第四十八話「正式な要請ではございません【学院長室】」
その男が学院長室を訪れたのは、午後の授業が終わって間もなくのことだった。
王都中央教会、魔道具管理局次席監督官、エドガー・ヴァイス。
四十代も半ばを過ぎたであろう男は、灰色の髪を丁寧に撫でつけ、質素ながら仕立てのよい法衣を身につけていた。胸元には教会の紋章が銀糸で刺繍されている。高位聖職者というほどではないが、教会の実務を預かる者としては、それなりの地位にある人物だった。
学院長は、執務机を挟んで向かい合う男を眺めながら、内心で小さく溜息をついた。
この時期に、教会の魔道具管理部門から突然の訪問とは。
事前に用件を知らせる書状もなければ、正式な面会の申し入れもない。先触れの使者が取り次ぎを求め、応じてみれば、本人がすでに学院の門前まで来ていたという。
礼を失しているとまでは言わないが、通常の手続きとは言い難かった。
「突然の訪問をお許しください、学院長閣下」
ヴァイスは穏やかな笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「本日は、少々ご相談申し上げたいことがございまして」
「相談、ですか」
「ええ。学院と教会、双方の今後に関わることでございます」
学院長は、机の上に置かれた封筒へ視線を落とした。
教会の封蝋は押されていない。差出人の署名もない。
中に収められていたのは、簡単な面会の挨拶状だけだった。
「まず伺っておきたいのですが、本日のご訪問は中央教会の正式なご意向によるものでしょうか」
「いえ、そこまで大仰なものではございません」
ヴァイスは、まるで天気の話でもするように答えた。
「教会内部で、近頃少々懸念されていることがございまして。学院長閣下にも、ぜひお耳に入れておきたいと考えた次第です」
「なるほど。それで、その懸念とは?」
「闇属性の魔術についてでございます」
学院長は、表情を変えなかった。
ただ、机の上で組んでいた指に、わずかに力が入った。
やはり、その話か。
「闇属性の魔術が、何か?」
「ご承知のとおり、闇属性は古来より慎重な取り扱いを要するものとされております。その性質にはいまだ解明されていない部分も多く、過去には不幸な事例もございました」
「それは、闇属性に限ったことではありますまい。火属性の暴発で建物が焼けた例もあれば、雷属性の制御を誤って負傷者を出した例もあります」
「もちろんでございます。魔術というものは、使い方を誤れば危険を伴う。それは私どもも十分承知しております」
ヴァイスは、あっさりと頷いた。
反論されることを、あらかじめ予想していたかのようだった。
「ただ、闇属性には、ほかの属性とは異なる問題がございます」
「と、おっしゃいますと?」
「人々の不安でございます」
学院長は、眉をわずかに動かした。
「不安?」
「はい。たとえ実際に事故が起きていなくとも、闇属性の魔術が行使されていると知れば、不安を覚える者は少なくありません。特に、貴族のご子息ご令嬢が数多く通われる学院ともなれば、その影響は決して小さくないでしょう」
「つまり、他の生徒や保護者の不安を理由に、闇属性の教育を制限すべきだと?」
「いえいえ。そこまで申し上げているわけではございません」
ヴァイスは、困ったように微笑んだ。
「ただ、当面の間、闇属性を持つ生徒への実践的な魔術指導をお控えいただけないかと。そうした声が、教会内部にあるということでございます」
学院長は、しばらく黙って相手を見つめた。
闇属性を持つ生徒。
現在、この学院でその属性を持つ者が誰なのか、学院長はもちろん把握している。
パトリシア・フィロパトール。
フィロパトール公爵家の令嬢である。
ほかにも闇属性への適性を示した生徒は過去にいたが、少なくとも現在の在校生で、実技指導の対象となっているのは彼女だけだった。
名前を出さずとも、誰を指しているかは明白だった。
「ヴァイス殿」
「はい」
「それは、特定の生徒に対する教育制限を求めるものと受け取ってよろしいのですかな」
「滅相もございません」
返答は早かった。
「私どもは、特定のご家庭や生徒の方を問題視しているわけではございません。あくまで一般論として、闇属性の魔術指導には慎重を期していただきたいと申し上げているのです」
「一般論であれば、学院としても異論はありません。どの属性であろうと、安全には十分配慮しております」
「それは存じております。しかし、万一ということもございますので」
「万一を恐れるのであれば、魔術そのものを教えることができなくなりますな」
学院長は、静かに、しかし毅然と言い切った。
「本学院は、王国の将来を担う若者たちに、正しい知識と技術を身につけさせるための教育機関です。生まれ持った属性を理由に、学ぶ機会を奪うことはできません」
ヴァイスは、しばらく学院長を見つめていた。
その表情から笑みが消えることはなかった。
「まことに、ご立派なお考えでございます」
そして、ゆっくりと続けた。
「ただ、教育には『安全な環境』が不可欠でございましょう」
学院長は、嫌な予感を覚えた。
「……何をおっしゃりたい?」
「本学院の結界魔道具についてでございます」
やはり、そこへ来たか。
学院の敷地全体を覆う防御結界。
魔術訓練場に設けられた、魔術の暴発を抑え、術の威力を制御する結界。
剣術訓練場に設けられた、重傷を防ぎ、負傷者の回復を補助し、痛覚の強度を調整する結界。
それらはすべて、地下に設置された巨大な魔道具によって維持されている。
そして、その魔道具の精密な操作、調整、魔力の充填を担当しているのは、教会の技術者たちだった。
「結界の維持管理について、何か問題でも生じたのですかな」
「現時点では、何も」
ヴァイスは、あくまで穏やかだった。
「ただ、教会といたしましても、危険が懸念される魔術教育を支援し続けることについては、慎重な検討が必要になるかもしれません」
「それは、結界魔道具の管理を引き上げるという意味ですか」
「そのような決定は、何もなされておりません」
「では、今後も従来どおりの管理を続けていただけると?」
「もちろん、可能な限りの協力は惜しまない所存でございます」
可能な限り。
学院長は、その言葉を心の中で反芻した。
なんとも便利な言い回しだった。
協力すると約束しているようで、何も約束していない。
「ただし」
ヴァイスは続けた。
「教会にも、さまざまな意見がございます。万一、学院の教育方針について懸念が強まるようなことがあれば、従来どおりの支援が難しくなる可能性も、否定はできません」
「……なるほど」
学院長は、深く背もたれに体を預けた。
要するに、闇属性の指導を控えなければ、結界の維持管理を見直すこともあり得る。
そういうことなのだろう。
だが、相手は一度として「指導をやめろ」と命令していない。
脅迫の言葉も口にしていない。
ただ、将来起こり得る『可能性』を、親切にも教えてくれているだけだ。
「ヴァイス殿。もう一度、確認させていただきたい」
「何なりと」
「本日のご相談は、中央教会の正式な要請ではないのですな」
「はい。正式な要請ではございません」
「では、教会の上層部は、この件をご存じなのですか」
ヴァイスの笑みが、ほんのわずかに深くなった。
「教会内部には、さまざまなお考えの方がおられます」
答えになっていなかった。
学院長は、さらに問いを重ねようとして、やめた。ここで追及したところで、明確な回答が得られるとは思えなかったからだ。
「お話は承りました」
「ご理解いただけましたか」
「検討すると申し上げたのです」
学院長は、相手の目をまっすぐに見据えた。
「ただし、本学院の教育方針は、教会の非公式なご意見だけで変更できるものではありません。その点は、ご承知おきいただきたい」
ヴァイスは、深く頭を下げた。
「もちろんでございます。賢明なご判断を期待しております」
そう言って立ち上がると、何事もなかったかのように一礼し、学院長室を辞した。
重々しい扉が閉まる。
学院長は、しばらく動かなかった。
机の上には、正式な要請書も通達も残されていない。
ただ、あの男の不気味な言葉だけが残されていた。
闇属性への魔術指導を控えてほしい。
さもなくば、結界の維持管理に支障が生じるかもしれない。
……実に厄介な話だった。
学院長は、呼び鈴に手を伸ばした。
入ってきた事務官に、静かに告げる。
「副学院長を呼んでください。それから、各科の教務主任にも連絡を。パトリシア・フィロパトール嬢の担任にも、同席してもらいたい」
「承知いたしました。いつ、お集まりいただきますか」
「明朝、第一刻から」
「授業は、いかがいたしましょう」
学院長は、少し考えた。
今回の件は、通常の職員会議で済ませられる問題ではない。
結界の管理体制、授業の継続、教会との関係。場合によっては王家への報告も必要になる。
教員たちが授業の合間に集まり、片手間に話し合えるような内容ではなかった。
ましてや、結論が出る前に生徒や保護者の間へ話が広まることは避けたい。
「明日……いや、明日と明後日、臨時休校とします」
「休校、でございますか?」
「ええ。休日と合わせて四連休。理由は学院設備の緊急点検としてください。あながち間違いでもありません」
事務官は少し驚いた様子だったが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました」
「それと、今日のうちに、地下の魔道具について直近の点検記録と魔力充填の履歴を揃えておいてください」
「はい」
「教会からの技術者の派遣予定もです。今後一月分で構いません」
事務官が退出すると、学院長は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの学院では、生徒たちが思い思いに帰路についている。
友人と談笑する者。
書物を抱えて急ぎ足に歩く者。
庭園の片隅で、まだ何かを話し込んでいる者。
彼らは知らない。
自分たちが当たり前のように受けている教育が、いかに多くの仕組みに支えられているのかを。
そして、その仕組みが、時として教育そのものを縛る鎖にもなり得ることを。
学院長は、深く息を吐いた。
さて。
まずは、何ができて、何ができないのか。
それを確かめなければならない。
理念だけで学院は守れない。
だが、理念を捨ててまで守る学院に、果たして何の意味があるのだろう。
その答えを、明日の会議で見つけなければならなかった。




