第四十三話「三属性と一文字」
学院に入学して、二週間と少し。
一年生の魔術基礎は、合同実技の日を迎えた。
「――本日は、成績上位のお二人に属性魔法の実演をお願いします」
地下の実技場は石造りで、ひんやりとした空気が漂っていた。一年生の二つのクラスが見学席を埋めている。
俺の定位置は、一番後ろにある棚の上。猫の特等席だ。
壇上に立つのは、魔術科主任のエルダス教頭。白髪に厳めしい顔つきの老人だが、魔術の腕は確かだという。
「まずは、シムラー男爵家、アイリーン様。お願いいたします」
「はーい」
例の男爵令嬢が、軽い足取りで壇上に上がった。
緊張している様子はない。あれは才能か、度胸か。おそらく両方だろう。
「では、水から」
教頭が用意された水槽を示した。
アイリーンは、ふむ、と頷いて水面に手をかざす。
「命の根源たる水よ。吾が命ず。流速をもって大地の軛を解き放ち、吾が眼前に顕現せよ! ――ウオータートルネード!」
両手を頭上に振り上げた。
水面が跳ねた。
水柱が螺旋を描き、壇上に小さな渦を作る。
「おお……!」
見学席がどよめいた。
(……厨二病。いや、そんな大仰な詠唱が必要なのか?)
水と風の合わせ技らしい。器用なのは間違いないが、俺ならもっと実用的な使い方を考える。
もっとも、今日は実技の試験というより、お披露目の場なのだろう。見栄えを重視するのは正解かもしれない。
「光あれ! 遍く照らす――」
アイリーンが手をかざすと、水の渦の中心に、ぽっと光が灯った。
水が内側から照らされ、壇上に小さな光の泉が生まれる。
「おおお!」
さらに詠唱が続く。
「雲を運び、季節を運ぶ――」
光の泉に風が吹き込んだ。
水しぶきが霧になり、霧が光を含む。実技場の中に、小さな虹がかかった。
大きな拍手が起きた。
教師たちまで拍手している。エルダス教頭も、職業的な厳しさを忘れたように、しばらく虹を見つめていた。
「……見事。実に見事です、アイリーン様」
「えへへ。ありがとうございます」
「王国史上、三属性の術者は指で数えるほどしか記録されていません。……あなたは奇跡です」
奇跡。
その言葉が、実技場に響いた。
(……見事な演出だったな)
俺は素直に感心した。
水、光、風。三つの属性を組み合わせ、短い時間でこれだけの見せ場を作る。魔術の制御も、観客を意識した構成も、文句のつけようがない。
俺なら、ひとつずつ現象を検証しながら実演していただろう。だが、あれはあれで完成された見せ物だ。
いわゆる「映える」というやつか。
……それにしても。
***
アイリーンと中庭で遭遇した日から、俺はある観察を続けていた。
対象はアイリーン本人ではない。
彼女の周囲だ。
観察記録、一。
火曜日の朝。アイリーンは寝坊し、廊下を走って教室に飛び込んだ。
「す、すみません! 寝坊しました!」
「……ふむ」
担任教師は苦笑した。
「奇跡の乙女は、朝に弱いのですね。さあ、座りなさい」
教室が和んだ。笑い声まで起きた。
それで終わりだった。
同じ日の別のクラスでは、遅刻した伯爵家の生徒が廊下に立たされていたという。
観察記録、二。
木曜日の礼装点検。
アイリーンの襟元のリボンは曲がり、結び目も緩んでいた。
点検の教師はそれを見ても、何も言わなかった。
その五分前、同じようにリボンが曲がっていた別の男爵家の生徒は、直すように指示されていた。
観察記録、三。
金曜日の昼食。
アイリーンは食堂で、カトラリーではなく箸を使っていた。
周囲の令嬢たちが、一瞬だけ視線を向けた。
だが、誰も何も言わなかった。
「……あのスティックも新発明? 便利そうですわね」
隣のテーブルから、そんな声が聞こえた。
それだけで、周囲は納得したらしい。
(…………)
分かるだろうか。この奇妙さが。
同じことを別の生徒がすれば、注意される。アイリーンがやると、注意する側が、そもそも注意する必要を感じなくなる。
まるで――。
(……あの子の周りだけ、現実の重力が緩い)
遅刻は注意されるもの。服装の乱れは直されるもの。学院の食堂では、決められた作法を守るもの。
それが、この国の常識であり、学院の規則だ。
ところが、アイリーンの周囲では、その常識が妙に働かない。
本人が何かを強制しているようには見えない。教師たちも、周囲の生徒たちも、ごく自然に受け入れている。
……才能のせいなのか。
それとも、あの子が知っているという「物語」のせいなのか。
まだ分からない。
ただ、俺はその現象を、三属性の魔術よりも気にしていた。
***
「続いて、フィロパトール公爵家、パトリシア様。お願いいたします」
エルダス教頭の声は、先ほどよりわずかに低かった。
(……聞き逃さないぞ、そこは)
パティが壇上に上がった。
紺の制服に青いリボン。背筋はきれいに伸びている。
「属性は、闇ですね」
教頭が名簿を確認する。
手続き上の、何気ない一言。
だが、その言葉が発せられた瞬間、見学席の空気がわずかに張り詰めた。
闇。
たった一文字で、実演が始まる前から場の空気が決まってしまう。
「……はい」
パティは答え、目を閉じた。
そして、右手を掲げる。
――指を鳴らす仕草。
音はしない。
けれど、あれがパティの儀式だ。シモン老人が言っていた通り、本人にとって仕草が儀式なら、それでいい。
すっ、と。
パティの足元から影が伸びた。
壇上の影が、意志を持った絹のように立ち上がり、ゆっくりと形を変えていく。
粗くもなく、乱れもない。
影が編まれ、重なり、壇上に小さな花を形作った。
花弁の一枚一枚が、闇でできている。
静かで、正確で、きれいな影の花だった。
「……え?」
見学席が静まり返った。
感嘆の静けさではない。
戸惑いと、警戒による沈黙だった。
「……十分です」
エルダス教頭が、予定より早く告げた。
「制御はできています。事前に術式を組んで発動させたのでしょう。武門のフィロパトール家らしい工夫かもしれませんね。ただし、授業では詠唱も含めて評価します。では、次に――」
拍手は起きた。
起きたが、先ほどの虹に向けられた拍手とは、明らかに違っていた。
パティは静かに壇を降りた。
上がったときと同じように、背筋を伸ばして。
――ここまでは、想定の範囲内だった。
想定外は、その直後に起きた。
「ねえ」
見学席の中央あたりから、声が上がった。
アイリーンだった。
手を挙げるでもなく、素朴な疑問を口にするように。
「闇ってさ。……なんか、少し怖いイメージがあるよね」
実技場が凍った。
悪意はない。
それは、声を聞けば分かった。本当に、授業で分からないことを質問するような、何気ない口調だった。
だが、よりによって闇の実演が終わった直後に、その言葉を口にする。
「えっと、だって……」
周囲の空気が変わったことに気づいたのか、アイリーンは少し困ったように続けた。
「光は浄化でしょ。水は癒し。火は攻撃で、風は速さ、土は守り。……闇は、包み隠すイメージ?」
「…………」
「見えなくする力って、なんか、その……怖いなって」
言い終えると、アイリーンは小さく笑った。
つい口にしてしまった、という顔だった。
だが、周囲は笑わなかった。
代わりに、何人かが頷いた。
「……それは、そうかもしれませんけど」
誰かが小さく呟く。
その一言をきっかけに、同意するようなざわめきが見学席へ広がった。
確かに、間違った説明ではない。
隠す力は、見えなくする力だ。見えなくなれば、不安になることもある。
理屈は通っている。
だが――。
(……違う)
俺は棚の上で目を細めた。
(それは、力の説明であって、力の定義じゃない)
隠す力は、隠す力だ。
けれど、何を隠すかは、力が決めるのではない。使う人間が決める。
アイリーンは、自分が感じた怖さを口にしただけだ。
それなのに、その言葉が周囲に受け入れられた途端、闇という属性そのものが、怖いものとして扱われ始めている。
まるで、彼女の感想が、その場の正解になってしまったかのように。
――あれは、才能なのか。
それとも、この世界が彼女に求めている役割なのか。
そのとき、壇を降りたパティが、ゆっくりと振り返った。
見学席のアイリーンを見て、口を開く。
「……隠すだけではありませんわ」
「え?」
「闇は、夜ですの。夜は休むための時間です。眠るための、誰にも見られない時間」
パティは、まっすぐにアイリーンを見ていた。
「影は、守るためのものでもありますわ。暑い日に、木陰があるでしょう。あれも、影です。……隠しているのではなくて、包んでいるの」
「…………」
「あなたの仰る通り、見えなくする力なのかもしれません。でも、見えなくてもいいものも、あるのです」
そこで、パティは一度言葉を切った。
少し考えてから、小さく笑う。
「……お皿に載る前の果物だって『本当に食べられるのかしら』って物もありますもの」
見学席のどこかで、小さな笑いが起きた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……そう、かな」
アイリーンは首を傾げた。
納得した顔ではない。かといって、否定することもできない。そんな表情だった。
「……でも、ゲ……ううん、なんでも」
パティは不思議そうにしたものの、追及しなかった。
「ええ。アイリーン様のお考えも、分かりますわ。闇は、隠す力でもありますもの。それも本当ですから」
そう言って、パティは自分の席へ戻っていった。
最後まで、背筋はまっすぐだった。
(……やるな)
俺は内心で頷いた。
否定しなかった。相手を言い負かそうともしなかった。
アイリーンの言葉を受け止めたうえで、自分の考えを伝えたのだ。
相手の正しさを認めることと、相手の考えだけを正解にすることは違う。
パティは、その違いを少しずつ理解し始めている。
怪奇現象に振り回されていた部屋で、あの子が学んだのは勉強だけではなかったらしい。
「アイリーン様」
静かな声が上がった。
マーゴだった。
彼女は席を立ち、背筋を伸ばしてアイリーンを見ていた。
「……先ほどのお言葉は、失礼ですわ」
「……え?」
「実演の直後に、その属性について、公の場で感想を述べること。それは、正しさの問題ではありません。礼儀の問題です」
「あ、……ごめん」
「パトリシア様に、謝るべきですわ」
「…………」
アイリーンは少し俯いた。
それから顔を上げ、パティのほうを向く。
「……ごめんなさい。悪気は、なかったの」
「ええ。分かっていますわ」
パティは、穏やかに答えた。
「アイリーン様のお言葉は、間違いではありませんもの。……だから、怒っているわけではありませんわ」
「…………」
アイリーンは何かを言いかけて、口を閉じた。
その顔は、前に中庭で見たときと同じだった。
知っていたはずの答えと、違う答えが返ってきたときの顔。
(……そうか)
お前の物語では、今の場面は、こうなるはずだったのか。
悪役令嬢が怒り、ヒロインの正論に激昂し、醜態を晒す。
だが、現実のパトリシアは違った。
相手の言葉を認め、自分の考えを伝え、静かに席へ戻った。
物語と現実のずれ。
そのずれが、アイリーンの中に、また一つ積み上がった。
積み上がったものが、いつかどんな形になるのか。
(……注視だな)
放課後。
帰りの馬車の中で、パティは少しだけ静かだった。
「ねえ、テト」
「にゃ」
「パティの闇、……きらいな人、多いのかな」
「…………」
「……まあ、いいや。パティは、すきだから」
パティは俺の頭を撫でた。
「夜は休む時間だもん。……隠すんじゃなくて、包むんだもん。先生が、そう言ってた」
「にゃあ」
そうだ。トライ先生が教えてくれたことだ。
枕元で『お湯の人』がぶつぶつ言っていたことも、多少は役に立ったらしい。
「……でもね」
パティは窓の外を見ながら、小さく続けた。
「……あの子の言うことも、分かるの。闇って、怖いよね。パティも、ちょっとだけ思ってたもん」
「…………」
「だから、怒らないの。あの子は、正直なだけ」
窓から夕日が差し込んでいた。
パティの横顔は、少しだけ大人びて見えた。
いや、少し疲れていたのかもしれない。
それでも、その目は濁っていなかった。
その夜。
学院の図書館、奥の一室。
今夜の記録は、『テト観察日誌』ではない。
研究の記録だ。……いや。記録というより、告白に近い。
今日の合同実技について、報告を聞いた。
シムラー男爵家の三女。水、光、風。三属性。
その話を聞いたとき、僕が最初に思ったのは「すごい」ではなかった。
「……ある、のか」
そう思ったのだ。
三属性は、この世界の魔術理論における上限だ。
文献には記録がある。だが、現代において、実際に三属性を操る術者を見た者はいない。
だからこそ、僕たちはそれを伝説として扱ってきた。
伝説とは、存在すると記録されているが、検証できないもののことだ。
ところが今日、その伝説が、目の前で検証された。
あの令嬢は実在する。壇上で、三つの属性を操ってみせた。
……ということは。
僕はノートを開き、考えを書きつけた。
「最高三つ」という数字は、理論上の限界ではなく、これまでの観測限界だったのかもしれない。
「一人一属性」という常識も、絶対的な法則ではなく、単にそういう術者が多かっただけなのかもしれない。
……書いたぞ。
僕は今、書いてしまった。
常識を疑う文章を。学院の、魔術の、五百年にわたる定説を。このノートに、自分の手で。
……消すか。
ペン先を止めた。
……いや。
消さない。
あの猫が、書庫の本に肉球の跡を残したまま戻したように。
僕も、この一頁を残す。
もし、この仮説が正しければ……いつか僕は、この頁を「最初の一頁」として振り返ることになるかもしれない。
……くそ。
こんなに心臓が鳴っているのは、初めてだ。
追記:パティの闇の実演についても、話を聞いた。
「怖い」と言った者がいたそうだ。
……怖い、か。
闇が怖いのではない。人は、説明できないものを怖いと呼ぶ。
……僕も、そうだった。
テトを初めて見た夜から、ずっと。
だが、あいつは……。
……もう眠ろう。
今日の記録は、ここまでだ。




