第三十三話「白猫と黒い箱」
王宮は、でかかった。
でかくて、人が多い。
ロムルスの説明は、実に正確だった。
白い石の回廊。天井の高い大広間。シャンデリアの灯りが、磨かれた床に、もう一つの星空を写している。
そして、そこここに、着飾った貴族たち。
「……すごい」
パティが、小さく呟いた。
今夜のパティは、深い青色のドレスに、あのリボン。二年分の仕込みが詰まった、令嬢の完成形である。
その腕の中に、俺。首には、銀の札と金の鈴。
入場の唱名が、響いた。
「――フィロパトール公爵、ロムルス様。公爵夫人、アウレリア様。――公女、パトリシア様」
ざわめきが、さざ波のように広がった。
闇の令嬢。
幸運の令嬢。
猫を抱いた、七歳。
二つの噂が、一つの視線になって、集まってくる。
好奇と、警戒と、品定めと。
(……さあ、初陣だ)
俺は、パティの腕の中で、姿勢を正した。
今夜の俺の役目は、愛玩動物だ。可愛いだけの、人畜無害の、黒い毛玉。 演技とは、全力でやるものだ。
夜会は、穏やかに始まった。
ロムルスは諸侯との挨拶回りへ。アウレリアは夫人方の輪へ。
パティは、同年代の令嬢たちの島に案内された。護衛は壁際に、侍女は控えに。俺は膝の上。
「パトリシア様、今夜はお綺麗ですわ」
「ありがとう。あなたも、素敵ですわよ」
社交辞令が、通るようになっていた。
二年の成果である。ただし、まだ油断はできない。この子の砲は、装填さえ済めば、いつでも撃てる。
――と、そこへ。
「待たせたな」
声が、割って入った。
金の刺繍の衣装。きっちり撫でつけられた栗色の髪。そして、後ろに控える、白い猫を抱いた侍女。
第三王子、レオナルド殿下。十歳。
二年ぶりの対面である。背は伸びた。顔つきは、少しだけ鋭くなった。
だが、あの「僕はすごい」の気配だけは、寸分も衰えていなかった。
「パトリシア。久しいな」
「ご無沙汰しております。殿下」
パティは、ゆっくり俺を椅子の上に降ろすと、立ち上がって、見事なカーテシーを決めた。
「……ふむ。少しは、令嬢らしくなったか。だが、普段通りでよい」
「……ふーんだ」
「なんだ、その返事は」
「レオは、ちっとも変わってないね」
「な……」
殿下が、むっとした。
が、すぐに咳払いをして、胸を張った。二年で、感情的な制御だけは、少し学んだらしい。少しだけ。
「まあいい。今夜は僕が、この王宮を案内してやろう。僕はこの宮殿の、すべてを知っている」
「うちのお父様が、案内してくれるって」
「…………」
「手紙に、そう書いたでしょ」
「…………知っている」
殿下の耳が、少し赤くなった。書簡の塩対応を、ちゃんと読んでいたらしい。
だが、この男の本当の目的は、別にあった。
「――それより、見ろ」
殿下が、振り返った。
侍女の腕の中。白い猫が、ゆっくりと顔を上げた。
長い、絹のような白毛。丸い顔。そして、氷のような青い目。
宮廷の血統書つきの、名猫だった。
「王宮の猫、ブランシュだ。純血の、宮廷猫だぞ。毛並みも、目の色も、気品も、別格だ。……そっちの黒いのとは、格が違う」
来た。
猫マウントである。
「テトのほうが、かわいいもん」
「なに!? 見ろ、この毛の長さ。この目の青さ。そちらは、黒いだけで、飾りといえば鈴のついた首輪ひとつ。……質素すぎる」
「……ふーんだ」
「だからなんだ、その返事は」
「ブランシュ、綺麗だね。……でも、なんか、疲れてない?」
「は?」
言われて、殿下が白猫を見た。
ブランシュは、こちらを見ていた。
b正確には――俺を、見ていた。
青い目が、見開かれていた。
耳が、ぺたりと、後ろに倒れている。長い毛が、うっすらと逆立ち始め、侍女の腕の中で、体が小さく、小さく、丸まっていく。
「……ブランシュ?」
白猫は、目を逸らした。
それから、顔を侍女の腕の中に、埋めた。
完全な、服従の姿勢だった。
(……あー。そうなるよな)
動物の嗅覚は、正直だ。
グリッグが初対面で嗅ぎつけたように、獣には分かる。目の前の黒い小さいのが、猫の皮を被った「なんかすげーもん」であることが。
白猫に落ち度はない。むしろ、正確すぎる反応だ。
「ど、どうしたブランシュ。僕だぞ。……僕の顔を見ろ」
「レオ、あんたじゃなくて、テトを見てるよ」
「なぜ、僕の猫が、そっちの猫を……っ」
殿下が、俺を睨んだ。
(……仕方ない。外交だ)
俺はパティの膝から降り、ゆっくりとあくびをした。顎の外れる、喉の奥まで見える、間抜けなやつ。
それから、ごろんと、絨毯の上で横になり、へそを天井に向けた。
――無害です。ただの猫です。威嚇の意思など皆無です。
白猫が、おずおずと顔を出した。 こちらを、見る。警戒の色のまま、見る。
俺は、スローブリンクを返した。
獣の社会の、最大級の信頼表明だ。
「…………」
白猫は、しばらく固まっていた。
それから、侍女の腕から、するりと降りた。
床に降りて、ゆっくりと、こちらに近づいて、鼻面を、そっと、俺の鼻先に近づけ――匂いを、嗅いだ。
白猫は、すっと身を引き、それから、俺の前にちょこんと座った。
背筋の伸びた、見事なまでに端正な座りだった。
まるで、目上の者の前で、座礼を整えた家来みたいに。
「……な、なぜ座る。……なぜ、そっちに」
「あ。ブランシュ、テトにご挨拶してる」
「ご挨拶!?」
「うん。パティ、わかるの。ネコチャン社会って、偉い子にはみんなそうするの」
「な、なぜ僕の猫が、お前の猫の、下に……」
(……失礼ながら殿下、猫社会の序列は、飼い主の爵位を参照しないのです)
実に申し訳ないが、獣の世界に貴族の序列は通用しない。
あるのは、匂いと、気配と、実力だけだ。
ブランシュは、その後も、パティの膝に戻った俺の隣から離れなかった。
殿下が何度呼んでも、ちょこんと座ったまま、時折こちらの顔色を窺うだけだった。
名猫ブランシュの、忠誠の移籍。ものの十分で完了した。
「…………ふん。猫など、所詮、気まぐれだ」
殿下は、顎を上げた。敗北を、威厳で覆い隠す技術だけは成長していた。
だが、去り際。
「……なあ」
「なに」
「その猫。……やはり、少しだけ、抱かせろ。……いや、撫でるだけでいい。……十秒」
十秒、ときた。
あの初対面の交渉を、この男は、二年間、覚えていたのだ。
「だめ」
「……そうか」
がっくりと肩を落とす殿下の背中を見て、俺は少しだけ考えた。
(……まあ、いいか。外交だ。国交正常化の一環と思えば)
俺は、パティの膝から、するりと前足だけを差し出した。
「……あ。テトが、いいって」
「……本当か」
殿下の指が、おずおずと俺の頭に触れた。
一撫で。生真面目な、緊張の滲む、一撫でだった。
「…………やわらか、い」
殿下の声が、裏返った。
十秒の約束が、十二秒になったのは、ここだけの話である。
夜会が中盤に差しかかった頃。
『……猫さん』
窓の外、軒の影から、か細い声が届いた。
ぺこぺこ――王宮の台所裏を根城にする、グリッグの親戚筋だ。
『あんたに、急ぎの報告だって。……贈り物の、保管庫のこと』
(……贈り物)
耳が、立った。
今夜の夜会では、諸侯が王家に収穫の献上品を捧げる。フィロパトール家からは、領地の工芸――名工の細工が施された、木彫の宝箱が、運ばれているはずだった。
『続けろ』
『……あのね、保管庫の番をしてたうちの子が、変な匂いがするって。……昼間、運ばれたはずの公爵家の箱から、……花の匂いがするんだってさ』
『……花?』
『うん。……黒い花の匂い』
体の奥の塊が、ひやりと冷えた。
この国で、黒い花は祝いの席に使うものじゃない。
弔いの花だ。
葬送と、呪いの印。
それを、王家への献上品に?
もし箱の中に、それが仕込まれていれば。
フィロパトール公爵家は、王に呪いを捧げた家になる。
――闇の令嬢を擁する、あの家が。
噂と、事実と、属性が、一直線に並ぶ。
(…………)
パティの膝の上で、俺は静かに身を起こした。
夜会の喧騒。シャンデリアの灯り。笑い声。
そのすべてが、急に、遠くなった。
箱は、保管庫にある。
献上の時刻は、夜会の終盤。
――時間は、あまりない。
俺は、そっと、膝を降りた。
誰にも見られないように。猫の、気まぐれな散歩の体で。
歩きながら、尻尾の根元から、毛が、じわじわと逆立っていくのが、自分でも分かった。
(……来たな)
今夜の相手は、これまでの誰より手際がいい。
(……だが)
廊下の影に入りながら、俺は、牙の代わりに、奥歯を噛んだ。
(……こっちも、只々、寝てばかりいたわけじゃない)
黒い影が、王宮の廊下を、音もなく滑った。
夜会の戦いは、誰の目にも触れない場所で、静かに始まった。
――同じ頃、フィロパトール公爵邸。
「……静かだな」
夕食の席で、アウグストが言った。
長いテーブルに、二人だけ。
普段は賑やかな食卓が、今夜は、両親も妹も猫もいない。
「うん」
ユリウスが、頷いた。
「……いないね」
「ああ」
二人とも、何がいないのかは、言わなかった。
言うまでもない。静かすぎる原因は、一つしかない。
「……兄上」
「なんだ」
「パティ、大丈夫かな。……王宮」
「父上がついている。護衛も二名。……問題はない」
「……うん」
ユリウスは、スープを掬った。それから、ぽつりと言った。
「……あの猫も、ついてるしね」
「…………」
アウグストの手が、一瞬だけ、止まった。
「……ユリウス」
「なに」
「貴様も、気づいているのか」
「…………」
「…………」
二人とも、しばらく黙っていた。
それから、アウグストが静かに言った。
「……あれは、よく働く」
「……うん。よく働くね」
「猫のくせに」
「猫のくせに」
二人は、顔を見合わせて、ほんの少しだけ笑った。
「帰ってきたら、労わねばな」
「……僕、新しい観察ノート、用意しておく。……もう八冊目だ」
「八冊も……?」
「記録は、大事だから」
ユリウスは、そう言って目を伏せた。
アウグストは、何も言わず、妹の空席を少しだけ見た。
――早く、帰ってくるといい。
その言葉は、どちらの口からも出なかった。
言うまでもないことを、言わないのが、この兄弟の、仲の良さだった。




