第91話 新たな敵
―三日後・学術院 食堂
昼下がりの食堂は、いつになく賑やかだった。
木製の長机に学生たちが並び、湯気の立つスープの向こうで、ひとつの噂が飛び交っている。
「なあ聞いたか? 聖王国の“魄霊剣”が盗まれたんだってよ」
「しかも犯人、ハインツ領内に逃げ込んでるらしいぜ」
声が行き交うたびに、食堂の空気がざらついていく。
(……俺、ちゃんと誰にも喋ってないんだけどな)
スプーンを回しながら、内心でため息をつく。
三日前、城の前で偶然聞いたあの話――
なぜだかこんなに広まっていた。
そんな中、向かいに座るルシルゼーレが、
妙に静かだった。
周囲の喧騒がまるで耳に届いていないように、
じっとスープを見つめている。
その横顔は、普段の穏やかさとはどこか違って見えた。
「……ルシル、大丈夫か?」
呼びかけると、彼は一瞬だけこちらを見た。
その瞳の奥に、何か――形にならない影が揺れる。
けれど、次の瞬間には、
いつものように微笑を作っていた。
「うん……ちょっと体調が良くなくて。
今日は、少し早めに戻るよ。」
そう言って席を立つ。
椅子が静かに床を引きずる音がやけに耳に残った。
ルシルゼーレの背中が食堂の出口に消えていく。
その様子を、斜め向かいの席からひとりの少女が見つめていた。
黒紫の髪をまとめ、
整った仕草でスプーンを置く――アメルノア。
彼女の表情も固く、笑顔はない。
そしてその瞳はどこか遠くを見ていた。
風が開いた窓から差し込み、
揺れるカーテンの影が彼女の頬をかすめる。
言葉はなかった。
けれど、その沈黙が――
何より雄弁に思えた。
俺はただ、胸の奥に小さな違和感を残したまま、
冷めたスープを口に運んだ。
そしてその翌日、翌々日とルシルゼーレは学術院に顔を見せることは無かった。
───翌々日
(二日も休むなんて珍しいこともあるな。そんなに体調が良くないのか?)
ぼんやりそんなことを考えながら、買い物をしに都内を歩く。
春の陽はやわらかく、王都の通りには商人たちの声が響いている。
ふと、石畳の先で紅い髪が揺れた。
見慣れた後ろ姿。
振り返ったその瞳と目が合う。
「……イーディス?」
「ラインハルト!」
彼女は軽く手を振って近づいてきた。
どうやら王都の見回りの最中らしく、白銀と赤を基調とした軽装の鎧姿。
天翼騎士団の徽章が肩口で陽を反射している。
「王都で見回りなんて、珍しいな。」
「最近はね、いろいろ騒がしいから。ほらあの件。」
「……やっぱり、噂になってるか。」
俺が答えると、イーディスは唇の端を上げた。
「まさかとは思うけど……広めたの、ハルトじゃないよね?」
「おい、そんなわけあるか!」
「ふふ、冗談だってば。」
軽く笑うその顔には、ほんの少しだけ疲労の影があった。
「それで……あの件、どうなったんだ?」
尋ねると、彼女は小さく息をついて周囲を見回したあと、声を落とす。
「ハインツ王国としては基本的に“不干渉”の立場みたい。
聖王国が領内を調べるのは黙認してるけど、
事件が片付いたら王国側にも正式に報告をするってことで合意した」
「なるほど……」
「ただし、王都内だけは例外。
王国側が警備を強化してるから、聖王国の調査隊が勝手に動くのは禁止。
もし王都で“その犯人”を見つけたら、拘束して身柄を引き渡すこと。
魄霊剣も同じく返還するからってね。」
イーディスの口調は穏やかだったが、その目の奥はどこか鋭い。
王国の“看板”を背負う者として、彼女なりに緊張しているのが分かる。
「……大変だな。」
「まぁね。」
彼女は少し笑って肩をすくめた。
そして、ふっと柔らかい声で続ける。
「でも、この厄介事を解決したら……陛下から褒賞が出るかもって噂もあるんだよ。
ねぇ、ハルト。気が向いたら一緒に探してみない?」
「いや、俺まだ学生だぞ……」
「知ってる。だから“気が向いたら”でいいの。
じゃ、私そろそろ見回りに戻るね。」
そう言って、イーディスは軽く笑った。
春の陽光の中で、その笑みはまるで風のように軽やかだった。
――けれど、その背中が遠ざかっていくのを見つめながら、
胸の奥でふと、ざらつくような予感がした。
まるで、この平穏の下に何かが静かに蠢いているような――そんな感覚だった。
その日の夜。
王都近郊の廃教会。
屋根の抜けた天井から、月明かりが斜めに射し込み、埃が光を散らしていた。
崩れた祭壇、朽ちたベンチ、壁を這う蔦。
そこに、かつて祈りがあったとは思えないほど静かだ。
ルシルゼーレは、錆びた門を押し開けてそんな教会へと足を踏み入れた。
ギィ……と金属の軋む音が、やけに遠く響く。
(……ここも、違うか)
今日でいくつ目になるだろう。
王都の外れから廃村を抜け、古い礼拝堂や屋敷を探ってきた。
誰もいないはずの場所に、何かの気配を探して。
それでも成果は一つもなかった。
小さく息を吐き、背を向けようとしたそのときだった。
――ザッ、ザッ。
足音。
教会の奥、闇に沈む入口から、誰かが歩いてくる。
月明かりの筋を割って現れたのは、
襤褸をまとった男だった。
土埃まみれの外套に、くたびれた靴。
一見すればただの流れ者――
だが、その背中に光るものがあった。
……細かい意匠の鞘。
どこか、見覚えがある。
「……おい、誰だ?」
男の声は掠れていた。
ただ、敵意は感じない。
眠そうな、諦めの混じった声だった。
ルシルゼーレは言葉を選ぶ。
この時間に、こんな場所を訪れる理由を――
けれど、次の瞬間、その思考は霧散した。
目が、それを見てしまったからだ。
月光に反射した剣の鍔。
そこに刻まれた紋章。
見間違えるはずがない。
「……魄霊剣……?」
低く漏らしたその言葉に、男の眉がわずかに動いた。
だが、問い返すことはしなかった。
ただ、ゆっくりと背中の剣を少しだけ傾け、
冷たい光が床に流れた。
「……探してたのか?」
問いというより独り言のような声。
その顔は薄暗くてよく見えない。
けれど、笑ったようにも見えた。
(なぜ……お前が、それを……)
疑問が言葉になる前に、ルシルゼーレの身体が動いていた。
考えるより先に、胸の奥が反応した。
あの剣を見た瞬間に蘇った記憶。
叫び、子供たちの泣き声。
「……っ!」
地を蹴る。
男が何者かも、なぜ魄霊剣を持っているのかも分からない。
けれど――その剣だけは、絶対に赦せなかった。
夜風が吹き抜ける。
廃教会の中で、ひとつの光が閃いた。
金属の衝突音が廃教会に響く。
鋭い剣閃が空気を裂き、火花が散った。
襤褸の男は重心を低く構えるが、ルシルゼーレの速さは異常だった。
踏み込み、斬り返し、転がるように軌道を変える。
変則的な剣筋が、男の視界を攪乱する。
「チッ……!」
受け止めきれず、男が後退した。
ルシルゼーレの剣が風を裂き、衣の端を掠める。
(いける……このまま押し切る!)
その瞬間――
男の眼光が鋭くなった。
次の一撃は重く、鋭かった。
火花が散り、二人の剣が鍔迫り合う。
ギリ……ギリ……
互いの息が交じる距離。
ルシルゼーレの額に汗が滲む。
押し合う力は、次第に拮抗していった。
金属の悲鳴とともに二人の剣が弾かれ、距離を取る。
荒い息の間に、夜の空気が冷たく流れ込んだ。
「……ただの盗人じゃないな……」
「言ってる場合か?」
再び踏み込もうとしたその時だった。
コツ、コツ……と。
奥の闇から、ゆっくりと足音が響く。
古びた杖が床を叩く音。
そこに現れたのは、小太りの老人だった。
白髪交じりの髪を撫でつけ、皺だらけの口元に薄い笑みを浮かべている。
襤褸の男が、ちらりとそちらを見やり、口を開いた。
「爺さん! アインザッツの爺さんよ~。
なかなか手強いんだ。骨が折れるぜ、こりゃぁよ」
その名を聞いた瞬間、
ルシルゼーレの呼吸が止まった。
(……アインザッツ……だと……?)
視界の端が赤く染まる。
怒りが、頭の中を焼き尽くす。
「お前が……お前がアインザッツかァァ!!?」
叫びが、廃教会の天井に反響する。
だが、老人は涼しい顔で肩をすくめた。
「おやおや、若者というのはどうしてこう短気なんだろうね。
もう少し落ち着いた方がいいと思うが」
嘲るような声音。
その口調が、ルシルゼーレの怒りにさらに油を注ぐ。
アインザッツはゆるやかに襤褸の男へと顔を向けた。
「……ゼインよ。
魂を服従させ、押し込めろ。
さすれば、魄霊剣は真の力を見せるだろう」
初めて、男の名が呼ばれる。
「……ゼイン……?」
「服従させ……押し込めろ、ねぇ」
ゼインが復唱した瞬間、
魄霊剣の刃が震え、白光が溢れ出す。
それはすぐに色を変えた。
白から、赤。
赤から、黒へ。
ねじれ、混ざり、渦を巻く光。
「なっ……!」
地面が鳴動する。
廃教会の柱が軋み、天井の破片が落ちた。
ゼインの周囲に黒い風が巻き上がる。
魄霊剣が悲鳴を上げるように鳴り、
その瞳が、血のような光を放った。
「どうだ、これが魄霊剣の力ってやつよォッ!!」
瞬間、剣閃。
凄まじい圧が襲いかかる。
「ぐっ……!」
ルシルゼーレの剣が押し返され、腕に痺れが走る。
速さも、重さも、すべてが段違いだった。
彼の怒りが集中を奪い、
ゼインの魄霊剣がその隙を喰らう。
「うおおおおおおッ!!」
一撃。
風圧が爆ぜ、ルシルゼーレの体が後方に弾き飛ばされた。
瓦礫の上を転がる。
喉の奥が焼けつくように痛い。
視界が揺れて、血の味が口の中に広がった。
立ち上がろうとした瞬間――
冷たい閃光が腹部を掠めた。
「――ッ!」
灼けるような痛み。
刃が肉を裂く音がはっきり聞こえた。
膝が勝手に折れ、体が崩れ落ちる。
ゼインが一歩、また一歩と近づく。
魄霊剣の赤黒い光が、地面を血の色に染めていく。
「……惜しいな。相手が大天才の俺様じゃなけりゃ勝てたかもしれないのにな。」
「クッ……」
剣を杖にして立とうとするが、力が入らない。
血が止まらず、息も荒い。
それでも、目だけは逸らさなかった。
ゼインがゆっくりと剣を構える。
その動作に、迷いはない。
まるで虫を潰すかのように。
「終わりだな」
魄霊剣が再び唸りを上げた――その瞬間だった。
――ガシャガシャッ!
金属音。
廃教会の外から、甲冑の音がいくつも近づいてくる。
「この光は……こっちです!」
「急げ!!」
扉が破られ、月光が差し込む。
そこに立っていたのは、五人の聖騎士たち。
その先頭にいたのは、金髪を束ねた女性だった。
白銀の甲冑に、背には聖紋の刻まれた盾。
彼女の姿を見た瞬間、ゼインの眉が僅かに歪む。
「聖王国の……チッ、面倒な奴らが来やがったな」
背後に立つアインザッツが、静かに笑う。
「ゼイン、引け。
地下に転移術式がある。
魄霊剣の力があれば、問題なく転移できるだろう」
「へいへい、わかったよ爺さん」
ゼインは肩をすくめると、ルシルゼーレに一瞥をくれた。
「面白かったぜ、またやろうな」
そしてアインザッツとともに、崩れた祭壇の奥へと消えていった。
直後、床下から眩い光が溢れ、轟音と共に彼らの気配が消える。
ルシルゼーレの視界が霞む。
血の匂いと、術式が消えた後の焦げた匂いだけが残っていた。
「あなた……大丈夫ですか!?」
女の聖騎士が駆け寄り、すぐに治癒魔法の詠唱を始める。
淡い光が傷口を覆い、痛みがわずかに和らいだ。
けれど、彼の口はなかなか開かなかった。
追うべき敵の名が、喉元で引っかかっていた。
アインザッツ。あの名を、聖王国の者に告げたくなかった。
復讐をこの手で、自分一人だけで決着をつけたかった。
「……逃げた。地下に、転移術式とか言ってたから、たぶん……もう遠くへ」
「転移……!? 行き先は分かりますか!?」
「ごめん、分からない。」
言葉を絞り出すたびに、血が滲む。
「……悪いけど、あとは任せるよ」
そう言い残し、ルシルゼーレはその場で横になった。
聖騎士たちの光に囲まれ、簡単な手当を受ける。
痛みと疲労で体は動きにくいが、意識はもうはっきりしていた。
言葉少なに、状況を淡々と伝えるルシルゼーレに、聖騎士はただ頷き、必要最低限の手当を施す。
治療を終え、傷の痛みを抱えながらも、
ルシルゼーレは聖騎士たちの制止を振り切り、
一人、王都へと歩を進めた。
夜の闇はまだ深く、冷たい風が頬を刺す。
それでも、彼の足取りは止まらなかった。
――やっとの思いで王都に辿り着いたのは、
空が白み始める頃だった。




