第三十四話「夜会の裏側」
まず、現状を整理した。
王宮の廊下の影で、俺は呼吸を整えた。
一、献上品保管庫は、大広間から西の棟の地下。祭典の間際まで、職掌の官吏が詰めている。
二、献上の時刻は、夜会の終盤。――時計の針で、あと一時間半。
三、中身はすり替わっている。公爵家の名工の宝箱が、黒い花の入った箱に。
四、本物はどこか。――消されているなら詰みだが、消すとは限らない。すり替えには「本物をどこかに置く」という手間が必ず伴う。盗品は、いずれ出す。出すなら、屋敷に戻ってから、という線もある。
五、俺は猫だ。王宮の廊下を、堂々とは歩けない。
(……さて)
顔を上げた。
『――猫さん! こっち、こっち』
壁際の通気口から、小さな影が手を振っていた。いや、前足を振っていた。
ぺこぺこ。王宮ネズミ網の窓口である。
『道、案内するよ。台所の裏の荷下ろし口まで、人のいないルートがある』
『頼む。……それと、一つ頼みがある』
『なあに』
『公爵家の荷馬車だ。出発準備の車寄せに、まだ繋がれているはず。……本物の箱が、どこかに潜んでいるとしたら、あそこだ。誰か一匹、向かわせてくれ』
『了解!』
ぺこぺこの影が、壁の中を走った。
その頭上、窓の外では、ルルの一族が二羽、闇に紛れて旋回している。空の見張りは、すでに展開済みだ。
(……よし。いくぞ、王宮の戦線へ)
荷下ろし口への道は、迷宮だった。
給仕用の裏廊下。食材庫の横。洗い場の裏。
ぺこぺこの案内は的確で、王宮の構造というものを、何代にもわたって書き溜めてきたのだろう。
「――で、今晩の番は、あの官吏どもか」
地下への階段の上で、ぺこぺこが止まった。
先に、灯り。
献上品保管庫の扉の前に、二人の官吏が立っていた。退屈そうに、立ち話をしている。
『……人間が二人。扉の前。猫の通れる隙間は、なし』
(……む)
扉を開けるわけにはいかない。開ければ、見られる。
だが、こちらには、扉を使わない手がある。
俺は壁際に座り目を閉じた。
体の奥の塊を、そっと緩める。
――転移。
イメージは、引き出しだ。
目の前の空間の、ここと、あそこを、指で摘んで引っ繰り返す。
ぽすん。
俺の体は廊下から消えて、保管庫の中の棚の上に着地した。
(……よし。転移、成功)
外では、何事もなかったように、官吏たちの立ち話が続いている。
転移は、この三年でそこそこ得意になった。距離は伸び音は消えた。
ただし、着地点の見通しだけは、事前の目視が要る。窓の格子越しに棚を確認しておいたのは正解だった。
保管庫の中は、宝の匂いがした。
絹。銀器。香木。そして、並べられた献上品の箱の列。
公爵家の紋の箱は、列の真ん中にあった。
見た目は、記憶通りだ。黒檀の名工の細工の宝箱。……だが。
(……軽い)
見えない手で、持ち上げてみる。 本物は、中に細工物が詰まっている分、ずっしりと重いはずだ。
これは、軽い。中身は花だけ。
蓋を、そっと開けた。
――黒い花冠が、入っていた。
闇に沈むような、黒に近い紫の花で編まれた、小さな冠。
収穫祭の祝いの席に、これを王家へ捧げた家はどうなるか。説明の余地はない。言い訳の余地もない。箱を開けた瞬間に、物語は完成する。
『闇の令嬢を擁するフィロパトール家が、王に呪詛を捧げた』と。
地道に積み上げた「幸運の闇」が、一夜で「呪いの闇」に反転する。
相手はそれをちゃんと読んでいる。
だからこそ、一番効く場所に、一番効く夜に、置いてきた。
(……よくできてるよ。……よくできてるが)
俺は、花冠に手を――見えない手を、伸ばしかけて、止まった。
処分する。
それが、最短だ。今すぐにでも収納に押し込んで、闇に沈めれば今夜の危機は去る。
以前の俺なら、そうした。
あの塔の夜、インク壺を倒したように。資料は消すに限る。
だが。
(……いや)
思い出した。あの小鳥の夜を。
壊して、隠して、バレなかったら。人は、学んでしまう。隠せる、と。
証拠を消すことは、事件を消すことだ。事件を消せば、犯人の痕跡は残らない。
残さなければ、次も来る。
次の黒い罠が、またどこかの箱に入る。
(……残す。……証拠は、残す)
俺は、花冠にそっと触れた。
枯れてはいない。摘まれてまだ日が浅い。編み方は丁寧だ。
……丁寧すぎる。
そして、結び目を見た。冠の輪を留める、白い細いリボン。
その結び目を、見て――尻尾が逆立った。
(…………知ってる)
右の輪を、一度だけ、裏に返して通す。端を二回、同じ向きに撚る。仕上げに、結び目の頂点を、指先でぎゅっと潰す。
几帳面で、均整が取れて、どこにも緩みのない結び目。
あの女が、羊皮紙を巻き留める結び目。菓子折りの紐締める時の結び目。
俺は、窓越しに何度も見てきた。
――ベルタの結び目だった。
(…………)
保管庫の静寂の中で、俺の尻尾だけが、静かに揺れていた。
あの女は、洗濯部屋で、模範的な降格職員を演じている。
あの女が、この王宮の地下に入れるはずがない。
だが、あの女の手を経たものは、入れる。月に一度、干し場の裏で情報と一緒に誰かに渡して。
渡した悪意が、今夜ここにある。何者かの手によって。
(……証拠は、残す)
俺は、リボンには触れず、花冠だけをそっと『収納』の闇へと沈めた。
今夜の俺は、証拠を消す猫ではない。運ぶ猫だ。
棚の上には、中身を抜かれた『空の偽箱』だけが残った。
その時、壁の通気口から、ぺこぺこの声が微かに届いた。
『猫さん! 荷馬車、あった!』
『……本物か』
『うん! 荷台の底板が隠し底になってて、その中に木の箱! 重いって、うちの子が言ってる!』
(……隠し底。やはり、運び屋は内側だ)
馬車は、夜会が終わるまで車寄せに置かれたまま、騒ぎになった頃には献上は済んでいる。実に周到な筋書きだ。
『ぺこぺこ。そっちの箱は触るな。……今から、こっちと繋ぐ』
俺は目を閉じた。
本来、『転移』には着地点の情報が要る。だが、今は時間がない。ぺこぺこたちの報告から、荷馬車の隠し底の位置と空間を脳内で精密に描き出す。
目の前の棚の空気と、車寄せの隠し底の空気を。
――ぽすん。
小さな破裂音。そして、ミシッ、と棚板が軋む音が鳴った。
俺の目の前から軽い空箱が消え、代わりに、ずっしりと重い黒檀の宝箱が現れていた。
(……取り戻した)
隠し底には、俺からの手土産として「空箱」を送ってやった。
だが、安堵した直後。
「……ん? 今、中で音がしなかったか?」
扉の向こうから、官吏の訝しむ声が響いた。
「音? ネズミだろう」
「いや、念のため確認する。鍵を貸せ」
ガチャ、ガチャリと、分厚い扉の錠前が外される嫌な音が響く。
時間が、ない。
俺は本物の箱を元の位置に戻し、再び体の奥の塊を緩めた。
扉のノブが、ゆっくりと回る。
ギィィ……と重い扉が開かれ、保管庫に廊下の灯りが差し込んだ瞬間。
俺はすでに『転移』の渦の中だった。
「……なんだ、誰もいないじゃないか。箱も並んだままだ」
「だからネズミだと言っただろう」
背後でそんな声を聞きながら、俺は王宮の給仕用裏廊下へと、音もなく着地していた。
立ち話は、日常に戻っていく。
全てを終わらせて、俺は保管庫を後にした。
大広間に戻る頃には、夜会は終盤だった。
誰も、俺の不在に気づいていない。
パティは、デザートの席で、レオナルド殿下と、プリンの取り合い――ではなく、プリンの譲り合いをしていた。
「……ひとつ、多い。お前にやる」
「え、いいの?」
「僕は、弟たちによく譲ってやっている。慣れている」
「……ふーん。じゃあ、半分こしよ」
「半分……こ?」
殿下は、しばらく困惑したあと、小さく「……うむ」と言って、スプーンを取った。
七兄弟の真ん中の男は、「半分こ」という技術を、知らなかったらしい。
そして、壇上では献上の儀が始まっていた。
「――フィロパトール公爵家。領地の名工による、細工の宝箱」
唱名に、宮廷の視線が集まる。
開かれる箱。上がる、感嘆のざわめき。
そのざわめきの、ごく一部の席で――ほんの数箇所で、俺はそれを見た。
「何事もなく箱が開いた」ことへの、絶句の気配を。
猫の仕事は、今夜はここまでだ。
(……届いたな。今回も荷物は届いた)
俺はパティの膝に戻って、静かに丸くなった。
誰にも気づかれないまま、誰かの三年分の筋書きが、静かに瓦解した夜だった。
帰りの馬車は、夜だった。
「テト。今日、疲れた」
「にゃ」
「王宮って、きれいだけど、疲れるね。……うちが、いい」
「にゃあ」
(同感だ。……うちが、いい)
パティは、俺を抱いたまま、やがて寝息を立て始めた。
馬車の揺れ。窓の外の、遠ざかる王宮の灯り。
俺は、眠る飼い主の頭が揺れないように、体で支えながら、夜道を見ていた。
収納の奥に、黒い花冠が一つ眠っている。
証拠品、第一号。
――向こうは、ずっと人の弱みを集めてきた。
なら、こっちは逆だ。
これから、事実を一つずつ集めていく。
向こうが人を傷つけるために情報を集めるなら、
こっちは、人を守るために集める。
(……さあて。……帰ろう。うちに)
馬車は、夜の街道を、公爵邸へと走っていった。
――深夜。フィロパトール公爵邸。
玄関ホールに、灯りが残っていた。
「お帰り」
アウグストと、ユリウスが、待っていた。
夜更かしの、兄弟だった。
「……ただいま。……にーにたち、まだ起きてたの?」
「書類が残っていてな」
「僕は、研究」
二人とも、嘘だった。
書類も研究も、二人の手元には、どこにもなかった。あるのは、冷めかけたポットだけだ。
「ふーん」
パティは、眠そうに笑って言った。
「王宮、でっかかったよ。プリン、レオと半分こした。……あとね」
眠りかけの目で、それでも今日の一番を言った。
「テトね、今夜も、ずーっと、パティのそばでおとなしかったの。……えらいでしょ」
兄弟が、俺を見た。
「……そうか」
「……えらいね」
(…………)
二人の目には、何かが透けて見えた。
見抜いている、というより。――任せている、という目だった。
「おやすみ、にーにたち」
「ああ。おやすみ」
パティが、俺を抱えて階段を上がっていく。
その背中が見えなくなるまで、二人は、ホールに立っていた。
「……なあ、兄上」
「なんだ」
「……何もなかったみたいだよ。……たぶん、あの猫が、全部、なんとかしたんだ」
「……ああ」
「……僕たち、何も知らないのに、何かを察して、待ってるだけだね」
「……それが、今夜の俺たちの仕事だ」
アウグストは、そう言って、ホールの灯りを一つだけ消した。
階段の上の灯りは、妹たちが部屋に戻るまで、点けたままにして。




