第四十一話「もう一人の転生者」【一】
ちょっと長くなりすぎたので、
アイリーンとの遭遇回を分割します。
さすがにひとつのシーンにしては、
冗長だなぁと削ってはみましたが、
それでも三、四話になるかと思います。
本日の午後〜夜の間にもう一話、もしかしたら二話、投稿予定です。
学院生活が、一週間を過ぎた。
パティの一日は、だいたい次のような具合に落ち着いていた。
午前は座学。午後は実技か教養。昼休みはマーゴと中庭。
俺はというと、午前中は教室の窓際にある棚の上、午後は中庭の木陰が定位置になった。学院の猫という立場は、思いのほか居心地がいい。生徒は最初こそ珍しがったものの、すぐに見慣れてしまった。教師も、授業の邪魔をしない限り見て見ぬふりをしている。
給食の残りを厨房の裏でいただけるのもありがたい。前世では昼食を食べる時間すら惜しんで働いていたが、今世では昼寝をしていても食事が出てくる。福利厚生という観点からすれば、前世の勤務先とは比較にならない。
問題は、俺の本来の業務が少しずつ増えていることだった。
学院内の情報網の構築である。
『――というわけで、学院の鼠は、代々「図書館組」と「厨房組」に分かれてるそうです』
二代目グリッグの報告は、中庭の植え込み越しだった。
『窓口は図書館組のほうにしましょう。厨房組は働き者ですが、口が軽い』
『……分かりやすい社会だな』
『人間と同じですって。静かなところに集まるやつは、静かに暮らしたいんですよ』
至言である。
図書館組は本棚の裏や書庫の隅を拠点にしている。人間が頻繁に出入りする厨房よりも、情報を集めるには都合がいいらしい。もちろん、厨房組が無能というわけではない。食材の搬入、調理人の交代、来客用の特別メニュー。あちらにはあちらの情報が集まる。
ただし、情報の質と口の堅さは別問題だ。
人間社会でも、情報通とおしゃべりは、しばしば同じ人物の中に同居している。
鳥のほうは、ルルの一族が本棟の屋根に見張りを置くことで合意した。対価は例によってパンくずと歌の相談。なお、ルルの伴侶の歌唱力については、本人の名誉のためにも評価を控えている。
残るは猫だ。
学院には、食堂の裏に住み着いている雌猫と、剣術場を縄張りにする雄猫がいた。
挨拶は済ませた。ボスの名を出し、肉球の話をし、縄張りの礼を尽くす。双方とも問題はなかった。むしろ「あの有名な黒猫か」という目で見られたくらいだ。
獣社会の噂の拡散速度には、いつも感心させられる。
こうして、学院内の情報網は一通り形になった。
図書館組、厨房組、屋根の上、食堂の裏、剣術場。
人間の目が届かない場所なら、俺の目と耳になるものがいる。
これでようやく、学院生活の監視体制も整ったわけだ。
……整ったのだが。
(まだ、何も引っかかっていない)
それが、少しだけ気になっていた。
平穏なのは結構なことだ。猫として生きるなら、毎日が昼寝と食事だけで構成されているのが理想である。
しかし、転生してからこっち、俺の人生における平穏というものは、だいたい次の面倒事が到着するまでの待機時間だった。
前世でも、平穏な日ほど急な仕様変更が飛んできた。
今世では、平穏な日ほど誰かが破滅フラグを立てている。
この世界の運用管理者は、どうやら安定稼働という言葉を知らないらしい。
その「何か」は、金曜日の昼休みにやってきた。
中庭の、いつものベンチ。
パティとマーゴが並んで座り、俺はパティの膝の上で丸くなっていた。二人の間には、一冊の本が開かれている。
文通から始まった二人の交流は、いつの間にか読んだ本の貸し借りにまで発展していた。最近では、互いに読んだ本の感想を語り合うのが昼休みの日課らしい。
交換日記ならぬ交換書評。
貴族令嬢の友情も、ずいぶん文化的な方向に進化したものだ。
「……それで、この本の結末がですね」
「うんうん」
「……言いませんわ。ご自分で読んでください」
「えー。そこまで話したなら、最後まで教えてくれたっていいじゃない」
「それでは、読む楽しみがなくなってしまいますもの」
「マーゴ、そういうところは意地悪だよね」
「パティにだけは言われたくありませんわ」
「えっ、わたし、意地悪したことあった?」
「……本気で仰っています?」
「うん」
「……もういいです」
マーゴが小さくため息をつく。
パティは不思議そうに首を傾げていた。
平和である。
少なくとも、今のところは。
「あの、ここ、いいですか?」
明るい声がした。
二人の会話が止まる。
見上げると、小柄な少女がベンチの横に立っていた。一年生の制服。少し癖のある髪。人懐っこい笑顔。相手の懐に入ることを、最初からためらっていない顔だった。
シムラー男爵家の三女。
入学式の日、校長がわざわざ名指しで紹介した三属性の持ち主。
アイリーン・シムラー。
(……来たか)
膝の上で、俺の耳が立った。
アイリーンはパティを見て、それからマーゴを見た。二人の顔を確かめるように、視線が一往復する。
ほんの一瞬のことだった。
だが、俺は見逃さなかった。
彼女は、空いている席を探しているのではない。
ここにいる二人を、確かめに来たのだ。
「ええ。どうぞ」
パティは顔を上げ、姿勢を正した。軽く会釈を添え、柔らかく微笑む。
完璧な対応だった。
家族や気の置けない友人を前にすると、途端に言葉遣いが崩れるこの子だが、それ以外の相手には、もう立派な公爵令嬢である。
日頃の練習の成果だろう。本人にその自覚がどこまであるかは、別の問題だが。
「ありがとう! あたし、アイリーン。アイリーン・シムラー。隣のクラスなの」
「パトリシア・テア・フィロパトールです。お初にお目にかかりますわ、アイリーン様」
「あ、様とかいいよ。学院では平等らしいし」
「ありがとうございます。ですが、学ぶ権利が平等であることと、相手への敬意を省いてよいことは、別だと思いますわ」
パティはにこやかに答えた。
声音は柔らかい。言葉も丁寧だ。
ただし、言っていることは、なかなかに手厳しい。
(……うまいな)
俺は感心した。
いつ覚えた、そんな貴族的技術。
しかも、相手を否定するのではなく、相手の主張を一度受け止めてから線を引いている。以前のパティなら、ここで困った顔をして黙り込んでいたかもしれない。
成長というものは、たまに飼い主の知らないところで進む。
「そっか。じゃあ、そういうことにしとくね!」
アイリーンはあっさりとうなずいた。
注意されたことを気にしている様子はない。むしろ、次の話題に移ることのほうが大事らしい。
「それでさ、あたしが三属性持ちだとか、奇跡だとかって、もう聞いた?」
「ええ。入学式で校長先生が紹介なさっていましたから」
「だよね。ああいうの、ちょっと恥ずかしいんだけど。マーゴだって二属性でしょ? すぐに三属性覚えれるよ」
「……え?」
マーゴの声が止まった。
いや、声だけではない。手元の本を押さえていた指まで止まっている。
それまで静かに微笑んでいた顔が、困惑に塗り替えられた。
「マ、マーゴ?」
パティが友人の顔を覗き込む。
アイリーンは、ようやく自分の失言に気づいたようだった。
「あれ? ごめん。あたし、まだマーゴに挨拶してなかったっけ?」
「……私、まだご挨拶をいただいておりませんが」
「あ、そっか。ごめんね。マーゴもイメージそのままだったから、つい」
その言葉に、今度は俺の耳がぴくりと動いた。
イメージそのまま。
初対面の相手に使う言葉ではない。少なくとも、普通は。
「アイリーン様」
マーゴの声が、先ほどより少しだけ硬くなった。
「申し訳ございませんが、マーゴという呼び方はご遠慮ください。言いたくはございませんが、身分差も考慮されたほうがよろしいかと」
「え? あー、そうだね。マー……」
「ご挨拶が遅れ、失礼いたしました。私、マーガレット・アン・ヴィアルバーグと申します。お見知りおきくださいませ」
「あ、そうそう、マーガレットね。よろしく――お願いしますわね」
最後だけ、妙にぎこちない。
礼儀作法を覚えたばかりの子供が、練習した言葉を思い出しながら口にしたような調子だった。
アイリーンは悪びれていない。注意されれば一応は受け入れるが、なぜ注意されたのかまでは、よく分かっていないらしい。
その無邪気さは、見方によっては美点だ。
ただし、貴族社会では、無邪気に踏んだ地雷も、踏んだ者の責任になる。
「失礼ですが、アイリーン様はシムラー男爵家の御息女ですわね」




