第五十一話「単独極秘調査」
朝食後すぐ、アウグストは数名の護衛を伴って、領都へ向けて出発して行った。
領都には、準備を整えたケンド副団長が率いる騎士団本隊がいる。
アウグストが到着すれば、すぐに調査隊を編成できるだろう。
俺は、公爵邸の庭で日向ぼっこをしながら、そのことを考えていた。
……まあ、騎士団が動くなら問題ないか。フィロパトール騎士団は、なかなか優秀である。
俺がわざわざ出張る必要もあるまい。
そう思っていたのだが。
『猫さん!』
頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。
見上げると、ルルが庭木の枝に止まっていた。
伝令役の鳥である。
『ちょっと、変な話があるんだけど!』
『何だ?』
『北の森の鳥たちが、みんな逃げてきてるの!』
『逃げてきている?』
『そう! 森の奥から、でっかいのが来たって!』
『でっかいの?』
『ものすごくでっかいの! 黒くて、地面が揺れて、木が倒れて!』
それだけでは、さっぱり分からん。
『何かに追われているのか?』
『わかんない。でも、森の獣たちも、みんな南へ逃げてるみたいだって』
なるほど。
森の奥から何かが移動してきた。
そのせいで、ほかの魔獣が生息域を追われ街道へ出てきている。
そう考えれば魔獣の件も、辻褄は合うのか。
『ほかに何か分かったら、知らせてくれ』
『わかった!』
ルルは、元気よく羽ばたいていった。
俺は、再びクッションの上に寝転がった。
……さて。どうしたものか。
アウグストたちに任せておけば、そのうち原因は分かるだろう。
だが、もし森の奥に、騎士団でも手に負えないような魔獣がいるとしたら。
その場合、被害が出る可能性は高い。
街道を通る商人や旅人。領都の住民。――そして、フィロパトール家の騎士たち。
彼らが危険にさらされるのを、黙って見ているわけにもいかない。何よりパティが悲しむ。
前世では、仕事が増えるたびに上司を恨んでいた。
今世では、上司もいないのに仕事が増える。これは一体、どういうことなのだろう。
俺は、ゆっくりと起き上がった。
まあ、様子を見るだけなら、問題あるまい。
アウグストたちが領都で調査に乗り出すのは、早くても昼過ぎ。学院は半日授業なので、パティが戻って来るのは昼過ぎ。それまでに戻れば、誰にも気づかれまい。
何かあれば、すぐに戻ればいい。
そう考え、周囲に人がいないことを確認した。
そして、領都の公爵邸を思い浮かべる。
あそこなら、パティと一緒に何度も行ったことがある。
庭の石畳。噴水。建物の裏手にある、日当たりのよい小さな中庭。
場所も、景色も、はっきり覚えている。
俺は、足元の影へ身を沈めた。
次の瞬間。
王都の公爵邸の庭から、俺の姿は消えていた。
いつも静かな領都の公爵邸が、慌ただしい雰囲気を纏っていた。
使用人たちが行き来し、厩舎では馬の準備が進められている。
俺は、中庭の植え込みの陰から顔を出した。
転移は成功。
まあ、何度も来たことのある場所だから、当然といえば当然だ。
問題は、ここから先である。
魔獣の森には、まだ行ったことがない。位置も景色も知らない場所へは、飛べない。目で見える場所か、景色をはっきり覚えている場所だけだ。
……便利なようで、案外制約の多い能力である。
俺は、公爵邸の外へ出た。
領都の街並みは、王都ほど華やかではないが、活気がある。魔獣の噂も、まだそこまで深刻ではないのだろう。
商人たちの声。
荷馬車の車輪の音。
通りを駆け回る子供たち。
その中を、一匹の黒猫が歩いていく。パティとセットなら、それなりに目立つが、今日は一匹。特段、愛想を振りまく必要もない。
そのまま街の北東側へ向かい、外壁の近くまで来たところで、屋根の上へ跳び上がった。
高い場所から、森の方角を見渡す。
遠くに、濃い緑の塊が見えた。
(あれだな)
俺は、視界の先にある木立の外縁を確認。そして、転移。
次の瞬間、森の入口近くの岩の上に立っていた。
そこから先は、普通に森の中を進むしかない。
俺は、木々の間へ足を踏み入れた。
すると。
「……おい、猫がいるぞ」
人間の声がした。
振り返ると、革鎧を着た三人組の冒険者が立っていた。
剣士らしい男。
弓を背負った女。
そして、杖を持った若い男。
三人とも、俺を見て驚いている。
「こんなところに飼い猫か?」
「立派な首輪してるわよ」
「迷い込んだんじゃないか?」
失礼な。迷ってはいない。目的地へ向かっているだけだ。
ところが、剣士の男が近づいてきた。
「おいおい、危ないぞ。俺たちはギルドの緊急依頼で、街道沿いを調べてるんだ。奥は危なくて、これ以上は入れない」
そう言って、俺を抱き上げた。
ちょ! ちょっと待て。
「よし、街道まで戻してやるからな」
……いやいやいや。
親切はありがたい。実にありがたいのだが。できれば、その手を離していただけないだろうか。
俺は、これから魔獣の森へ行かなければならないのだ。
「にゃあ」
「おお、いい子だな」
違う。そういう意味ではない。
男は、俺の頭を撫でた。
……む。
そこは、なかなか気持ちがいい。
いや、違う。そうじゃない。
俺は、男の腕からするりと抜け出した。
「あっ!」
そのまま、木々の間へ走り込む。
「おい、待て!」
背後から声がしたが、構ってはいられない。
俺は、茂みの陰へ入り、姿が見えなくなったところで足を止めた。
……ふう。
危うく、善意によって任務を妨害されるところだった。
まったく。
人間というのは、親切なのか厄介なのか、よく分からない生き物である。
森の中は、思った以上に騒がしかった。
鳥たちが落ち着きなく飛び回り、茂みの奥からは、何かが走り抜ける音が聞こえる。
地面には、大小さまざまな足跡が残っていた。明らかに、通常より多くの魔獣が移動している。
ルルの話は、どうやら本当らしい。
俺は、鼻をひくつかせた。
湿った土の匂い。
苔の匂い。
獣の匂い。
そして、その奥に、少しばかり妙な気配が混じっている。
魔力だ。しかも、かなり濃い。
森の奥から、何かが周囲の魔力を引き寄せているような感覚がある。
(なるほど。こいつは、少々面倒かもしれない)
そう思ったとき。
茂みの向こうから、低い唸り声が聞こえた。三頭の魔狼が現れる。 毛が逆立ち、目が血走っている。獲物を狙う目というより、何かから逃げてきて、行き場を失った目だ。
そのまま、俺を睨んだ。
どうやら、俺を獲物だと思っているらしい。
猫一匹なら、簡単に食えると思ったか。
だが猫は小さくても侮れないファイターなんだぞ。
しかも俺は、普通の猫ではない。
魔狼たちは、じりじりと距離を詰めてきた。
一頭が正面。二頭が左右へ回り込む。
なかなか賢い。狩りの基本を理解しているらしい。
俺は、試しに声をかけてみた。
『おい。悪いことは言わん。ここは引き返せ』
……反応なし。
魔狼たちは、唸り声を上げるばかりだった。
通じないか。ネズミや鳥たちとは、普通に意思疎通ができが、魔獣相手では、どうも勝手が違う。
言葉としてのやり取りが成立しないのだ。
こちらの意思を理解していないのか、それとも理解する気がないのか。
まあ、どちらでもよい。
俺は、少しだけ気配を強めた。
神獣としての、ほんのわずかな威圧。
その瞬間。
三頭の魔狼が、ぴたりと動きを止めた。
耳が伏せられ、尻尾が下がる。
そして。
どさり。
三頭とも、腹を見せてひっくり返った。
おーい。さっきまでの威勢は、どうした。俺は、まだ何もしていないぞ。
魔狼たちは、情けない声を漏らしている。
どうやら、降参らしい。
まあ、よい。無駄な殺生をせずに済むなら、それに越したことはない。
俺は、威圧を解いた。
すると、魔狼たちは一斉に起き上がり、尻尾を巻いて逃げていった。
これで一件落着。と思ったのだが、今度は地面が揺れた。
どどどどどっ。
茂みを突き破って、巨大な猪が現れた。いや、猪というより毛の生えた岩石である。
肩までの高さが、人間の背丈ほどもある。
額から突き出した二本の牙は、下手な槍よりも太い。
おいおい。
今度は、ずいぶんと大きいな。
猪型魔獣は、俺を見つけると、迷うことなく突進してきた。
まさしく猪突猛進。
猫一匹に、そこまで全力を出す必要があるのか。
俺は、その場で軽く跳び上がり、岩猪――命名、俺――の背中に着地した。
なかなか安定した足場だ。と思った瞬間。
「ブゴォォォッ!」
猪が、猛烈に暴れ始めた。
背中に何かが乗ったことに驚いたらしい。
左右に跳ね、体を捻り、木々の間を走り回る。
(おい。落ち着け)
俺は、ただ乗っているだけだ。
しかし、猪は止まらない。
そのまま、正面の大木へ向かっている。
俺が飛び降りるとほぼ同時に。
どごんっ!
凄まじい音が響いた。
木の幹が、大きく揺れる。
猪は、その場でひっくり返った。
(あらー)
猪は、白目を剥いて気絶している。
(おい、大丈夫か)
鼻先へ近づき、様子を確かめる。
呼吸はしている。
魔力の流れにも、大きな異常はなさそうだ。
気絶しているだけのようだな。
スライスして焼いた肉なら大好物だが、こんな毛だらけのやつにそのまま齧り付く気はない。
まあこの程度のやつなら、放置しても、騎士団なら対処できるだろう。
俺は、再び森の奥へ向かった。
その後も、いろいろと出てきた。
樹上から襲いかかってきた大蛇。
岩のような甲羅を持つ巨大な亀。
木の幹に擬態していた、妙に脚の長い虫。
大蛇は、尻尾で軽く弾いたら、木々の向こうへ飛んでいった。
巨大亀は、威圧したら甲羅に引っ込んだまま出てこなくなった。
虫は、俺の姿を見た途端、ものすごい速さで逃げていった。
これが小説なら、主人公が強大な魔物を次々と倒し、称賛される場面だ。
現実は、何とも締まらない。
まあ、俺としては楽でよいのだが。
それにしても……森の奥へ進むにつれて、魔力の濃度が明らかに増していた。地面から、じわじわと何かが吸い上げられているような感覚。
周囲の木々も、妙に元気がない。
葉がしおれ、苔が乾き、地面には細かな亀裂が走っている。
どうやら、元凶はすぐ近くにいるようだ。




