第四十話「先輩王子」
学院には、格付けがある。
『学院生は貴賤を問わず、全て平等に扱われる』と言う条文はあるが、誰もそれを信じている者はいない。
制服の襟に入った線を見れば学年が分かり、外套の刺繍を見れば家格が分かる。授業の成績や魔法の才能で評価されることもあるが、そうしたものは、最初から身分の分かっている相手を評価するための材料にすぎない場合もある。
そして、そんな建前を軽々と飛び越え、一目で身分が分かる存在がいた。
王族だ。
三年生の列の中央を、金糸の刺繍が施された外套が歩いていた。周囲の生徒たちは自然と道を開け、頭を下げ、目を合わせない。誰かが命じたわけでもないのに、そこだけ人の流れが変わっていた。
第三王子、レオナルド・チャクオール・アルカス・リトラリバー。十二歳。
「……殿下、おはようございます」
「うむ」
頷きの角度が、研究対象になるくらい洗練されていた。
あの頷きは、鏡の前で生まれた頷きだ。俺には分かる。完成度の高い動作というのは、練習の匂いがする。
と、格好をつけてはみたが、ぶっちゃけると、それを天井裏から見ていて、教えてくれた者がいたのだが。
(……三年生か。あの男も、学院生か)
王族といえど、十歳からは学院に通うのがこの国の慣わしらしい。
つまり、あの男はパティにとって先輩にあたる。
それは面倒なことでもあり、使いようによっては便利なことでもあった。
木曜日の午後は、上級生の剣術演習が公開されていた。
一年生の授業は、まだ基礎の素振りが中心だ。時間の都合がつけば上級生の演習を見学し、先輩たちの技を見て、目指すべき水準を知る。そういう趣旨らしい。
剣術場の見学席には、一年生がぎっしりと並んでいた。
パティの隣にはマーゴ。パティの膝には、俺。
「すごい……!」
演習は木剣を使った模擬戦だった。防具を身につけた三年生たちが順番に中央へ進み、互いの技を競っている。
打ち合う音が響くたび、見学席から小さな歓声が上がった。
その中に、金の刺繍があった。
「――次、レオナルド殿下と、フォルナー子爵家の長男」
「おお……」
見学席が、ざわついた。
王子の演習である。誰もが見る。誰もが、周囲の人間も見ていることを意識しながら見る。
レオは、颯爽と中央に進み出た。
剣の構えは美しかった。背筋は伸び、足の位置にも無駄がない。木剣を構える腕に余計な力は入っておらず、呼吸も安定している。
王族の基礎教育は伊達ではないらしい。
部活動の時間は、道場での練習より、校庭でソフトボールに興じていた弱小剣道部出身の俺でも、それくらいは分かる。
「はじめ!」
対戦が、始まった。
(……ほう)
結論から言えば、悪くない剣だった。
ただし、型が綺麗すぎる。
教本どおりに打ち、教本どおりに払い、教本どおりに踏み込む。どの動作にも無駄がなく、どこを切り取っても模範演技として通用しそうだった。
問題は、相手が教本どおりに動いてくれるとは限らないことだ。
フォルナー子爵家の長男が、ふいに後ろ足を引いた。
レオ殿下は、そこを追った。
相手の剣がわずかに下がる。打ち込みが来ると判断したのだろう。殿下は木剣を上げ、受けに備えた。
だが、相手は打ち込まなかった。
踏み込むと見せかけて、足を止めたのだ。
ほんの半歩。剣先が届くか届かないかの距離で、相手の動きが変わる。
レオ殿下の剣が、わずかに空を切った。
「あっ……!」
見学席のどこかで声が上がった。
殿下は体勢を立て直そうとしたが、相手はすでに懐へ入っていた。木剣が脇腹の防具を打ち、続けて足を払われる。
どん、と土の上に体が倒れた。
模擬戦は、そこで終わった。
見学席が静まり返る。
レオ殿下は、ゆっくりと起き上がった。服についた土を払い、外套を正し、木剣を持ち直す。
そして、笑った。
「……ふん。今のはわざとだ。相手の型を見極めるためにな」
(……即答か)
負け惜しみとしては、なかなかの反応速度だ。
しかも、顎を上げる角度まで完璧だった。失敗した直後に、これほど素早く王子らしい表情へ戻れるのは、ある意味で才能だろう。
見学席の空気が、少しずつ戻っていく。
「さすが殿下。相手の技を見極めておられたのか」
「なるほど、勉強になりますな」
上級生たちの、上質な忖度が始まった。
あれを本気で信じている者が何人いるのかは分からない。だが、少なくとも誰も、王子の失敗を笑わなかった。
レオ殿下は、胸を張って退場した。
ただし、俺は見ていた。
倒れた瞬間、殿下の目が一瞬だけ、見学席ではなく――もっと遠くを見たことを。誰もいない空を。何かを確かめるように。
(…………ああ)
分かる、その目は。「誰かが見ていなかったか」を確かめる目ではない。「見ていてほしい誰かが、見ていなかった」ことを確かめる目だ。
兄たちの背中を追いかけてきた、七人兄弟の真ん中の目。
王子として何を求められているかは、嫌というほど知っている。だから、失敗した姿を見せるわけにはいかない。
殿下は授業の最後まで背筋を伸ばしたまま、誰よりも早足で剣術場を出ていった。
その翌週、今度は魔術の公開実技があった。
俺は実技場の見学席、その一番後ろの棚の上に陣取っていた。猫の特等席である。人間の頭に邪魔されず、全体を見渡せる。日当たりが少し悪いのが難点だが、仕事場としては悪くない。
三年生たちが順番に魔法を披露していた。
火属性の生徒が放った紅蓮の槍が的を射抜き、見学者から歓声が上がる。水属性の生徒は水の膜を何重にも展開し、その強度を披露した。風属性の生徒が地面を滑るように移動すると、見学席から簡単の声が漏れた。
そして、レオ殿下の番が来た。
「第三王子、レオナルド・チャクオール・アルカス・リトラリバー殿下」
名前を呼ばれ、殿下が壇の中央へ進み出る。
周囲の視線が集まった。
殿下は両手を地面に近づけ、魔力を込めた。
――どすん。
地面から、岩の塊が盛り上がった。
高さは、せいぜい腰ほど。形は整っていたが、目立った動きはない。
土の塊ができた。以上。
「…………」
見学席の喝采は、控えめだった。
控えめというのは、優しさである。王族に対して許される範囲で、精いっぱい公平な評価をしようという、周囲の努力の結果だった。
だが、拍手の隙間から、別の声も聞こえてくる。
「……土、か」
「第一王子殿下は、火と風でいらしたのにな」
「第二王子殿下は光をお持ちだし……」
聞くなと思った。そんな声は、 拾うな、と。
だが、拾ってしまうのが獣の耳というものだ。
(……「土、か」か)
あの男の属性は、土。
この世界で、地味とされる属性のおそらく筆頭だ。
火は攻撃に向き、見た目も派手。光は神聖さや希少性と結びつきやすい。水や風にも、それぞれ分かりやすい長所がある。
土は、地に根ざす。動かない。目立たない。
……堅実という言葉は、裏を返せば「退屈」だ。
殿下は、拍手に応じて頷いた。
その仕草は、いつもどおり洗練されていた。
ただ、壇を降りる直前、彼は一度だけ、自分が作った岩の塊を振り返った。
それから、何事もなかったように歩き出した。
王宮のネズミ網の、あの報告を思い出した。
夜の書庫で、兄たちの属性の資料を、こっそり借りる王子。
(……あの男のナルシズムは、鎧だ)
薄いものほど大きく見せる。頼りないものほど誇示する。
穴の開いた場所ほど、上から金の刺繍で覆う。
鎧の下は、まだ十二歳だ。
実技の後の、昼休み。
中庭で事件は起きた。事件というほどのものではない。いつもの昼の風景だ。
「レオ。……あ、殿下。こんにちは」
ベンチのパティの前に、金糸の外套が現れた。殿下は、今日も胸を張っていた。実技の直後である。胸を張る必要があるのだろう。
「見ていたか、僕の実技を」
「見てたよ。……すごかったね」
「……ふむ。まあ、当然だ」
殿下は、顎を上げた。
いつもの角度だ。だが、今日の角度には、どこか、頼りなさがあった。
勝った日の角度ではなかった。
「土の術は、奥が深い。皆には分からんだろうがな。地を操る力は、実は――」
「あのね、パティ思ったんだけど」
パティが、言った。
「土って、いいよね」
「…………は?」
殿下の口が、止まった。
「だって、畑、豊かになるでしょ」
パティは、にこにこしながら、続けた。
「お父様が言ってたの。領地でいちばん大事なのはね、騎士でも、お城でもなくて、畑だって。畑があれば、みんなはごはんを食べられる。……レオの魔法、畑にすっごく向いてるよね」
「……………………」
「戦うだけが、魔法じゃないもん。……うちの国、麦、おいしいし」
中庭の空気が、止まった。
隣にいたマーゴも、どう反応すればよいか分からないらしい。パティの言葉を褒め言葉として受け取るべきか、それとも話題を変えるべきか。
真面目な彼女の頭の中では、貴族社会における適切な応答の候補が、猛烈な勢いで比較検討されているに違いない。
殿下は動かなかった。
長いこと、動かなかった。
「…………お、おい」
「なに」
「……今の、は。……その、……」
「ん?」
「……土を、……褒めたのか」
「うん。……土、いいよね」
(……来た)
俺は、膝の上でじっと見ていた。この瞬間のことを。
第三王子レオナルドは、生まれて十二年間、初めて、自分の属性を褒められた。
誰も、あの男の土を褒めなかった。
先生は型を褒めた。侍従はお姿を褒めた。兄たちは何も褒めなかった。
だが、誰も、あの土を見なかった。
畑が豊かになる。
みんながごはんを食べられる。
――属性を、属性として見るな。
それが何を、誰に、届けるかを見ろ。
それは、この五年この子が学んだものの全部だった。
「……………………ふ、ふん」
殿下は、顎を上げた。
いつもの角度だった。だが、その耳は、真っ赤だった。
「……ま、まあ、当然だ。僕の属性は、実は評価が高い。……知っている者は知っている」
「ふーん。よかったね」
「う、うむ」
殿下は、急に忙しそうに踵を返した。
「……僕は、忙しい。……ではな」
歩き去る背中は、いつもより少しだけ速かった。
逃げるような、それでいてどこか弾んだような。
(…………)
その背中を見送りながら、俺は思った。
第三王子。鎧の下は、まだ、十二歳。
……穴の開いた場所に、今日初めて、温かいものが入った。
この男は、今日の一言を、忘れない。それが正しく育てば、あの男の鎧は、いつか、要らなくなる。
……間違って育てば、あの場所はあの男の、いちばん脆い場所になる。
「テト。なに、じーっと見てるの」
「にゃあ」
(……いや。少し、未来の話を考えていた)
「ふーん。……ねえ、お昼のパンのおかわり取りにいく?」
「にゃ」
(行く。……まずは、今日のパンだ)
――その夜、学院の図書館。
ユリウス・フィロパトールは、閉館の時間まで地下の閲覧室にいた。
読んでいたのは、『王国史・第一巻』。
……読んでいたのではない。写していた。建国の頁を一文字も残さず。
写し終えて、帰路につこうと上階の空き教室の前を、通りかかった時だった。
扉が半分開いていた。
その奥から、声が聞こえた。
「――諸君。僕は、レオナルド・チャクオール・アルカス・リトラリバーである」
(…………)
ユリウスは、足を止めた。
止めてはいけなかったが……止めてしまった。
「僕の属性は、土。……大地の力だ。大地とは、即ち民の糧。……僕の力は、この国の食を支える」
(……………………)
「……これで、いける。……これで、いけるはずだ」
声は独り言だった。
自信に満ちているようで、その実、一行ごとに、自分に言い聞かせている声だった。
ユリウスは、静かにその場を離れた。
見なかったことにする。
これは、観察日誌には書かない。人道的配慮だ。
……だが、廊下の角を曲がるまで、彼の耳には、あの声が残っていた。
練習する、ということは、練習しなければ言えない言葉がある、ということだ。
(…………誰かと同じだ)
塔の中で一人で仮説を唱えていた、あの頃の自分と。




