第三十五話「暗躍する黒い猫」
夜会の翌朝、フィロパトール公爵邸は、平和だった。
「それでね、レオったら、プリンを半分こするの、知らなかったの」
「ふむ」
「王宮って、半分こも、できないのかなあ」
「……ふむ」
朝食の席。パティは昨夜の報告に余念がなく、ロムルスは浅いほうの「ふむ」を連発し、アウレリアは苦笑し、アウグストは「半分こ」という単語を脳内にメモしている顔だった。
「あとね、テトったら、帰りの馬車で、ぐっすり寝ちゃって。……おつかれだったんだね、いっぱい遊んで」
「にゃ」
(……寝ていない。あれは、潜入と転移と奪還の疲労だ。遊びではない)
とはいえ、膝の上は温かかった。
この家の朝が、何も知らないまま、平和であること。
――それが、昨夜の俺の成果だ。
(だが……これで終わり、とは、いかない)
平和とは、守った結果ではない。守り切った事実を、守られた側が知らない状態のことだ。
それは、裏返せば、危うい。
知らない家は、備えない。備えない家は、同じ手口で二度、やられる。
今回は防げた。だが、防いだことは、俺と、犯人だけが知っている。
この家の人間が「何もなかった朝」を過ごしている間にも、次の一手を準備しているかもしれない。
(……だから、知らせる)
俺の仕事は、防ぐだけで終わりじゃない。次は、この家に、「企みがあった」という事実を届けることだ。
防波堤は、俺が築く。だが、見張り台には、人間が立たなければいけない。
――あのベルタ降格の夜に学んだ、抗体の理屈だ。猫が運んだ真相は、猫の手柄で終わる。人間が自分の手で見つけた真相だけが、この家の血肉になる。
今回の届け物は、三つ。
一、すり替えの企みが、あったという事実。
二、その中身が、黒い花――王家への呪詛だったという事実。
三、それに、あの女が関わっていたという事実。
(……運ぶのは俺だが、見つけるのは、あの人たちだ)
荷物の仕分けは、済んでいる。あとは、配達の手順だけだ。
***
――同じ頃。
馬車の洗い場で、御者の助手の手が、止まっていた。
若い男の名は、ここでは伏せておく。彼は、この物語の中では、哀れな部品でしかないからだ。
彼には、任務があった。
夜会の終了後、荷台の隠し板の中から「本物の箱」を回収し、決められた場所に運ぶ。それだけだった。それだけのはずだった。
隠し板を、開けた。
――そこにあったのは、空っぽの箱だった。
「…………え?」
見覚えがあった。この箱は、あの頭巾の女から渡された、黒い花の入った箱。昨夜、自分が保管庫で本物と入れ替えた、あの箱だった。
入れ替えたはずの箱が、ここにある。……ということは、ここにあるはずの本物は――保管庫から、出て行った。
本物は、献上された。
あの箱は、空だ。……空? 花は? 黒い花冠は、どこへ?
「……う、そ」
若い男は、隠し板の中を、何度も、何度も、撫でた。
何もない。埃だけが、ついていた。
昨夜、自分が見張っていた間に、誰かが、この馬車に手を入れた。
花を抜き、本物を戻し、空箱を、ここに置いていった。
――気づかれていた。
全部、知っている誰かがいる。
男は、震える手で隠し板を戻した。
そして、決められた場所へ、空箱を抱えて急いだ。
報告しなければ。恐ろしいことになったと、報告しなければ。
彼は気づかなかった。
洗い場の梁の上から、小さな鼠の目が、その一部始終を、見ていたことに。
***
――その夜。干し場の裏。
ベルタは、目の前の箱を見ていた。
小さな部屋。洗濯部屋に通された元侍女頭の私室。蝋燭の灯りが、一つ。 机の上に、見知った箱が載っていた。
彼女が、用意した箱だった。
公爵家の紋を彫らせ、内張りまで、献上品の箱と寸分違わぬものを。――そう。あれは、彼女の作品だった。細部まで几帳面に整えた作品だった。
その箱が、空っぽで帰ってきた。
「…………」
ベルタは、静かに計算していた。
すり替えは行われた。
助手の報告は確かだった。保管庫で、本物と入れ替えた。本物は隠し底に。
そこまでは、計画通り。
なのに。
隠し底から出てきたのは、この空の箱。
花が、ない。
編み上げた黒い花冠が、消えている。
そして、献上は、滞りなく行われた。王宮から、何の沙汰もない。フィロパトール家からは、何の動きもない。今朝の公爵邸は、平穏だったという。
――ありえない。
花が箱に入ったままなら、献上の席で開かれ、大事件になっていた。
花が抜かれ、本物が戻されていた、ということは。
誰かが、保管庫の中に入った。
誰かが、箱の中身を見た。
誰かが、隠し底の場所を知っていた。
誰かが、そのすべてを、昨夜のうちに元に戻した。
(誰)
答えは、出ない。出ないことが、怖かった。
ベルタは、この三年見てきた。 届くはずの贈り物が、届いてしまう日々を。割れた花瓶の隣で、猫が転がる日々を。
そして、あの廊下の、棚の上の、夕日を背にした黒い目を。
(……まさか)
その考えを、ベルタは振り払った。
猫だ。猫に過ぎない。そう自分に言い聞かせてきた。
だが今夜、空の箱は、言い聞かせの効かない場所に座っていた。
ベルタは、箱をベッドの下に押し込んだ。 そして、吹き消す前の蝋燭の灯りの中で、長いこと、部屋の隅々を見回した。
窓の外の、闇を。
闇の中に、何かがいるような気がして、ならなかった。
***
同じ夜、深夜。
俺は、ベルタの部屋の天井裏にいた。
(……随分と長いこと、窓の外を気にしていたな)
お疲れ様である。監視される側の気持ちが、少しは分かったか。
……いや、分かっていないだろう。この女は、まだ、「見ている何か」に名前をつけられていない。
箱は、ベッドの下。
見えない手を、そっと伸ばす。
(失敬する)
ぽすん。
箱は、闇に消えて、俺の収納に収まった。
――配達経路、逆走完了。
さあ、ここからが、今夜の本業だ。仕分けた荷物を、それぞれの、宛先へ。
まず、箱の方。行き先は、馬車置き場の奥の物置。すり替えに関わった場所の隣に置くのが一番自然だ。
人間は「発見された場所」から、物語を組み立てる。ならば、正しい物語が組み立てられる場所に置いてやる。
次に、花冠の方。行き先は、あの荷馬車の隠し底。
そう。本来、すり替えの片棒を担いだ場所だ。証拠は犯行の舞台に置くのが一番雄弁である。
最後に。
『――おい、嬢ちゃんたち。頼みがある』
厩の前。三頭の若い牝馬が、揃って鼻を寄せてきた。
『にくきゅう?』
『にくきゅうですか!』
『今日はにくきゅう!?』
『……違う。仕事だ。あの四頭立ての荷馬車、知ってるな』
『ええ』
『明日か明後日、人間たちが、あの馬車を囲む日が来る。囲んだらでいい。後ろ足で、荷台の下を一回蹴ってくれ。強く。隠し板が、外れるくらいに』
『……え? 荷車、蹴るの?』
『怒られない?』
『大丈夫だ。お前たちは、ただの、じゃれた馬になる。……合図は俺の尻尾だ。尻尾が立ったら』
『りょーかい!』
『楽しそう!』
『にくきゅうは後で!』
(……よし。配達員は、揃った)
あとは、最初の届け先。
一番、難しい宛先だ。
――アウレリアの、目。
夜更け。公爵夫人の部屋。
アウレリアは、灯りの下で、帳面を読んでいた。
あの五年分の旧帳面。月例の茶の香りと一緒に、これはもう、あの人の夜の日課だった。
扉が、かすかに鳴った。
「…………?」
顔を上げたアウレリアの目に、飛び込んできたのは、扉の隙間から、するりと入ってくる、黒い影――俺だった。
「……テト?」
驚いた顔をしていた。無理もない。
俺はこの部屋に、パティと一緒でなければ入ったことがない。猫には、縄張りの地図というものがある。人間は、それをよく見ている。
「パトリシアは、もう眠ったのよ。……あなた、どうしたの」
「にゃあ」
俺は、開かれた帳面の上に座った。
「……まあ」
アウレリアが、苦笑して俺を抱き上げようと手を伸ばした。
――その手が触れる前に、俺はするりと床に降りて、アウレリアを、見上げた。
「にゃあ」
「……?」
そして、尻尾を立てて、扉の方へ歩いた。
扉の隙間の前で、振り返る。――待つ。
「…………ついて来い、ってこと?」
(正解だ。……夜遅くにすまない。だが、今夜でなければならない)
猫についてくる人間。これが成立するのは、あの菓子の配達の時に、一度証明済みだ。
人間は、猫の「おいで」になぜか従う。
アウレリアは、ショールを羽織って、ついてきた。
夜の廊下。灯りは、手の中の燭台だけ。
「……どこへ行くの」
「にゃ」
階段を降り、通用口を抜け、夜の庭を横切る。
空気は冷たい。月は、細い。
馬車置き場の、奥。
物置の、扉の前で、俺は止まった。
前足で、扉を、とん、とん、と叩く。
「……ここを、開けろ、と?」
「にゃあ」
アウレリアは、燭台を掲げて扉を開けた。
――すぐ目につくところに、箱があった。
「…………これは」
燭台の灯りの中で、公爵家の紋章が、鈍く光った。
アウレリアの手が、止まった。
あの人は、知っている。献上品の箱を、知っている。梱包の記録にも、目を通している。
そして、あの箱は、昨夜、王宮に納められた。……はずだ。
ならば、これは、何だ。
「…………セバスを、呼ばなくては」
アウレリアの声は、低かった。
猫を連れてきた時の、少し困った声とは、もう、別人の声だった。
(……よし。第一の荷物、配達完了)
あとは、人間の手で。
この家の、記録と、目と、推理で。




