第三十六話「ひとつの終わり」
翌朝、書斎。
並んだのは、ロムルス、アウレリア、アウグスト。記録係のセバス。
テーブルの中央に、あの空箱。
「……王宮の収納記録と、照合しました」
セバスの報告は、静かだった。
「献上された品は、正規のもの。細工の宝箱、王宮の宝物庫に、昨日、正式に収められております」
「ならば、これは」
ロムルスが、空箱を見た。
「複製、でございます」
「…………」
「我が家の紋の彫り、内張りの寸法、留め金の型。……すべて、献上品の箱と同一。これほどのものを作れる細工師は、王都に五人ほど。……そして、そのうちの誰もが、公爵家の紋を、正当な依頼なしに彫ることは、ございません」
書斎の空気が、重くなった。
「つまり」
アウグストが、ゆっくりと言った。
「誰かが、献上品の箱の複製を用意していた。……複製の用途は一つしかない」
「……すり替え、だな」
ロムルスの声は、低い。
「夜会の当日。箱は、屋敷を出て、荷馬車で運ばれ、王宮の保管庫に納められた。……その間のどこかで、入れ替えるつもりだった」
「だが、実際には、正規の品が献上された」
アウレリアが言った。
「すり替えは、失敗した。……あるいは、何者かに、阻まれた」
「……何者かに」
ロムルスは、眉を寄せた。
「そこが、分からん。……阻止した者がいるなら、その者はなぜ名乗り出ない。そして、この箱は、なぜ我が家の物置に。しかも、これ見よがしに」
誰も、答えなかった。
(……そこは、永遠に、答えなくていい)
天井裏で、俺は見守っていた。
謎は、謎のままでいい。必要なのは、事実だ。
――企みが、あった。そして、王家への企てだった。この二点だけで、十分である。
「これは、家内の問題ではない」
ロムルスが、宣言した。
「王家に対する何らかの企てに、我が家の名が使われようとした。……大事件だ。……セバス」
「はい」
「当日、箱に関わった者すべて。……丁重に、しかし、抜かりなく」
「畏まりました」
取り調べは、その日の午後に始まった。
梱包した者。運んだ者。扉の番をした者。
セバスの聴取は、速く、静かで、正確だった。三十年の執事は、嘘の響きを、足音で聞き分ける。
そして、夕方。
馬車の洗い場に、いないはずの男の名前が、浮かんだ。
「御者の助手。……本日、洗い場の当番です」
「……昨夜の当番では、なかったな」
「はい。ですが、今朝、自ら申し出て、洗い場に。……いつもより、長く」
(……長く、洗っていた。……隠し板の中を、確認する時間が、欲しかったんだろう)
洗い場の陰で、俺は耳を立てた。
男を囲むのは、セバスと、騎士が二名。
逃げ場は、ない。
「……少し、話を聞かせてもらおうか」
「な、なんでしょうか。……私は、何も」
「まだ、何も、訊いていない」
「…………っ」
若い男の顔が、強張った。知らない。関係ない。シラを切る――そういう顔だった。
セバスは、静かに、問いを重ねていく。
夜会の朝、どこにいた。荷を積む時、どこにいた。保管庫への道を、知っているか。
男は、答えた。知らない。知らない。知らない。
(……ここだ)
俺は、洗い場の柵の陰から、尻尾を立てた。
――ごんっ!!
厩の前で若い牝馬が、勢いよく後ろ足を蹴り上げた。
荷台の底が鳴った。
隠し板が弾けて外れた。
ころん、と。
板の下の空間から、転がり出たのは――
黒い、花冠だった。
闇に沈むような、黒に近い紫の花で編まれた、小さな冠。
白いリボンの結び目が、夕日に、くっきりと浮いていた。
「…………」
洗い場が、静まり返った。
セバスは、屈んで、それを拾い上げた。花冠を、掌に載せ、じっと、見る。
「……馬車の荷台に、隠し底があったのか」
呟きは、男に向けられていた。
男の顔は、もう、真っ青だった。
「……う、馬が、……馬が、勝手に……」
「ええ。馬が、教えてくれました」
セバスは、静かに言った。
「……馬は、正直です。……あなたも、正直に、なりなさい」
男の膝が、崩れた。
――あとは、早かった。
頭巾の女。夜会の朝の、箱の受け渡し。「見なかったことにすれば、これは貴方のもの」という言葉と、金貨。 自分は、入れ替えただけだ。中身は、知らなかった。本当に、知らなかった――
そして、セバスが、花冠のリボンを、指で撫でていた。
何かを確かめるように。
セバスは、花冠を恭しく布に包んだ。
その目は、静かだった。
疑念も驚きもない目だった。
書斎に、すべてが並べられた夜。
空の複製箱。黒い花冠。助手の自供。
そして、アウレリアが、最後の一つを置いた。
旧帳面の、一冊。
「……五年分の帳面は、革の紐で束ねてあるの」
静かな声だった。
「その紐の結び方が、これと、同じ。……私は、一年間、毎夜、その結び目を、解いてきた。……間違いようが、ないわ」
「同じ結び方をする者が、ほかにもいる可能性は?」
ロムルスが尋ねた。
「もちろん、あるでしょう」
アウレリアは即答した。
「だから、結び目だけでベルタが関わったと決めつけるつもりはありません」
彼女は帳面を開いた。
「ただ、こちらも見過ごせないの」
ページには、パトリシアについての記録が並んでいる。
食事を残した。
礼儀作法を注意された。
使用人に口を出した。
衣装を汚した。
予定を守らなかった。
どれも、事実ではある。
だが、良いことをした記録はほとんどない。
誰かに親切にしたことも。
家族を喜ばせようとしたことも。
失敗したあとに、どう振る舞ったかも。
ほとんど記されていなかった。
「ベルタは、パトリシアを見ていたのではないのかもしれない」
アウレリアは、ゆっくりとページを閉じた。
「自分が悪いと思ったパトリシアだけを、見ていたのかもしれないわ」
「だが今回の事件に、パトリシアをどう絡める?」
「まさか! パティの仕業に見せるつもりだったのでは!」
アウグストが身を乗り出す。
「そこまで考えての事では無いと、思いますわ。ベルタはあれで真っ直ぐですから。どこかで何かが……」
さらに、ベルタの私室を調べた者の報告が続いた。棚の奥から、数枚の黒い花びらが出た。
「……出来すぎては、いないか」
ロムルスが、一度だけ言った。
「――父上」
アウグストが、答えた。
「出来すぎているのではなく、積みすぎているのです。……帳面の結び目は、私物棚の花は、誰にも、仕込めない。……これは、偶然の集まりではなく、習慣の集まりです」
書斎が、静まった。
「……よかろう」
ロムルスは、ゆっくりと目を閉じた。
「明日の朝、ベルタを応接間に」
翌朝。
ベルタは、定刻に現れた。
洗濯部屋の仕事着のまま。背筋は伸び、髪は整っていた。
だが、その目の奥には、疲れがあった。
昨夜、ベッドの下の箱が消えたことに、あの女は、気づいている。気づいて、一夜、眠れずにいただろう。
そして、応接間のテーブルの上に、それを見た。
――ベッドの下にあったはずの、箱を。
(……ご覧の通りだ)
柱の陰から、俺は見ていた。
(あんたの部屋にも、入れる。あんたの帳面にも届く。あんたの三年分にも。――見ている、というのは、こういうことだ)
「お呼びでしょうか、奥様」
それでも、ベルタの声は澄んでいた。
この女の強さは、本物だった。だから、タチが悪い。
「ベルタ。……座りなさい」
「いえ。立ったままで」
アウレリアは、無理には勧めなかった。
テーブルの上のものを、一つずつ指した。
複製の箱。花冠。自供の写し。私室の花。
「言い訳は?」
「…………」
長い、沈黙。
それから、ベルタは、静かに、言った。
「……私は、この家を、正そうとしただけです」
逃げなかった。認めもしなかった。
ただ、そう、言った。
「闇のお嬢様が、お生まれになってから、この家は緩んだ。当主は甘く、嫡男様もユリウス様も甘く、奥様は……優しすぎる。……誰かが、正さなければならなかった。……この家の誇りのために」
「王家への呪詛が、誇りのためですか」
「…………」
初めて、ベルタの言葉が、詰まった。
そう。あの女の帳面の中では、あの花は、たぶん、「呪詛」ではない。「目覚めさせるための、警鐘」だ。あの女の中の翻訳では、そうなっている。
だが、外の世界では、あれはただの反逆だ。
「ベルタ。あなたを、解雇します。屋敷からは、明日、出ていきなさい」
「…………」
「当主の計らいで、訴追はしません。……これは、情けではないわ。この家の名のためよ」
「……ご仁慈に、感謝いたします」
「一つだけ、聞かせて」
アウレリアは、最後に訊いた。
「ベルタ。……誰に、頼まれたの」
ベルタは、黙っていた。長く黙っていた。
その顔は、追い詰められた者の顔ではなかった。
――何かを、誰かを信じている者の、顔だった。
「……誰にも」
「……そう」
「私は、正しかった、と思っております。闇は正さねばなりません」
(…………)
焚きつけた言葉が、そこにあった。
誰かが、この女に言ったのだろう。お前は正しい。お前がやらなければならない。
その言葉が、ベルタの中で、正義の形をした刃になった。
「……出ていきなさい」
ベルタは、最後まで姿勢を正したまま応接間を出た。
だが、玄関を出て、門をくぐる時――
あの女は、一度だけ振り返り、屋敷の窓を一つずつ見上げた。
まるで、どこかの窓の奥から、見ている何かを、探すように。
足は、止まらなかった。
歩幅も、正確だった。
だが、あの女が振り返ったのは、三年間で初めてだった。
その夜。
パティの部屋の扉が、ノックされた。
「おかあさま?」
「……少し、いいかしら」
アウレリアが、入ってきた。
いつもより、少しだけ、疲れた顔だった。
パティは、何も訊かなかった。
それから、立ち上がって、部屋の小さな茶器に、おずおずと手を伸ばした。
「……お茶、いれる」
「……あら」
「トライせんせに、教わったの。……まだ、うまくないけど」
淹れられた茶は、少しだけ、色が薄かった。
だが、アウレリアは、その一杯を、両手で受け取った。
「……おいしいわ」
「ほんと?」
「ええ」
二人は、少しの間、並んでお茶を飲んだ。
やがて、パティがぽつりと言った。
「……おかあさま、だいじょうぶ?」
「……ええ。あなたが、いるから」
「うん。パティ、いる」
「……ええ。いるわね」
アウレリアは、ほんの少しだけ、笑った。
枕元で、俺は、ゆっくりと瞬きをした。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
ではない。
今夜は、日誌の体裁を取らない。これは、僕の私的な記録だ。
ベルタ氏が、屋敷を去った。
馬が、荷台を蹴って、隠し底から、黒い花冠が転がり出たという。
……馬が。
荷台を。
蹴って。
書いていて、筆が止まった。あの牝馬、以前、テトの肉球に鼻を押しつけられて、喜んでいた馬だ。
……言うまい。言うと、負けな気がする。
僕は、あの人の報告書を、一度だけ見たことがある。字が、とても綺麗だった。
綺麗な字で書かれた間違いは、一番質が悪い。
僕は、ずっと、記録とは正確なものだと思っていた。
だが、あの帳面は正確だった。正確なのに間違っていた。
……記録とは、何を書くかではない。何を、書かないか、だ。
僕のこの日誌も、同じかもしれない。
書いていないことが、多すぎる。
パティが、今夜、お茶を淹れたそうだ。
……僕には、淹れてくれなかった。
それは、書くべきことだっただろうか。
テト。お前は、今夜も寝ていないだろう。
僕も、寝ない。
――今日の日誌は、これで終わりにする。




