいひと。
―――『旅立ちのイベント』では、聖剣を手にしたレオンハルトが襲撃される王都を前にこれ以上好きにさせるものかと奮起して、その封じられた力の一片を引き出すことで危機を脱することとなるという。
初代聖女と聖剣の勇者の子孫である王家に伝わる聖剣は、すでに正しい使い手の元にある。だからこそ彼抜きに『旅立ちのイベント』は発生しないのだ。
聖剣に選ばれたレオンハルトがここにいないから。
息が浅くなる。
ユークリッド公爵令嬢アンネローゼは本来ここにはいない。ユズキはそう言っていた。
目の前の魔王のもとへと降り、いちどは聖女であった身でありながらその悪の手先となる。本来であれば今頃はもう、討伐のためにとやってきたレオンハルトと小競り合いをしたのちに闇に呑まれて消えているはずだ。
だが、今。
アンネローゼはここに居る。
大切な親友のため、聖女としての矜持のため、そして僅かにでも未来へ希望をつなぐために。
「命乞いはしないのか? 肝心の剣もなしにたった一人。俺に敵うわけもないだろう」
―――アンネローゼがここに居る。
直近では三代前に王妹が降嫁した、王族とも縁の深い―――薄けれど確かに王族の血を引く女がここに居る。
さきほどまでの魔王はアンネローゼを彼に降る哀れな偽りの聖女として扱った。いま、目の前の魔王はアンネローゼを聖剣の担い手として扱っている。自分の言葉の不可解さに、魔王は気付いていないように思えた。
ようやく分かった。ユズキはやはり『真なる聖女』だ。
―――揃ってしまったのだ。
運命は皮肉にも居るはずのない五人目を、アンネローゼと誤認した。
「あ……、そんな―――……!」
アンネローゼのせいだ。ユズキが精緻に積み上げた『フラグ』を壊したのは、アンネローゼだった。
そう悟っても膝から崩れ落ち泣きじゃくることを自分に許さず、爪が皮膚に深く突き刺さって血を滴らせる手のひらをそのままに拳を固めて魔力を迸らせるその苛烈な魂が、『聖女』の傍らで正しく磨き上げられたことでそうなった。
聖女が選んだアンネローゼは、『メインキャラ』たる格を得たのだ。
「―――飛来せよ“光の剣”」
アンネローゼが血がにじむほど唇を噛み俯いたのはほんの数秒。目の前の『敵』への怒りを宿し、真紅の瞳が昏い焔に燃える。血塗れた手のひらを天に突き出し、七本の光る剣を頭上に展開した。
「ほう、やるか?」
魔王はそんなアンネローゼを見て愉快そうに笑っている。まるで飼っている犬猫がじゃれついてきたような顔で。大きく息を吸って吐いた。アンネローゼの役割はただ一つ。ユズキが逃げる時間を稼ぐこと。罪滅ぼしにもならないが、それしかないならするしかなかった。
「わたくしは、―――私は第212代聖女アンネローゼ。女神さまに選ばれた祈り手」
怒りと絶望が臨界点を超え、すでに心は凪いでいる。
「『真なる聖女』の友!」
ありったけの力を注いだ七本の剣はひとりでに動いて魔王へと襲いかかる。魔王は片眉を上げ軽い仕草でそれを払ったが、払った先で剣が裂けて二本になり、再びその切先を魔王に向けたのを見て口端を吊り上げた。
「なるほど、器用なことをする」
こちらへと攻撃する素振りがないのが不思議ではあったが、アンネローゼにとっては好都合だ。殺せなくともよい。それは『真なる聖女』の役割だから。だが、すでに多くを失ってしまったこの王都を前に心を痛めるだけでは居られなかった。憎しみがある。怒りがある。
「“光の檻”! “氷の礫”―――、重ねて“雷の槌”!」
「多属性多重詠唱か! 珍しいことをする」
魔王の腕を拘束する。ほんの身じろぎ一つで破壊される。光の剣は闇の茨に絡め取られ、まとめて地面に縫い留められた。気を散らすために放った他属性の魔法は詠唱もなしに噴き上がった闇の炎に融けて消える。然るべき手順を踏まなければ、魔王にダメージを与えることすら難しいことは知っていた。
時間稼ぎにもならないと知り、アンネローゼはぐ、と奥歯を噛む。向こうがその気になればアンネローゼも数秒でただの肉塊になるだろう。策を練ったが、この状況を打開する術が見つからない。
『魔王に攻撃をするアンネローゼ』を想定していないのか、アンネローゼの悪あがきを前に魔王が愉快そうに笑うばかりなのが救いだった。一秒でも長くその興味を惹いていれば、それだけユズキの助けになる。だから。
「―――王よ」
ありったけの魔法を組み合わせて魔王と相対していた時間は、実際にどれほどだったのだろう。
肩で息をし、魔力切れ間近でチカチカと視界が点滅するようになってしばらく。それでも一切こちらに手出しをしてこない魔王を前にただひとり立ちはだかるアンネローゼの戦いは、時間切れで幕を閉じた。
燃える王都に照らされる魔王の傍ら、影から這い出るようにして見上げるような体格をした黒い鎧の剣士が現れる。本来はこの『旅立ちのイベント』に一人で現れるはずの魔王軍幹部だ。正しく王都に来ていたのか、とアンネローゼは勝ち目のなくなった攻撃を止め、なんとか息を整えながら思う。
「お探しの者を見つけました。しかし、申し訳ございません。存外に激しく抵抗されまして」
「うん? 探し物はあちらから来たが」
ひゅ、と必死に整えていた息が詰まって喉が音を鳴らす。ほとんどぶれていた瞳の焦点が集まり、その、さして離れていない場所に立つ鎧の男が担いでいるなにかを視認した。
「ユズキ」
ここから奇跡が起きるのだろうか?
これも『ルナクエ』の中で起きる『イベント』なのか。ユズキはそんなことを言ってはいなかった。
セルゲイはいったいどうしたのか。
彼女を頼むと言ったのに。確かに彼らを救うはずのオイゲンはそこへ辿り着けなかっただろう、けれど。だって。アンネローゼの脳裏に忙しなく思考が回るのは、眼前の景色を認識することを心が拒んでいたからだ。
その痩せ我慢は、けれど長くは続かない。
「―――」
黒い鎧、『負けイベント』の本来の主がその肩に無造作に担いで持ってきたもの。
「ッユズ、キ……?」
べしゃりと重たい袋が叩きつけられる音がする。魔王とアンネローゼの間に投げ捨てられたそれ。白い何か。そのままごろりと炎を照り返す石畳のうえに転がって、はっきりとその姿が目に入った。
お揃いで買った部屋着が血に染まっている。
肩から胸にかけて斬り下ろしを受けたのだろう、真っ赤に染まったその胸が上下していないことが一目でわかる。うつろに開いた瞳と目が合った。光のない黒の瞳の下には涙の跡があり、その白いほおについた血を滲ませていた。
嗚呼。
「―――ああぁ」
視界が霞んでブレた。ついに足に力が入らなくなり、アンネローゼはその場に崩れ落ちる。最後に聞いた彼女の名を呼ぶ声が、涙に滲んだそれが耳にこびりついている。
「あ、嫌、嫌よ。だめ、そんなのは。それだけは」
その娘は、この世界を救うのだ。
この世界を救って、そうして、彼女の愛したこの世界で讃えられ、誰よりも幸福になるべきなのに。
だから。なのに。どうして。
どうしてそこで死んでいる。
***
「―――遊びは終わりか。ほら、立てアンネローゼ。帰還するぞ」
魔王は何事もなかったかのようにアンネローゼに声をかける。火で照らされた石畳に崩れ落ちたアンネローゼは、ほとんど這うようにして投げ捨てられた聖女の亡骸に縋ろうとしていた。譫言のように何かを呟いているようだが、聞き取れはしなかった。
先ほどまで毅然と立ち塞がり、王都を守った他の誰よりも手応えのある魔法を延々とぶつけてきたその姿はもう影も形もない。風が吹けば飛んでいってしまいそうな、儚げで薄幸そうな貴族の娘に戻った。
抜け殻のようだ。
魔王は思う。そうだ。これでいい。
彼女はこういうもののはずだった。清らかだった心は人並みの嫉妬に歪み、憎悪によって蝕まれてゆく。聖なる器に闇を抱えた美しく虚ろな人形。魔王にとって二つとない、かわいい愛玩人形だ。
「―――アンネローゼ!」
やっと壊れた人形を抱え上げようと手を伸ばすその寸前。
悲鳴や怒号すら遠くなった王都に彼女の名を呼ぶ声が響くまではそうだった。
はた、とアンネローゼが動きを止める。涙とそれから彼女のものではない血に塗れた顔を上げる。鮮血の色をした瞳が見開かれた。まだそこには熾火がある。
―――まだ壊れていない。
それを見た魔王の顔が、凄絶なまでに美しい笑みに彩られる。
「すまない、遅くなった!」
魔王が剣を抜きかけた傍の黒騎士を手で制したのは、アンネローゼを完膚なきまでに叩きのめす最後の一手を余すことなく使うためだった。
「どうして」
目の前に躍り出たのは忌まわしい剣を手にした男の姿だ。見目までもかつて魔王を追い詰めた男に似ている。アンネローゼを庇うように立つその男が肩越しに、聖女の亡骸に縋る少女に声をかけた。
「言っただろう。きみがそんなに頑張ってるのに―――外から応援するだけなんて出来ないって」
「もうおしまいなのに。だってユズキが、みなさんが」
「でもきみが居る!」
何故聖剣の使い手が二人もいるのか。魔王はそれを不思議に思った。そんなことがあるわけがない。
そうだった。アンネローゼは魔王の愛玩人形だ。『真なる聖女』が異世界から渡ったせいで不要になって捨てられた哀れな人形。
だから拾った。聖魔法よりよほど闇魔法の適性があったのが皮肉だった。
「きみだけなら逃げられる。……きみも聖女だ、きみさえいれば。アンネローゼ!」
―――パチパチと魔王の思考にスパークが弾ける。深刻なエラーが発生している。
―――そうだった。五つの武具を集め終えた聖女たちの実力を測るためにと、アンネローゼが黒騎士を伴に討って出たのだ。そして驚くべきことにかれらが敗れて、それで。
ならば何故隣に黒騎士が立っている。
―――それでこの場所に来た。すべてを終わらせる決着の時が来たからだ。
そうであるはずがない。
何かがおかしい。何もかもがおかしい。
『魔王』のなかで、深刻なエラーが発生している。
「やめて、無茶よ、レオンハルトさま……!」
アンネローゼを守って剣の勇者が立つ。守られる聖女が悲鳴を上げる。魔王の剣は聖剣を軽く弾く。内なる力が解放されていない以上、少しよく斬れる剣にすぎない。
頭痛をこらえ二撃目を噛み合わせたと同時に大きく隙ができた。容易くその胸深くに切先を突き刺して、魔王はバチバチと頭の中で弾ける痛みに顔をしかめる。
そうだ。簡単なことだ。力の解放もしていない聖剣の使い手に、遅れを取るわけもない。
―――それならばなぜ王座を離れた。決着の時などと誤認したのか。
「ああ、あああ」
少女の慟哭が闇を裂く。からんと音を立てて聖剣が血の海に落ちる。もはやそれすら目に入らない。力不足に目を細め、口から血を迫り上げながらも魔王の剣の先で王太子は少女の名を呼んだようだった。
何かがおかしい、と魔王は思う。
一体どこで間違えたのか。
一体だれが間違えたのか。分からないけれど魔王の中で、深刻なエラーが発生している。
「あああーーーーーッッッッ!!!」
果敢な少女はあろうことか、目の前で屍になりかけている男が落とした剣を握って立ち上がった。切先を魔王へ向ける。聖女などとは思えない、憎しみと怒りに染まった瞳がこちらを射抜く。
あってはならないことだ。あるはずのないことだ。
けれど魔王はそれを認めてしまっている。彼女はその剣を振るう権利を持っていると、そう認識したのは他ならぬ魔王なのだから。
―――致命的なエラーが発生した。
―――全てを無に帰すことで、世界の理を守るほかなくなった。
聖女あるいは勇者と魔王の間で爆裂的に噴き上がった魔力の奔流が刹那世界のすべてを白に染める。
あらゆるバグが秩序を破壊する。
そうして世界は沈黙をした。




