第五十四話「王弟殿下のご懸念」
―― 王宮 アウグスト ――
王宮からの呼び出しというものは、受け取った人間の身分によって意味が変わる。
商人であれば名誉なことであり、役人であれば出世の機会かもしれない。罪人ならば、まず間違いなくろくな話ではない。
そして、フィロパトール公爵家の嫡男アウグストにとっては、どうやら最後のものに近いらしかった。
もっとも、本人に罪を犯した覚えはない。
――少なくとも、今のところは。
王宮の西翼、王族や高位貴族の執務室が並ぶ一角で、アウグストは案内の侍従に続いて静かに廊下を歩いていた。
呼び出し状が届いたのは昨日の午後。差出人は王国宰相カラドス・オッター・グランドラム大公。現国王の弟であり、王国の政務を実質的に取り仕切る実力者である。
用件は記されていなかった。
ただ、先日の魔獣騒ぎについて報告を求められることは容易に想像がついた。
五日前、フィロパトール領を通る街道に魔獣が相次いで出没した。普段は森の奥に生息しているはずの魔獣まで現れ、通行する商人や旅人を脅かしたため、公爵家は騎士団を迅速に動員して街道の警備に当たらせた。
調査の結果、原因は森の奥に突如現れた超大型の魔獣にあると考えられた。
いや、正確には「考えられているということになっていた」。
「こちらでございます」
侍従が足を止め、重厚な扉を叩くと、中から低い声で入室の許可が下りる。
扉が開くと、広い執務室の奥、書類の積まれた机に向かっていた男が顔を上げた。
王国宰相カラドス・オッター・グランドラム大公。
五十代半ばの、恰幅のよい男だった。頭髪には白いものが混じり、口元には一見して人当たりのよさそうな笑みが浮かんでいる。もっとも、その笑顔を額面通りに受け取る貴族は、王都にはそう多くない。
「おお、アウグスト殿。よく来てくれた。忙しいところをすまんな」
「お呼びとあれば、いつでも参上いたします。大公殿下」
アウグストは過不足のない礼を取った。
「堅苦しい挨拶はよい。座りたまえ」
勧められた椅子に腰を下ろすと、カラドスは机上の書類を一枚取り上げた。
「さて、早速で悪いが、少々気になる報告が届いておってな」
「はい」
「フィロパトール領の街道を、魔獣が荒らしていると聞いたが」
「五日前まで、街道周辺で魔獣の出没が相次いでおりました。現在は平穏を取り戻しております」
「ほう。すでに収まったのか。それは結構」
カラドスは満足そうに頷いた。
「原因は判明したのかね」
「森の奥に、極めて大型の魔獣が侵入していたことが原因と考えております」
「大型魔獣?」
「はい。その存在によって周辺の魔獣が縄張りを追われ、連鎖的に街道方面へ押し出されたものと思われます」
「なるほど、縄張り争いか。獣というものは厄介だな。で、その大型魔獣は討伐したのかね」
「いいえ。討伐には至っておりません」
カラドスの眉が、わずかに動いた。
「……取り逃がしたのかね?」
「騎士団が現場を確認した時点で、すでに姿を消しておりました」
「ふむ。では、そもそも大型魔獣がいたという確証はあるのかね」
「現場には、巨大な生物が通過した痕跡と、何者かと凄まじい戦闘を行った形跡が残されておりました」
「争った?」
「はい」
「では、もう一方は何だ?」
「現時点では不明です」
「不明?」
「確認できた痕跡からは、もう一方の種別を特定できませんでした」
「……それはまた、ずいぶんと曖昧な話だな」
カラドスは椅子の背にもたれ、指先でコツコツと机を軽く叩いた。
「大型魔獣がいて、別の何かと争い、双方ともに姿を消した。そういうことかね」
「その通りでございます」
「では、二頭目の魔獣はどこへ行った」
「不明です」
「最初の一頭を追って、どこかへ消えた可能性は?」
「否定できません」
「つまり、危険な大型魔獣が二頭、今も王国のどこかに潜んでいるかもしれんということか」
「その可能性はございます」
「戻ってくることは?」
「絶対にないとは申し上げられません」
カラドスは、しばらく無言のままアウグストを観察するように眺めた。
アウグストもまた、直立不動のまま黙っていた。
問われたことには正確に答えた。余計な推測や弁明は口にせず、嘘もついていない。こうした一筋縄ではいかない相手には、余計な隙を作らないことこそが最善の防御だった。
「……ふむ」
カラドスは小さく鼻を鳴らした。
「それで、捜索はどうなっておる」
「騎士団が痕跡を追跡いたしました。森を抜けるところまでは確認できましたが、その先は岩場となっており、追跡が困難になりました」
「場所は?」
「パルナソ山の山麓方面です」
「パルナソ山?」
カラドスは壁に掛けられた王国領地図へ視線を向けた。
「オルコット領との境界ではないか」
「はい」
「オルコット伯には知らせたのかね」
「すでに速報を伝えております。必要に応じて情報を共有できるよう、連絡体制も整えております」
「手回しがよいな。さすがはフィロパトール公爵家だ」
「恐れ入ります」
褒められたようには聞こえなかったが、アウグストは表情一つ変えなかった。
カラドスは書類を机に戻し、今度は少し困ったような笑みを浮かべてみせた。
「ところで、アウグスト殿。これはあくまで、よからぬ噂なのだがね」
「はい」
「今回の魔獣騒ぎそのものが、フィロパトール公爵家による自作自演ではないかという話がある」
室内の空気が、急激に冷え込んだ。
「……自作自演、でございますか」
「うむ。魔獣の出没を都合のよい口実にして騎士団を動かし、街道を軍事占有して常駐させるための方便ではないか、とな」
「その噂は、どちらから?」
「それがな、出どころが掴めんのだ。いつの間にか、あちこちで囁かれておる」
カラドスはひらひらと片手を振った。
「いやいや、もちろん、わしはそんな噂を信じておらんよ。フィロパトール公爵家がそのような姑息な真似をするとは思っておらん。陛下も同じお考えだろう」
「誓って、そのような事実はございません」
「うむ。わかっておる。わかっておるのだが……」
カラドスは、いかにも残念そうに深々と溜息をついてみせた。
「噂というものは厄介でな。放置しておけば、いつの間にか『事実』として一人歩きする。ましてや、王国有数の圧倒的な軍事力を有するフィロパトール家のことだ。根も葉もない噂であっても、王宮としては無視するわけにはいかんのだよ」
「ご懸念の趣旨は、理解いたしました」
「そこでだ。一両日中に、王宮から『正式な調査団』を派遣することにした」
アウグストは微動だにせず、静かに頷いた。
「承知いたしました。受け入れの準備を整えます」
「うむ。調査団長にはクレオス・クープラン宮中伯を任じる予定だ。護衛には第三騎士団を付ける」
「承知いたしました」
「それから……言うまでもないことだが」
カラドスは笑みを貼り付けたまま、トーンを一段低くした。
「現場の痕跡は、すべてそのままにしておいてもらいたい。倒れた木も、地面の傷も、魔獣の残したものも……何一つ動かさずにな」
「調査隊の帰還以降、誰も現場に踏み入っておりません」
「結構。実に結構だ」
カラドスは満足そうに頷いた。
「疑いを晴らすには、第三者の目で確かめるのが一番だからな。フィロパトール公爵家の潔白が証明されれば、わしも安心できるというものだ」
「ご配慮、深く感謝いたします」
アウグストは立ち上がり、完璧な所作で一礼した。
退室を許され、重々しい扉が閉まる。
廊下へ出てからも、アウグストの表情には一切の動揺がなかった。
だが、その脳裏では冷静な計算が始まっていた。
調査団の派遣は最初から決定事項だったのだろう。今日の会談は単なる事前通告に過ぎない。
問題は、調査団が「何を調べに来るのか」ではない。
――彼らが「何を見つけたことにしたいのか」なのだ。
***
―― 王宮 カラドス ――
アウグストが退室してしばらくすると、執務室の奥にある、続き部屋の扉が静かに開いた。
「いかがでしたかな、殿下」
姿を現したのは、痩せぎすの中年貴族だった。
クレオス・クープラン宮中伯。
細い口髭を丁寧に整え、上等な法服を身につけている。宮廷儀礼には誰よりも詳しく、相手の爵位によってお辞儀の角度を変えることに長けた男だった。もっとも、自分より下位の者に対してはその角度はほぼゼロになる。
「聞いておったか」
「はい。実に見事なお運びでございました」
「世辞はよい」
カラドスは深く椅子に腰を沈めた。
「どう思う」
「何かを隠しておりますな」
「ほう。なぜそう思う」
「超大型魔獣が二頭も現れ、双方とも行方不明。そんな都合のよい話がありましょうか。しかも、唯一の証拠は『現場の争った痕跡』のみ。いかにも作り話めいております」
「ふむ」
「おそらく騎士団を正規に動かすための口実でしょう。街道を押さえれば人と物の流れを完璧に掌握できます。フィロパトール家ほどの勢力であれば、その政治的・経済的利益は計り知れません」
カラドスは即答しなかった。
クレオスは、その沈黙を肯定と受け取ったらしい。
「ご安心ください。私が直接現地へ赴き、公爵家の化けの皮を剥がしてご覧に入れます」
「……クレオス」
「はっ」
「調査を命じたのであって、断罪を命じたわけではないぞ」
「……もちろんでございます」
「証拠がなければ『証拠がない』と報告すればよい。無理に焦って結論を捏造する必要はない」
「ははっ、心得ております」
クレオスは深々と頭を下げた。その顔には、すでにフィロパトール家の弱みを握った気でいる勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
カラドスは、それを見ても何も言わず、ただ窓の外の王都の空を見つめていた。




