第三十八話「届かない怪奇現象」
春。
フィロパトール公爵家の別邸の、朝食の席に、本日の主役がいた。
「……おいしい」
「あまりのんびりしていると、初日から遅刻しますわよ」
「だいじょうぶ。パティ、はやいもん」
「早起きできたのは、今朝が初めてですけれど」
「うっ」
アウレリアの指摘に、パティがむくれた。
入学式の朝である。
アルカランズ王立学院、王都本校。 十歳から十六歳までの貴族と豪商の子女が通う、この国で一番格式の高い学び舎。今日から、あの世間知らずが、あそこの一年生だ。
テーブルの端で、俺は食べ終えた銀の食器を前に、尻尾の先をパタパタ揺らしていた。
……送り出す側の、落ち着かなさというものを、俺は今日、初めて知った。
「テト。ねえ、ちゃんと食べてる?」
「にゃ」
「ふふ。いっしょに、いこうね」
(ああ。行くとも。……行くのだが)
俺の懸念は、朝食の味でも、制服の着こなしでもない。
学院という新しい環境で、俺の支援がどこまで通用するか。
それが、問題だった。
馬車で、半刻ほど。
アルカランズ王立学院王都本校は、王都の中央区の北に、小さな丘をまるごと使って建っていた。
白亜の正門。並木道。そして門をくぐった先に広がるのは――
(……でかい)
でかかった。
本棟に別棟、図書館の塔、礼拝堂、実技場、剣術場。広い中庭が二つに、噴水が三つ。
屋敷とは規模が違う。うちの屋敷ですら「でかい」と思っていたのに、ここは、屋敷を五つか六つ、並べたような敷地だった。
「すごい……! ねえテト、すごいよ!」
「にゃ」
パティは今日、紺の学院制服に身を包んでいる。襟には一年生の白い線。腰には、あの青いリボンを結び直したもの。
侍女の手には、俺専用のキャリーバッグ。改めて、人の目がない場所では、俺はパティの肩か腕の中だ。
同伴許可については、一言、添えておく必要がある。
本来、学院への動物の持ち込みは厳禁である。
それが許可されたのは、ひとえに、シモン・トト・ムダリス宮中伯の口利きによる。
例の、ふらふらしている老人だ。
「飼い主と離れると猫が夜泣きしてな、近隣の安眠に関わる。学び舎の平穏のため、連れてくるがよかろう」
――王宮への申請文に、そう書いたそうだ。
嘘ではない。一切、嘘ではない。実際、置いて行かれるつもりはないので、学院に忍び込む事になる。そのままずっと隠れていられる訳もなく、その内パティや他の生徒が気づく。気づけば騒ぎになる。つまりこれは、学院の平穏のための、適正手続きである。
(……老人とは、便利な存在だ。将来の参考にしたい)
正門から式典の大講堂へ向かう列の中で、俺は周囲を見回した。
新入生。百二十名ほど。
高位貴族の子供は分かりやすい。立ち方が違う。周囲を見渡す目にも、余裕がある。
それ以外の子供たちは、緊張の仕方が違った。
自分の家の名前がどこまで通用するのか。誰に話しかければいいのか。どこに立てば邪魔にならないのか。
人間は、初めての場所に来ると、まず自分の居場所を探す。
……猫も似たようなものだ。
「パトリシア様!」
声に振り返ると、栗色の髪を完璧な三つ編みにした少女が、こちらへ駆け寄ってきた。
「マーゴ!」
「ご入学、おめでとうございます。……これから六年間、どうぞよろしくお願いいたしますわ」
「うん! よろしくね!」
マーガレット・アン・ヴィアルバーグ。愛称マーゴ。
二年にわたる文通を経て、二人の間には、もはやよそよそしい遠慮はない。
ただし、マーゴの口調だけは、頑なに礼儀を守っていた。
「クラス分け、もうご覧になりまして?」
「まだ!」
「……まあ。では、一緒に見に行きましょう」
「うん!」
行ってしまった。行列を抜けて、二人で掲示板へ。
……ああいうところだ、この飼い主は。
初日の掲示板前は、各校の常として、密度の高い人混みである。お行儀のいい子ほど行列を守る。つまり、うちの子は……守らない。
(……まあ、いい。マーゴがいる。あの子がいれば、物理的な安全は担保される)
侍女に運ばれるまま、俺は列に残った。
そして、頭の中で今日の予定を組み直す。
――さて。
問題の本題に入ろう。
式典は、長かった。
校長の挨拶。教頭の挨拶。学院自治会の挨拶。
挨拶とは長いものだという形式は、この世界も同じらしい。
新入生たちの背筋が、開始十五分で徐々に緩んでいく様は、前世の入社式を思わせた。
パティは、三分で船を漕ぎ始めた。
隣のマーゴが小突いている。五分に一回、実に規則正しい。
式典の終盤、校長の言葉に、一つだけ耳に残るものがあった。
「――本年は、特別な新入生をお迎えしております。シムラー男爵家のアイリーン様。……史上稀なる、三属性の適性を持つお方です」
ざわめきが、起きた。
壇上の、新入生代表の列の端のほう。
小柄な、明るい顔の少女が、少しだけ照れくさそうに頭を下げていた。
(……あれか)
噂の男爵家の三女。
ガラスペンのカレー少女。
昨日までの俺なら、あの姿を見て、こう思っただろう。――転生者候補、要注意人物。
だが、式典の間、俺はずっと別の問題を考えていた。
(……届かない)
式典が終わり、新入生たちが各教室へ案内される。
その流れを見ながら、俺は学院の構造を頭の中で整理した。
一年生の教室は本棟の二階。
魔術の実技場は別棟の地下。剣術場は敷地の東端。昼食の食堂は中庭を挟んだ向かい側。
そして、猫は教室には入れても、実技場の管理棟には入れない。
つまり、パティが実技場にいる間、俺は別の場所で待機することになる。
距離は、直線で約三百メートル。遮蔽物、多数。
転移には、基本的に目視が必要だ。見えない場所へ飛ぶのは、位置関係を誤る危険がある。
(……怪奇現象が、届かない)
パティが幼い頃から、俺の支援システムは屋敷の構造に最適化されていた。
廊下。教室。大樹の下。どこへ行っても、見えない手は届いた。
だが、ここは違う。
ここでは、俺の手が届かない場所で、パティの一日の大半が過ぎる。
(……なるほど。これが、学院か)
今まで築いてきたものが、通用しない土地。
つまりここは、言い換えれば――
物語の、本番の舞台だ。
俺の読んだ、あのラノベでもそうだった。
悪役令嬢の断罪は、決まって、学園の、誰かの目の届くようで届かない場所で起きる。
屋敷には網があった。だが学院には――まだ何もない。
(……網を、張り直さなきゃな)
新しい土地には、新しい網が要る。
学院の鼠。学院の鳥。学院の猫。
――土地の掟は、土地の連中が知っている。




