第四十九話「パティの剣」
四連休が明けて、二日目。
学院の時間割が、また変わった。
昨日は何事もなかったように授業が行われていたのだが、本日の魔術実技は中止。その代わりに、一年生から三年生までを集めた合同剣術実技が行われることになったらしい。
しかも、王国騎士団から特別講師を招くという。
なかなか豪勢な代替授業である。
(……しかし、急だな)
先週の臨時休校に続き、今度は急な時間割変更。
偶然にしては、少々続きすぎている気がする。
まあ、俺としては、魔術の授業がなくなろうと剣術に変わろうと、さほど困ることはない。猫に単位の取得義務はないし、卒業後の就職活動もない。実に恵まれた身分である。
「テト、今日は剣術なんだって!」
当の本人は、朝からご機嫌だった。
学院の掲示板に貼り出された時間割変更の知らせを見つけるなり、目を輝かせている。
「騎士団の人たちが来るんだって。騎士の人と戦えたりするかな」
そんなことは俺に聞くな。教師に聞け。
「にゃあ」
「うん。ちゃんと先生に聞いてくる!」
相変わらず、こちらの返事を都合よく解釈する娘である。
もっとも、剣術が楽しみなのは理解できた。
パティが剣を習い始めたのは、六歳のときだった。
フィロパトール領邸の食堂に飾られた、歴代領主の肖像画。その中にいた腰に細身の剣を佩き、鋭い眼差しでこちらを見据える女領主。
百数十年前の人物で、剣の腕は歴代当主の中でも指折りだったという。
その肖像画を見上げたパティが、ひと言。
『……かっこいい』
そして、続けて言った。
『パティも剣、やりたい』
あれから、ずっと続けている。
派手な技があるわけではない。
相手を圧倒する力があるわけでもない。
ただ、簡単には崩れない。打たれても、転んでも、相手の動きを見て、次を考える。
あの小さな体で、よくもまあ、そこまで粘れるものだと思う。
ちなみに、俺は高校剣道をかじった程度だが、剣術の上手い下手くらいなら、多少は分かる。
少なくとも、パティの剣が見かけだけのものではないことは知っていた。
問題は、学院の連中がそれを知らないことである。
剣術訓練場には、すでに大勢の生徒が集まっていた。
一年生から三年生までの合同授業とあって、普段よりもずっと賑やかだ。
訓練場の中央には、王国騎士団の紋章をつけた男女二人の騎士が立っていた。
一人は、いかにも騎士然とした大柄な男。
短く刈り込んだ髪に、四角い顎。背筋を伸ばし、微動だにせず立っている姿は、鎧を脱いでも鎧を着ているようだった。
もう一人は、赤みを帯びた髪を後ろで束ねた女性騎士である。
こちらは比較的柔らかな雰囲気だが、立ち姿に隙がない。
「諸君、本日は王国第三騎士団より、特別講師をお招きしている!」
剣術科主任教授、カプティン・ハルロックの声が訓練場に響いた。
「チャーター・ホルホック騎士、ならびにロゼア・グラウカ騎士だ。ご両者とも、王国騎士団において優れた実績を持つ方々である。本日の授業では、実戦を想定した剣の扱いについて指導していただく!」
生徒たちから拍手が起こった。
チャーター騎士は、胸に拳を当てて一礼する。
ロゼア騎士も、それに続いた。
「本日は、よろしくお願いいたします」
チャーターの声は、やたらと大きかった。
訓練場の端にいた俺の耳まで、びりびりと震える。
……うむ。
声量だけなら、すでに騎士団長級である。
最初に、二人による模範演武が行われた。
刃引きとはいえ、その打ち合いは迫力があった。
チャーターが踏み込み、ロゼアが受け流す。ロゼアの剣が肩口へ伸びれば、チャーターは半歩下がってかわし、すぐに打ち返す。
剣と剣がぶつかる音が、甲高い響きを立てて訓練場に広がった。
動きが速い。
しかも、速いだけではない。無駄がないのだ。
力任せに振り回しているように見える瞬間でも、次の動作へ移るための余裕が残されている。
(……さすがは本職だな)
数合の打ち合いの末、ロゼアの剣先がチャーターの喉元で止まった。
訓練場に歓声が上がる。
「お見事!」
カプティンが拍手すると、チャーターは真顔で頷いた。
「今の一合は、私の踏み込みが半歩深すぎました。グラウカ騎士は、それを見逃さなかった。諸君も覚えておくように」
負けた本人が、実に堂々と敗因を解説している。
なるほど。こういう騎士もいるのか。
俺は、少し感心した。
続いて、生徒たちによる実技指導が始まった。
希望者が前に出て、騎士たちから助言を受ける形式である。
もちろん、見学を選んでも構わない。
特に一年生には、まだ剣術の経験が浅い者も多い。
ところが。
「はい!」
真っ先に手を挙げたのは、我が家の娘だった。
……知ってた。
「パトリシア・フィロパトール嬢か。参加を希望するのだな?」
「はい!」
カプティンの確認に、パティは元気よく答えた。
周囲の一年生たちが、少し驚いたように顔を見合わせる。
まあ、無理もない。
公爵家の令嬢が、わざわざ木剣を握って打ち合いに参加するとは、普通は思わないだろう。
しかも、パティは小柄だ。
同年代の少女たちと比べても、特別に体格がよいわけではない。
剣術向きの外見とは、お世辞にも言い難かった。
だが、本人はそんなことを気にしていない。
訓練用の木剣を受け取ると、嬉しそうに重さを確かめている。
その様子を見て、見学席の一角から声が上がった。
「パトリシア!」
聞き覚えのある声だった。
ん? ああ。いたのか。
いや、三学年合同授業なのだから、いて当然なのだが。
レオナルドである。
王族らしい金の刺繍が入った訓練着をまとい、何人かの上級生を従えて歩いてきた。
「お前も剣を使うのか?」
「うん。六歳から習ってるよ」
「ほう?」
レオの眉が、わずかに上がった。
「ならば、俺が相手をしてやろう」
……おや。
それは、なかなか面白い提案だ。
いや、待て。
面白がっている場合ではない。
レオの剣術は、以前にも見たことがある。構えは美しい。基本に忠実で、剣の扱いも悪くない。
ただし、型が綺麗すぎる。教本どおりの動きには強いが、相手が予想外の動きをすると、途端に対応が遅れる。
以前の模擬戦でも、対戦相手に足を払われ、見事に転がされていた。
その際の言い訳が、『相手の型を見極めるために、わざと負けた』である。
今回も、見極めることになるのだろうか。
「いいの?」
パティは、素直に喜んだ。
「うん。じゃあ、お願い!」
レオは、満足そうに頷いた。
「ふん。婚約者に稽古をつけてやるのも、俺の役目だからな」
誰がそんな役目を定めたのかは知らない。
少なくとも、俺は初耳だった。
カプティンは、二人を見比べて少し考えたが、結局、試合を認めた。
剣術訓練場には、結界が張ってある。万一の負傷にも対応できるし、危険な打撃は抑制される。
もっとも、痛みまで完全になくなるわけではない。そこは、訓練のために必要な範囲で残されている。
つまり、痛いものは痛い。
……さて。どちらが、先にそれを実感することになるのやら。
***
「それでは、始め!」
カプティンの合図と同時に、レオが木剣を構えた。
背筋はまっすぐ。足の位置も悪くない。相変わらず、見栄えのする構えである。
一方のパティは、やや腰を落とし、剣先を相手の中心へ向けていた。
華やかさはない。
ただ、落ち着いている。
レオが、軽く踏み込んだ。
まずは相手の力量を確かめるつもりなのだろう。剣先を小さく動かし、パティの反応を誘っている。
パティは、動かなかった。
レオが、もう半歩踏み込む。
その瞬間だった。パティの足が動いた。
短い踏み込み。
木剣が下から跳ね上がる。
乾いた音が響いた。
「――っ!?」
レオの剣が、宙を舞った。
くるりと一回転して、数歩離れた地面に落ちる。
からん。
訓練場が、静まり返った。
……おお。
実に綺麗に飛んだ。
「一本!」
カプティンの声が響いた。
パティは、木剣を下ろした。
「やった!」
嬉しそうに笑っている。
対するレオは、しばらく空になった自分の手を見つめていた。
「……今のは」
そして、顎を上げた。
「少し油断しただけだ」
出た! 伝家の宝刀、油断。
王族というのは、剣を失っても言い訳だけは失わないらしい。
周囲の生徒たちは、曖昧な表情を浮かべていた。誰も笑わない。誰も驚きを口にしない。
実に訓練された観客である。
「もう一度だ!」
レオが言った。
パティは、嬉しそうに頷いた。
「うん!」
今度のレオは、最初から慎重だった。
不用意に踏み込まず、剣先を動かしながら間合いを測っている。
パティも、すぐには動かない。
二人の間に、短い静寂が生まれた。
やがて、レオが打ち込んだ。
先ほどよりも速い。
剣筋も悪くない。
だが、パティはその剣を受け流した。
そして、相手の腕が伸びた瞬間、木剣を返す。
ぱしん。
「痛っ!」
レオの手首に、鋭い一撃が入った。
木剣が、また落ちた。
今度は、さほど遠くまで飛ばなかった。
ただ、持ち主の足元に、情けない音を立てて転がった。
「小手あり!」
カプティンの声が響く。
パティは、少し首を傾げた。
「レオ、大丈夫?」
「だ、大丈夫に決まっている!」
レオは、慌てて木剣を拾い上げた。
「今のは、お前の動きを見てやっただけだ!」
……なるほど。
一度目は油断。二度目は観察。次は何だろう。
教育的配慮か。それとも、婚約者への愛情表現か。
俺は、少々興味が湧いてきた。
もっとも、レオの顔色を見る限り、本人に冗談を楽しむ余裕はなさそうだった。
「もう一度!」
レオは、開始の合図を待つ間も、落ち着きなく木剣を握り直していた。
パティは、変わらない。
相手を見て、間合いを測っている。
「始め!」
レオが、いきなり踏み込んだ。
今度は、最初から勢いが違った。
大きく振りかぶり、力任せに打ち込む。
パティは、一歩下がった。
殿下が追う。
さらに打ち込む。
パティは、またかわす。
その動きに、殿下の焦りが増していく。
剣を振るたび、足が前へ出る。
上体が流れる。
間合いが、少しずつ崩れていく。
(……ああ、まずい)
俺は、内心で呟いた。
もちろん、まずいのはパティではない。レオの方である。
あれでは、相手を追っているのではなく、追わされている。
次の瞬間、パティが動いた。
レオの大振りを、半歩横へかわす。
すれ違いざま、木剣が水平に走った。
ぱんっ。
抜き胴。
脇腹に、綺麗な一撃が入った。レオは、勢いを止められず、数歩よろめいた。
そして、片膝をつく。
「胴あり!」
カプティンが宣言した。
……終わった。三連勝。実に分かりやすい結果である。
ただし、当の本人は勝ち誇るどころか、少し物足りなさそうだった。
「レオ、もう一回やる?」
……パティ。
それは、やめておこう。相手にも、守るべきものがある。
主に、面子という名の非常に壊れやすい代物が。
「ふ、ふん!」
レオは立ち上がり、服についた土を払った。
「まあ、女にしては悪くなかったな。俺が稽古をつけてやった甲斐があったというものだ」
……三本とも負けた人間の台詞としては、なかなか大胆である。
周囲の生徒たちは、曖昧に頷いた。
上級生の何人かが、さりげなく拍手までしている。
なるほど。王族の面子というものは、周囲の協力によって維持されるらしい。実に手間のかかる制度である。
ところが。
「殿下」
低い声が響いた。
チャーターだった。
「先ほどの三本について、申し上げたいことがございます」
レオは、少し得意そうに顔を上げた。
「ん? 何だ?」
「一度目は、剣の握りが甘すぎます」
「……は?」
「相手の踏み込みに対し、手首が遅れております。あれでは、剣を弾かれて当然です」
周囲の空気が、ぴたりと止まった。
だが、チャーターは気づかない。
「二度目は、相手の剣先ばかり見て、手元への警戒が疎かでした。小手を打たれたのは、そのためです」
「お、おい……」
「三度目に至っては、間合いを考えずに突っ込みすぎです。あれでは、相手に打ってくださいと言っているようなものです」
おお。容赦がない。しかも、全部正しい。
「三本とも、完敗でございます」
チャーターは、堂々と言い切った。
訓練場が、完全に静まり返った。
レオの顔が、みるみる赤くなる。
「き、貴様……!」
「ですが、ご安心ください!」
チャーターは、さらに声を張り上げた。
「欠点が明確であれば、改善も容易です! まずは基本の構えから、改めてご指導いたしましょう!」
素晴らしい。この男、空気を読むという技能を、どこかに置き忘れてきたらしい。
しかも、本人には悪意がない。
純粋に、剣術の指導をしているだけなのだ。
隣にいたロゼアが、そっとチャーターの腕を引いた。
「……チャーター。そのくらいで」
「なぜだ? まだ説明が終わっていないぞ」
「ええ。分かっているわ。でも、今はそのくらいで」
「しかし、殿下の剣には、まだ改善すべき点が――」
「チャーター」
ロゼアの声が、少し低くきつくなった。
チャーターは、ようやく口を閉じた。
なるほど。第三騎士団にも、いろいろと苦労があるらしい。
レオは、顔を真っ赤にしたまま立ち尽くしていた。
周囲の生徒たちは、誰も目を合わせようとしない。
王族が三本とも負けた。
しかも、騎士団の特別講師から、完敗だと断言された。
これ以上、何を言えばよいのか分からないのだろう。
そんな中、パティが声をかけた。
「レオ」
「……何だ!」
「そんなに気にしなくてもいいじゃない」
「レオは王族なんだから、自分が強い必要はないでしょ」
「……何?」
「だって、そのために、そこの騎士さんたちがいるんだし」
パティは、チャーターとロゼアを指さした。
「みんなが強かったら、王様も王子様も、自分で剣を振らなくていいじゃん」
……まあそうだな。
理屈としては、間違っていない。
王族の役目は、剣で敵を倒すことではない。
国を治め、人を導き、必要なときに正しい判断を下すことだ。
そのために、騎士団がいる。
少なくとも、パティはそう考えているのだろう。
ただし。
今のレオに、その理屈が通じるかどうかは、また別の問題だった。
「お前だって、守られる側だろうが!」
レオが、声を荒らげた。
パティは、きょとんとした。
「え? ウチは兄様たちがいるし」
「……は?」
「それに、パティは冒険者になるの」
にこり。
実にいい笑顔だ。
……だが。
そんな話は聞いてないぞ!
確かに、パティは休み中、借りてきた本を読みながら言っていた。
「こんな風に、広い世界を見てみたいな」「知らない場所へ行ってみたい。自分の足で歩いて、自分の目で確かめたい」
……言ってはいたが。ダメだ、冒険者はダメだ。俺の優雅でのんびりした猫生が消える。
「な……何を言っている!」
レオの顔が、さらに赤くなった。
おっ、レオも反対か? 珍しく意見が合うじゃないか。言ってやれ言ってやれ。
「お前は、俺の婚約者だぞ!」
「え?」
(え?)
おいおい、説得の方向性がズレてないか?
「冒険者などになっていいわけがないだろう!」
パティは、少し首を傾げた。
「……え、そだっけ?」
……あらぁ。
いや、気持ちは分かる。
分かるが、今のは少々まずい。
レオの顔色が、赤から紫に変わりかけている。
「そだっけ、だと!?」
声が裏返った。
「お前は、自分の立場を何だと思っている!」
「えっと……公爵家の娘?」
「そうだ! そして、俺の婚約者だ!」
「あー、そうみたいね」
「だったら、王族の妻にふさわしい振る舞いをするのが当然だろう!」
パティは、黙ってレオを見つめた。
レオ殿下は、止まらなかった。
「剣など振り回して、冒険者になるだと? そんな馬鹿げたことを考えている暇があったら、礼儀作法でも学んでいろ!」
あっ。言ってしまった。しかも、最悪の方向へ。
前言撤回。レオ、もう喋るな。
「お前の将来は、お前が勝手に決めていいものではない! 公爵家の娘として、俺の婚約者として、ふさわしく振る舞えばいいんだ!」
訓練場が、しんと静まり返った。
パティは、何も言わなかった。
ただ、じっと殿下を見ていた。
その表情から、少しずつ笑顔が消えていく。
俺は、その変化を見逃さなかった。
ああ。これは、まずい。
パティは、剣術で勝ったことを自慢したかったわけではない。レオを馬鹿にしたかったわけでもない。
ただ、剣を振るのが楽しかった。そして、レオが負けて悔しがっているように見えたから、慰めようとした。
それだけだった。
だが、レオには、その気持ちが伝わらなかった。
いや。伝わらなかっただけなら、まだよかった。
レオは、パティの夢そのものを否定してしまったのだ。
「……そうですか」
パティが、静かに言った。
声が、変わっていた。
「わたくしが軽率でございました、レオナルド殿下」
……ああ。
戻ってしまった。
あの、完璧な公爵令嬢の口調に。
パティは、背筋を伸ばし、丁寧に一礼した。
「王族の婚約者としての立場を、わきまえておりませんでした。申し訳ございません」
レオは、少し戸惑ったようだった。
「な、何だ、その言い方は」
「ご指摘、ありがとうございました」
パティは、もう一度礼をした。礼儀作法の教師が見れば、満点をつけるだろう。
だが、俺には分かる。これは、謝罪ではない。パティが、レオとの間に線を引いたのだ。
レオは、まだ気づいていない。
「……ふん。分かればいいのだ」
そう言って、顎を上げた。
……分かっていない。何一つ。
パティは、木剣をカプティンに返した。
「本日は、ありがとうございました」
「う、うむ……」
カプティンも、少々困った顔をしている。
パティは、俺の方へ歩いてきた。
「テト。戻ろ」
「にゃあ」
俺は、足元へ寄ってきたパティを見上げた。
その顔には、もう笑顔がなかった。
ただ、泣いているわけでもない。怒っているわけでもない。
静かだった。
それが、かえって気になった。
俺は、パティの足に体を擦りつけた。
すると、パティは少しだけ笑った。
「……ありがと、テト」
小さな声だった。
俺は、もう一度鳴いた。
「にゃあ」
大丈夫だ。お前が何になりたいと思おうと、俺は味方だ。
冒険者……でも、女領主でも、ただの公爵令嬢でも。
そして、猫の飼い主。それだけは、変わらない。
見学席に戻ったときだった。
背後から、小さな声が聞こえた。
「……よっし。これで正常に戻るはず」
……ん?
俺は、耳を動かした。
声の主は、アイリーン・シムラー。
少し離れた席で、何やら満足そうに頷いている。
その表情には、安堵の色さえ浮かんでいた。
……正常?
何が、正常だというのだ。
パティが笑わなくなったことか。
自分の夢を口にしなくなったことか。
それとも、あの馬鹿王子の言いなりになることか。
冗談じゃない。
そんなものがお前の正常だというのなら、俺は異常なままで結構だ。
俺は、アイリーンをじっと見つめた。
彼女は、こちらに気づいていない。
何を考えているのかは分からない。
ただ、どうやらあの娘は、パティのことを、何か大きく勘違いしている。
そして、その勘違いは、どうやら本人が思っている以上に根深いらしい。
やれやれ。平穏な猫生というものは、どうしてこう、遠ざかる一方なのだろう。
俺は、小さくため息をついた。
もっとも、猫のため息など、誰にも聞こえはしないのだが。




