第三十七話「九歳の冬」
その冬、フィロパトール公爵家では、一つの「試験」が行われた。
トライ先生による、三年間の総まとめ。国語、算数、歴史、地理、宮廷儀礼の五科目。いわば、家庭教師時代の卒業試験である。
「制限時間は九十分。……始めてください」
「…………うん」
パティは机に向かい、答案用紙を見つめた。
九歳になった背筋は、三年前とは別物だ。きちんと伸びているし、椅子の上でそわそわすることもない。
窓際のクッションでは、俺が見守っていた。
怪奇現象は、本日、非番である。
試験に演出は持ち込まない。椅子も動かさない。羽ペンも浮かばない。蜂蜜も増やさない。
採点は実力で。それが品質管理の矜持というものだ。
試験開始から十五分。
パティの羽ペンが止まった。
歴史の応用問題。王朝の系譜をたどり、年表から答えを導き出す難問だった。
ペンを持つ手が宙で止まり、パティはしばらく問題文を見つめていたが、やがて、ちらりと窓際を見た。
(……おいおい。期待するな。今日の俺は、ただの猫だ)
俺は目を細めただけだった。
パティはもう一度、問題に目を戻した。
考えている。
少し眉を寄せ、年表を指で追い、問題文を読み直す。それから、ようやくペンを動かした。
書いて、消して、また考える。
今度は窓を見なかった。
(……よし)
それ以上の感想は出てこなかった。
いつか、椅子が動かない日が来る。怪奇現象が起きない日が来る。誰も答えを教えてくれなくても、自分で考えて、自分で答えを出す日が来る。
そのための今日だ。
九十分後、トライ先生が静かに告げた。
「……終了です」
結果が出たのは、三日後だった。
「――ご報告いたします」
小広間に、家族が集められた。ロムルス、アウレリア、アウグスト、ユリウス。そして、居ずまいを正すパティ。
俺は定位置。テーブルの下。
「今回の総合試験、パトリシア様の得点は……」
トライ先生は答案を両手に、一度だけ目を閉じた。
この三年、この先生は戦ってきた。
十分で逃げ出す子供と。怪奇現象と。蜂蜜と。
「……この家の、歴代の記録を塗り替えました。アウグスト様の、ユリウス様の幼年の記録をも上回る、公爵家史上最高の得点です」
静寂。
「…………」
ロムルスが、ゆっくりと胸を張った。
「ふむ」
深いほうの、いちばん深いやつだった。地の底から湧き上がるような、当主の喜びの音だ。
「よく、やった」
「……うん」
「よく、やった、パティ」
「……うん!」
パティの顔が、ぱっと輝いた。
アウレリアが、目元を押さえていた。アウグストは無言のまま、懐の手帳に何かを書き込んでいた。贈答記録ではない。あれは記念の記帳だ。
そしてユリウスは、複雑な顔をしていた。
「……僕の記録を、抜いたのか、パティが」
「ユリにーにの記録、あんまり残ってないもん。塔に、こもったもん」
「……それは、そうだが」
「でもね」
パティは、えへんと胸を張って、言った。
「パティががんばったのはね、怪奇現象が怖いから、なの」
「……は?」
「勉強しないと、怒るから。……あと、がんばると、おやつが美味しくなるし」
「…………」
家族が、一斉に、意味を飲み込めない顔をした。
ただ一人、ユリウスだけが、盛大に噎せていた。
(……知ってるやつの反応だ、それは)
「ぶっ……ごほ、ごほ……な、なんでも、ない……」
その夜、俺はパティの枕元で、三年間を振り返っていた。
(サボり癖さえ直れば、素材は悪くない)
……いや。三年前、俺はこいつをそう評価した。
素質はある。加工がひどい。
だが、今は少し違う。
(……加工は、もういいか)
俺がやったのは、勉強する環境を整え、必要なときに背中を押したことくらいだ。
考えたのも、悩んだのも、努力したのも、パティ自身だった。
(……お前は、自分で育ったんだな)
蜂蜜も怪奇現象も、もう補助線だ。
引いてやった補助線は、いつか消す日が来る。それが教育という仕事の完成形なのだろう。
……まあ、蜂蜜については、今後も必要に応じて支給する予定だが。
三年間の成果を、順に確認しておこう。
まず、剣。
ケンド副団長から届く月例報告は、今や「受け身」と「持久」の項目が中心になった。騎士団の見習いとの模擬試合でも、少しずつ勝ち星を拾い始めている。
副団長の評価は、「華やかさはないが、折れない剣」。
……折れない剣か。
悪くない。いや、最高の評価だ。
次に、魔術。
シモン老人の教えは、相変わらず型が中心だ。しかし、パティの闇属性魔術は、静かに精度を上げている。
発動のきっかけは、指パッチンに落ち着いた。
ただし、指が鳴らない。
鳴らないので、「鳴らすつもり」の仕草が儀式になっている。
シモン老人いわく、「音が出ずとも、仕草が儀式なら、それでよい」。
型を重んじる人間の言うことは違う。
次は、文通。
マーゴとの週一の往復は、今も続いている。マーゴの手紙は長く、文章は正確で、末尾には必ず「ご家族のみなさまはお元気ですか」と添えられていた。
……その一文の中に、ときどき「お兄様」という言葉が、さりげなく混入している。
パティは気づいていない。
気づかないでいい。まだ。
そして、レオ。
書簡は週一で届き、週一で塩対応されている。
ただし、パティは返事を欠かさない。それが、この子なりの誠意なのだろう。
直近の書簡には、こうあった。
『学院では先輩として、僕がお前を導いてやる』
それに対する返事は、『学院、たのしみ。勉強、がんばるね』
の、一行。
……導く気満々の男に、勉強の話で返す。
意図せず、刺している。
アウグストの収支帳は『贈答記録・続々』に突入した。
ユリウスの観察日誌は、七冊目。
どちらも、順調に増えている。
順調でないものもある。
ベルタの行方は、いまだ情報網の外だった。尾行の先は王都北の侯爵家の方角で途切れ、その後の足取りはつかめていない。
あの一件は終わった。だが、あの女を動かした影までは、まだ見えていない。
そして、俺自身。
転移の精度は上がり、収納の容量も増えた。書庫の片隅で見つけた古い闇の術書も、翻訳がようやく半分を越えたところだ。
急ぐ必要はない。
ゆっくりでいい。急がず、休まず。
……前世では、その方針を実践する機会がなかったのだが。
入学許可証が届いたのは、雪の日だった。
「アルカランズ王立学院王都本校・本科――入学許可証」
羊皮紙の、重い押印。
パティは、その一枚を、両手で抱えて、目を輝かせていた。
「入学証……! ねえ、テト、学院って、たのしそう!」
「にゃ」
「マーゴも、いっしょ! お友達、いっぱいできるかな。……剣の部活もあるかな。プリン、あるかな」
「にゃあ」
枕元で、じゃれつく飼い主を、俺は温かい目で見ていた。
だが。
(……学院か)
物語は、だいたい学園から動き出す。
そして、悪役令嬢の断罪イベントも、だいたい学院にある。
この三年間、積み上げてきたものは本物だ。パティは成長した。家族との距離も、少しずつ縮まった。
それでも、学院には俺の目が届かない時間がある。
教室。試験。廊下。新しい友人。知らない教師。
怪奇現象の届かない場所が、必ず生まれる。
いつかパティは気づくだろう。
あの怪奇現象は、彼女を脅すためのものではなかった。見張るためだけのものでもなかった。
見守るためのものだったのだ、と。
その日が来るのは、遅いほうがいい。
……いや。
(……その日が来ても、いいか)
パティはもう、自分の足で立てる。
不安と、確かな手応え。その両方を胸の奥にしまい、俺は鳴いた。
「にゃ」
(行くぞ、飼い主)
「テトも、いっしょ!」
「にゃあ」
(当たり前だ。お前の四年分は、俺の四年分だ)
窓の外では、雪が、大樹に降り積もっていた。
あの命名の日と、同じ白さだった。 三年前、あの雪の日に、俺は名前をもらった。
三年。世界は、少しずつ、良くなっている。
この雪が溶ける頃。
――物語が、動き出す。
「テト。ねえ、テト」
「にゃ?」
「学院でも、いっしょに、お昼ね、しようね」
「……にゃ」
(……ああ。それが、何よりの、励みだ)
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“パティの入学が、決まった。
……僕も、行く。
正規の学籍は、もう、年齢的にない。だが、方法はある。図書館の閲覧許可を、兄上経由で父上に頼む。……頼むのは、癪だ。だが、学院の図書館は王都一の蔵書だという。
楽しみで仕方がないのは、観察のためだ。
浮かれてなど、いない。
なお、本日の総合試験の結果、パティは僕の記録を上回った。
……誇らしい。
そう書くと日誌が日誌でなくなるので書くまいと思ったが、書いた。消すのも癪なので、そのままにする。
追記:僕の研究は、ここ数年、壁にぶつかっている。
『相反属性は両立しない』――あの常識の壁だ。
だが、最近、思う。
壁は、壊すものではない。
……そこに壁があると、思い込んでいたのは、僕のほうかもしれない。
あの猫に、そう教えられた気がする。……気がするだけだ”
第二章終了です。
ベルタさんも退場しましたね。
次、間話をひとつ挟んで、
第三章「王立学院に猫は潜む」開幕です。
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