第三十二話「王宮のネズミ」
夜会の招請状が届いたのは、よく晴れた午後だった。
フィロパトール公爵家の封泥を割って、ロムルスが読み上げた。
王家主催、収穫祭の夜会。来月中旬。パトリシアも同行のこと。
「……王宮か」
「おとーさま、王宮って、どんなところ?」
「でかい」
「それだけ?」
「……でかくて、人が多い」
当主の説明は、相変わらずの精度だった。
この男、仕事の判断は緻密なのに、娘への説明だけは、形容詞が二つしか出てこない。それでも娘は目を輝かせる。親子の仕様とは、そういうものである。
夜会の招請を公開する前に、俺はひとつ、気になる報告を受けていた。
――その、三日前。
『猫さん。例の件』
洗濯場の裏手で、グリッグが髭を揺らしていた。
今日は、妙に動きが遅い。
以前より歩幅が小さくなったように見える。髭の白いところが、また増えている。
『ベルタがな。昨夜も、干し場の裏に来てたよ』
『相手は』
『いつもの、頭巾の女だ。顔は見えねえ』
『話の内容は』
『聞き取れねえ。だが、ベルタ帳面になにやら書いていたそうだ。壁の裏のチビどもが見てた』
この一年近く、ベルタは「模範的な降格職員」を演じ続けていた。朝一番に出勤し、誰よりも黙々と洗濯物を畳み、使用人の井戸端会議にも加わらない。
それが、月に一度か二度、夜の干し場の裏に、小さな灯りが灯る。
そこで、あの几帳面な字が、帳面に何かを書き加えていく。
内容は、取るに足りないものばかりらしい。
誰と誰が口を利いた。奥様が今日は何色のドレスを着た。パトリシア様の授業は何時間だった。
――取るに足りない、はずなのに。それを月に一度、わざわざ外の人間に渡している。
(……誰かが、集めている)
問題は、情報ではない。それを「どう並べるか」を知っている誰かが、外にいることだ。
『尾行は?』
『それがな。市場を出た後、人の多い通りで毎回消える。慣れてる動きだ』
『……慣れている、か』
プロ――少なくとも、素人ではない。
つまり、ベルタは焚きつける側ではなく、焚きつけられる側だ。
あの女の正義を、「あなたは正しかった」そう言って撫でる手が、外にある。
その正体はまだ分からない。ただ、ひとつだけ方向は見えている。
ベルタの古い知り合いが奉公している、王都北部の侯爵家。
そして、その一帯は――王宮にも近い。
(……いずれ、網が届く)
急ぐ必要はない。
猫の仕事は、たいてい待つことだ。
そして今は、目の前の夜会のほうが気になる。
「おとーさま!」
朝食の席で、パティが身を乗り出した。
「王宮って、ドレスは何色がいいのかしら?」
「好きな色でいいだろう」
「でも、王宮だよ?」
「……なら、トライ先生に聞け」
「おとーさま、役に立たない」
「…………」
ロムルスが黙った。
俺は心の中で拍手した。
二週間後の夜会に向けて、この家は、総動員態勢に入っていた。
ドレスの採寸に、マナーの最終確認と、挨拶の暗記。
そして――王宮儀礼の特別授業。
トライ先生の授業は、普段の二倍の密度になり、パティは、今、自主的に机に向かっている。
椅子を動かす必要も、羽ペンを浮かせる必要もない。保守フェーズの良い兆候である。
そんな中、騒動は三日目に発生した。
「パトリシア様。王宮よりご親書が」
セバスが銀の盆に乗せて運んできた封書を、パティが開いた。
開いて三秒で顔がしかめられた。
「……レオからだわ」
前の封書から、まだ十日と経っていない。
この男の筆まめさは、恋情というより、狩猟本能に近い。一度見つけた獲物を見失うと、落ち着かない犬のようなところがある。
「どんな内容ですの?」
アウレリアが尋ねる。
「ええと……」
パティは読み上げた。
「『僕が案内してやる。心配するな。僕の後ろについてくればよい』ですって」
「まあ」
「……パティ、心配してないんだけど」
「でしょうね」
アウレリアが、小さく笑った。
「お返事は?」
パティは、少しだけ考えて、ペンを取った。
令嬢の返書らしく、丁寧に完璧な礼節で。
『ご親切に、感謝申し上げます。ですが、王宮にはお父様のご案内がございますので、心配には及びません』
アウレリアに見せたあと、封を閉じセバスに渡した。
そして、椅子に沈み込んで、小さく付け加えた。
「……めんどくさ」
家族が、一斉に吹き出した。
アウグストが笑いを噛み殺しながら水を飲み、ユリウスがスープを噴き出しかけ、ロムルスが咳払いをして天井を見た。
どうやら、この家の全員が第三王子に対して同じ感想を持っているらしい。
夜会まで、十日。
俺は、俺の仕事に入った。
夕食後の庭。
大樹の下に、三者を集めた。
『――では、ルル』
『はい』
『王都北部の空の網、本格展開を頼みたい。王宮上空から、エンドルフォン侯爵邸までの定期便を』
『承知。……あの一帯は、空の見晴らしが良いのです。問題はないかと』
『……対価は、既存契約の二倍で』
『そして、歌の相談も二倍の時間を』
『……前回の求愛はどうなった』
『伴侶ができました』
ルルは、少しだけ胸を張った。
『歌は、ついに褒められませんでしたが、根性と巣作りの技術で押し切りました』
『……おめでとう』
『ありがとうございます』
根性で押し切る鳥。真面目に報告されると、どうしても笑ってしまう。
まあ、鳥にも鳥の恋愛事情があるらしい。
歌がすべてではない。生き方にも、いろいろある。
次は、最後にネズミ。
――彼が来た。
『……猫さん』
夜の芝生に、小さな影が、ゆっくりと歩いてきた。
グリッグだった。
以前より、歩幅が小さい。背中が、少しだけ丸い。
『今夜で、最後だ』
空気が、止まった。
別邸の窓の灯りが、少し遠くに見えた。
『……そうか』
俺は、それだけ返した。
ネズミの寿命は、短い。三年も生きれば、長老だ。この三年、俺の加護とやらが延命していたのかもしれない。
だが、延命は、終わらせないことではない。ただ、終わりを遅らせるだけだ。
『おめえと会ってから、オレ、長生きしすぎた』
グリッグが笑った。
『ばあちゃんも、じいちゃんも、五歳までだったからな』
『……そうか』
『別れを言いに来た』
グリッグは芝生の上に、ちょこんと座った。
髭が月光を受けて、ほとんど真っ白に見える。
『報告は、全部、アルジャに引き継いだ』
『アルジャに』
『ああ。生意気だが、頭はいい。それと、ウチの子供に、アルジャの子供。すでに十代目まで、お前の仕事の作法を叩き込んである』
『……徹底しているな』
『当たり前だ』
グリッグが鼻を鳴らす。
『お前の作法を知らねえやつが、お前の網に乗ったら、お前が困る』
『…………』
それは、いかにもグリッグらしい答えだった。
『オレな、猫さん。……この三年、楽しかったぜ』
『……俺もだ』
『握手ってやつ、しねえか。……前にやった、あれ』
俺は、肉球を、そっと差し出した。
グリッグの前足が、ちょこん、と重なった。
初めて会った夜と、同じ、押印のような握手だった。
今度は、少しだけ長く。
『……達者でな』
グリッグは、立ち上がった。
背を向けて、ゆっくりと、歩いていく、一度も振り返らなかった。
振り返らないのが、作法なのだろう。
ネズミ社会には、ネズミ社会の送り方がある。それを、俺は尊重した。
俺も尾は、動かさなかった。
動かすと、何かが伝わってしまう気がしたから。
――その夜、俺は、芝生の上に、しばらく、そのままでいた。
空の星が、妙に、冷たかった。
翌朝。
同じ場所に、ひと回り小さな影が座っていた。
『――おはよう、猫さん』
『……アルジャか』
『今日から、アルジャじゃねえ』
若いネズミは、髭をぴんと立てた。
『グリッグだ』
『……そうか』
『先代の後は、オレが務める』
少しだけ声が震えていた。だが、逃げなかった。
『半人前だが、よろしく頼む』
俺は、新しいグリッグをしばらく見た。
顔つきは違う。背丈も違う。だが、髭の立て方が、どこか、先代に似ていた。
――網の作法だけは、確かに引き継がれている。
『二代目』
『おう』
『早速だが、仕事だ』
『来た! 初仕事!』
立ち上がる勢いが、先代よりずっと若い。
『夜会まで、十日。王宮のネズミ網、本格接続を頼む』
『了解!』
『先代の親戚筋に、二倍の予算で動いてもらいたい』
『任せろ。王宮の台所裏に「ぺこぺこ」ってのがいる。こっちの窓口だ』
『……ぺこぺこ』
『おかしな名前だろ。王宮の奴ら、センスってもんがないからな』
『……うん』
名前のセンスは、棲家が変わっても同じらしい。
夜会まで、七日。
王宮方面からの、第一報が入った。
『――猫さん、報告だ』
二代目グリッグの髭が、嬉しそうに震えた。初仕事の張り切りが、全身から出ている。
『王宮のぺこぺこから、第一王子についての話が来てる』
『聞こう』
『オーランド殿下。十七歳。剣の腕は王族随一。近衛師団にも強い関心を持ってるらしい。月に二度は師団本部へ出向いてる』
『……王位より、軍を見ている』
『ああ。それから「次代の王は武で立つべきだ」って、酒の席で漏らしてたそうだ』
騎士団といえば、うちだ。
フィロパトールの剣は、王都防衛の要。
――その剣をどう見てもいるか。
『第二王子は?』
『アンセルム殿下。十五歳。光属性。母君の実家が聖王国寄りだ』
『神殿側か』
『王宮の侍従連中は、「あの方は王位より神殿へ行かれる」と見てるらしい』
光と神殿。
王位より教皇杖のほうを選ぶか……。
『……そして、第三王子だが』
グリッグの髭が、少しだけ下がった。
『……レオナルド殿下。十歳。属性は、土。……一属性だ』
『……一属性か』
『殿下、それをずいぶん気にしてるらしい』
『…………』
『夜中に兄様たちの属性の資料を、こっそり書庫から借りてるんだと。「兄上は火と風、兄上は光と……」って』
グリッグが首を傾げた。
『それから、ある夜。自分の部屋の鏡に向かって、「次代の王は、俺だ」って練習してたらしい』
俺は、黙った。
初めて会った時から、あの少年は無駄に虚勢を張っていた。
だが、虚勢を張ることそのものが悪いわけではない。
怖いのは――張らなければ保てない自信だ。
自分より優れた兄が二人いる。
自分には、地味だと言われる土属性がひとつ。
その差を、本人がどう受け止めるのか。
もし、いつかそれが「自分は劣っている」という形に変わったら。
その劣等感を、誰かが撫でたら。
――危ない。
断罪のレシピは、たいてい、本人の背中に「誰かのせい」という言葉を流し込むところから始まる。
そして、その矛先が向く先は。
俺は、パティの顔を思い浮かべた。
(……だが、それだけは断固阻止する)
第三王子レオナルド。
敵か味方かは、まだ分からない。
分からない。
だが、「どちらに転ぶかが、本人の意思だけでは決まらない」ことだけは、分かった。
この王子は、周囲の誰が何を囁くかで、進む方向が変わる。
夕食の後。
書斎の窓から、ロムルスが庭を見ていた。
「……今年の夜会は」
俺の前で、独り言のように、呟いていた。
「……行くか、娘よ」
当主は、分かっていた。この夜会が、ただの夜会ではないことを。
誰かが、何かを、見るための場であることを。
王都防衛の要であり、筆頭公爵家の娘が、公式に王宮の床を踏む。
その足音を、何人かが、どんな顔で聞くか。
――それが、観測される。
(……ロムルス。あなたも、分かっているのか)
当主の背中が、少しだけ、硬かった。
この当主は、娘には鷹揚だが、政治には鋭い。鋭いからこそ、この夜会に、娘を連れていく。
隠すのではなく、見せる。見せた上で、「これは、普通の娘だ」と、全員に認識させる。
――それが、この家の、先手なのだろう。
猫の作法と、当主の作法は違う。だが向いている方向は、同じだった。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“夜会まで、あと七日。
被験体が、今夜も庭で鳥と見つめ合っていた。
……鳥と話しているわけがない。
ないのだが。
空の鳥の、動きが、ここ数日、変だ。
王都の北東から、北の、エンドルフォン侯爵邸の方向へ、妙に揃った編隊で、何羽もの鳥が、同じ時刻に飛んでいく。……偶然ではない。
誰かが、空に、定期便を敷いた。
誰だ。
……誰だかは……。
追記:今朝、庭の芝生にネズミが一匹座っていた。あいつ――テト――と、しばらく動かずに向き合っていた。
……初めて見る顔のネズミだった。
……いつもの奴は、どこへ行ったのだろう。
いや、ネズミの顔なんか見分けがつくわけがない、きっと…………”




