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第92話 呪い

朝の王都はまだ眠りの名残を留めていた。

空気は冷たく澄み、石畳には朝露が光を宿している。


いつも通りの日課――学術院の寮を出て、城下を一周するランニング。

通りを抜け、橋を渡り、もう少しで折り返しに差しかかる頃だった。


建物の陰に、何かが寄りかかっているのが見えた。

最初は酔っ払いかと思った。

だが、近づいた瞬間、血の匂いが鼻を刺した。


「……嘘だろ」


壁にもたれ、ぐったりと座り込んでいたのはルシルゼーレだった。

顔色は紙のように白く、息は浅い。

腹部を押さえた手の隙間から、赤黒い血が滲み出している。


俺はすぐに膝をつき、傷口を確かめた。

どうやら一度は治療を受けている。

だが動き続けたせいか、縫い目のように閉じていた皮膚が再び裂け、血があふれ出していた。


「おい、ルシル! 聞こえるか!」


返事はない。

意識は深い闇の底に沈んでいた。


焦りを押し殺し、水の魔術で傷口を洗い流す。

乾いた血と汚れが薄れていくと、改めて両手をかざして上級の治癒魔術を詠唱した。


青白い光が掌から零れ、腹部を包み込む。

肉が再生し、裂けた皮膚が静かに閉じていく。

光が消えたあと、傷は薄い跡を残すだけになっていた。


それでも、彼は目を開けなかった。

呼吸こそ安定したが、意識の戻る気配はない。

出血が多すぎたのだろう。


「……仕方ないな」


俺はルシルゼーレの体を背負い、王都の居住区へ向かって走り出した。


アメルノアの家は小さいが、手入れの行き届いた邸宅だった。

ランカスター子爵家の本邸は隣街にあると聞いたことがある。

だが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。


扉を乱暴に叩きながら名を名乗る。


「俺だ、ラインハルトだ!」


何度目かのノックのあと、軋む音とともに扉が開いた。


「……ラインハルト? こんな朝早くに――」


気だるげに髪を整えながら顔を出したアメルノアは、

俺の背にぐったりとしたルシルゼーレを見た瞬間、息を呑んだ。


「ル、ルシル!? ちょっと中へ!」


慌てて通されたリビングは、朝の光が差し込む静かな部屋だった。

俺はそのままルシルゼーレを寝室へ運び、血のついた上着を脱がせ、シーツの上に寝かせる。

アメルノアは手際よく濡れタオルを用意し、額の汗を拭った。


一息ついた俺は、リビングの椅子に腰を下ろす。

正面にはアメルノア。

机を挟んで、互いに無言のまま数秒が過ぎた。


「……朝の通りで倒れていた。血がかなり出てたけど、治癒魔術で止血した。

 たぶん命の危険はもうない」


「……そう。ありがとう、ラインハルト」


彼女はそう言って小さく息を吐いた。

だがその声には安堵よりも、不安の色が濃く滲んでいた。


アメルノアは沈黙したまま、膝の上で指を強く握りしめている。

視線は机の上をさまよい、何かを言い出すか迷っているようだった。


「……アメルノア」


静かに名前を呼ぶと、彼女の肩がびくりと揺れた。


「……心当たりが、あるな?」


しばらくの沈黙。

だが、その沈黙が何よりも雄弁だった。


噂が広がり始めたあの日――

食堂での光景が脳裏をよぎる。


皆が騒いでいた中、ルシルゼーレは心ここに在らず、

その横でアメルノアもまた、ルシルゼーレを心配そうに見つめていた。


まるで、何かを知っていたかのように。


「……なぁ、あのときから……ルシルの様子、おかしかったよな」


そう言うと、アメルノアはゆっくりと顔を上げた。

黒紫の瞳が揺れている。

否定の言葉は出てこなかった。


彼女はしばらく言葉を探していた。

そして、震える声で口を開く。


「……あの子はね、ルシルゼーレは――魄霊剣と、切っても切れない縁があるの。

 いいえ、縁なんて言葉じゃ足りないわ。

 あれは……あの子の傷そのものよ」


彼女は両手を膝の上で強く握りしめた。

爪が白くなるほどに。


「昔、聖王国の研究施設で“特別な剣士を生み出す計画”があった。

 三百年間現れなかった魄霊剣の適合者を探すために……

 伝承では“純真無垢で強い魂”を持つ者が魄霊剣を扱えるとされていた。

 だから、純粋な魂を持つ子供たちが集められた。

 ……その中に、ルシルもいたの」


アメルノアは、わずかに視線を泳がせながら続ける。


「最初は、魄霊剣を扱える人間を探していただけだった。

 でも、成果は得られなかった。

 それで実験は、“探す”ことから“創り出す”方向に変わったの。

 被験者の子供達は泣いて、叫んで……それでも実験は止まらなかった。

 たぶん、何かしらの“成果”を見出したから」


彼女の声が震える。

それが怒りか、悲しみか、ラインハルトにはもう分からなかった。


「でもある日――その実験の正体を知った子がいたの。

 その子が、泣きながらルシルに言ったそうよ。

 “お前たちだけでも逃げろ”って」


アメルノアはゆっくりと息を吐いた。

目元を指で拭いながらも、必死に涙をこらえていた。


「それで、数少ない子供たちは逃げた。

 けど、彼以外は逃げきれなかった。

 その後、実験は凍結され、主導していたアインザッツは追放されたらしいわ」


沈黙が落ちた。

窓の外では、朝日がゆっくりと街を照らし始めている。


「……魄霊剣。きっとその言葉を聞いて、あの頃のことを思い出したのね」


アメルノアは顔を上げ、真っ直ぐにラインハルトを見た。


「もしルシルがアインザッツを追っているなら、止められない。

 あの子の中では、それが生き残った理由……

 そして、その身に刻まれた呪いなのだから」


アメルノアの言葉を聞き終えた瞬間、胸の奥が熱くなった。

何も言えなかった。

ただ、拳を強く握りしめる。


――そんなものが、あっていいはずがない。


静寂の中、二人の間に淡い光が差し込んだとき、

階段の方から、かすかな足音が聞こえた。


振り返ると、寝室の扉がゆっくりと開き、

そこにルシルゼーレが立っていた。


顔色はまだ悪い。

だが、その瞳だけは濁りひとつなく、鋭い光を宿していた。


「……アメルノアから、聞いたみたいだね」


弱々しい声だったが、その奥に確かな意志があった。


「僕は――赦さない。

 あいつらは、この手で……必ず、終わらせる」


そう言って、ルシルゼーレは視線をこちらに向けた。

そして、ほんの少しだけ、表情を緩める。


「……治療してくれたのは、君だろ? ありがとう」


短く、けれど確かな言葉。

それだけを残して、ルシルゼーレは再び扉の外へと歩き出した。


止めようと一歩踏み出しかけたが――

その背中を見た瞬間、言葉が喉で止まった。

あの瞳を見て、止めることなど誰にもできなかった。


扉が閉まる音が静かに響く。


残されたアメルノアは、しばらく黙っていた。

やがて、震える声で口を開く。


「……ラインハルト。お願いがあるの」


その瞳には、強さと恐れが入り混じっていた。


「ルシルを――助けてほしい。

 あんな傷を負ったのに、まだ諦めていない。

 次に会うとき、あの子はきっと……」


言葉の続きを飲み込む。

けれど、それが何を意味しているのかは、十分に分かった。


「私ひとりが追っても勝てるかはわからない。

 でも……あなたを入れて三人なら、なんとかなると思うの」


アメルノアの瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。


──勝てるのか?

俺たちは敵のことを何も知らない。

敵の強さも、数さえも。

それに俺はまだ“龍気”をまともに操れない。

今のままじゃ、足手まといにしかならないかもしれない。


けれど、そんな迷いを抱いたままでも――


(勝てるかどうかじゃない)


守りたいものがあるなら、

立つしかない。


確かな決心を胸に、俺は息を吸い込み、静かに答えた。


「行こう。

 力になれるかは……わからないけど。」


アメルノアの瞳に、一瞬だけ光が宿る。

それは、祈りにも似た希望の色だった。


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