第三十話「品定めと品定め」
パティが七歳の初夏、公爵家の朝食の席で、小さな爆弾が投下された。
「パティ、お買い物に行きたい」
ロムルスのコーヒーが、止まった。
「……買い物は、商人に屋敷へ運ばせればいいだろう。選りすぐりを、持ってこさせる」
「ちがうの」
パティは、フォークを置いて言った。
「選んでもらったのが、ぽーんと届くのは、買い物じゃないの。……パティは、いっぱいあるところから、自分で、これって、選びたいの」
「…………」
「棚の前でね、あーでもない、こーでもないって、やりたいの」
(……言葉は怪しいが、要求の中身は正しい)
テーブルの端で、俺は耳を立てた。
領地視察の効果だ。
あの旅で、この子は「自分で見る」ということを覚えた。
届けられたものを受け取るだけではなく、自分で見て、自分で選ぶ。
七歳児なりに、そこへ何かを感じたらしい。
「……うむ」
ロムルスが頷いた。
「行くがいい。護衛をつける。……ケンドに連絡して、腕の立つ者を二人回させよう」
「やった!」
(……許可が早い。この家の甘さは、もはや構造だ)
当日。
編成は、以下の通り。
パティ(七歳・武装は好奇心)。
侍女一名(荷物持ち兼、俺の輸送担当)。
護衛の騎士二名(ケンド直々の選任。街道ではなく店先での立ち回りに長けた、穏やかな顔の二枚看板)。
そして、俺。
俺の収容先は、侍女の持つ、猫専用のキャリーバッグだった。
藤編みの、蓋つきの、内張りの柔らかいやつ。隙間から外が見える。定位置は、侍女の左側。歩くたびに、視界がゆっくり揺れる。
(……乗り心地は良好。が)
不満がないわけではない。
本来、俺の定位置はパティの腕の中か膝の上だ。だが今日のパティは、商品を両手で見る気満々で、猫を抱えている場合ではないと自分から判断した。
「テト、ごめんね。今日は、バッグで我慢して」
「にゃ」
「その代わり、いいものあったら、いっしょに見よ」
断られ方に、一片の驕りもなかったので、許すことにした。
場所は、王都の上町、貴族街の外れ。
「ガレリア・エストレージャ」。
高級呉服と装身具の老舗である。
平民は入れないが、貴族なら誰でも入れる。
店内は、静かで、涼しく、香りが良かった。
絹の山。レースの滝。棚の向こうに、宝石の明かり。
「すごい……」
パティの目が、輝いた。
選りすぐりが届く日常しか知らなかった子供にとって、「選ばれていない商品が、山になっている光景」は、それだけで事件だった。
「ねえ、あれ見て。こっちも。あっちも」
(……財布の紐が心配になる輝き方だな)
キャリーバッグの中で、俺は巡回の目を起動した。
店内の構造。通路。人の流れ。店員の位置。そして――
(……ん?)
奥の棚の前に、一人の少女がいた。
七つか八つ。栗色の髪を、完璧な三つ編みにしている。背筋が伸びきっていて、靴の踵が揃っている。
手にした帯留めを、値札と、品質と、目の色を交互に見比べながら、真剣な顔で検討していた。
その横顔の、真剣さが、尋常ではなかった。
帯留め一つに、国家予算を審議する顔をしている。
(……ああいう子って、いるよなぁ)
前世の百貨店にもいた。三十分かけて靴下一足を選ぶ人。ああいう人は、買い物を「正解の探索」だと思っている。間違いを引かないために、全力を尽くす。
その時、少女は帯留めを棚に戻した。
正解が見つからなかったらしい。……三十分悩んで、買わない。あれもまた、ああいう人の流儀である。
そして、少女は振り返った。
パティと、目が合った。
「…………」
「…………」
先に動いたのは、少女のほうだった。
歩み寄って、スカートの裾を摘んで、完璧なお辞儀をした。型が綺麗すぎる。教科書の挿絵みたいなお辞儀だった。
「はじめまして。ヴィアルバーグ侯爵家の次女、マーガレット・アンと申します。……貴方は、フィロパトール公爵家のパトリシア様、でいらっしゃいますね」
「……どうして分かるの?」
「先日のお茶会、私は風邪で欠席いたしました。ですが、皆様のお話では……」
マーガレットの目が、パティの頭の上で止まった。
あの、幸運の都市伝説の発信源たる、本人の噂は、耳に入っているらしい。
それから、ゆっくりと、付け加えた。
「お綺麗だ、と。……拝見したところ、本当のようですわね」
「ふーん」
パティは、あっさりと答えた。
「まあ、そうね」
(……おい)
「…………」
マーガレットのお辞儀の角度が、ほんの二度ほど、歪んだ。
「……と、仰いますのね」
「うん。パティ、嘘つかないもん」
(……本当のことだ。本当のことなのが、始末に負えない)
キャリーバッグの中で、俺は眉を寄せた。
パティの「まあ、そうね」に悪意はない。お世辞をお世辞として薄める習慣が、この子にはない。言われた言葉を、字面通りに受け取る。それが誠実だと、本気で思っている。
だが、向こうから見える景色は違う。
公爵令嬢が、侯爵令嬢の最大限の挨拶に、「まあ、そうね」。
意図のない踏みつけというものは、意外と痛い。
「……そう」
マーガレットの声が、わずかに硬くなった。
だが、この子はそれでも引かなかった。公爵令嬢は立てるべきと、生真面目な脳が判断したらしい。
「あの、パトリシア様は、何をお探しで?」
「うーんとね」
パティは、店内を指差した。
「ぜんぶ」
「……全部?」
「うん。だって、パティ、自分で選ぶの、はじめてだもん。……これと、これの、どっちがいいかって、悩むやつ、やってみたいもの」
「……悩む、のを、やりたい、と」
「うん」
マーガレットの顔が、複雑に歪んだ。
怒っている。呆れている。そして、少しだけ困っている。
(……まあ、そうなるよな。そのまま受け止めると、公爵令嬢の道楽に聞こえる)
善意と純粋さが、語彙の貧困を経由して、傲慢に翻訳される。この家の持病が、ついに市中に持ち出された。
「……そうですの」
マーガレットは、姿勢を正し直した。
イラッとしているのが、七歳児の隠しきれない肩の張りで分かる。だが、飲み込んだ。飲み込んで、なお、付き合うことを選んだ。
「では、私がご案内しましょうか。この店は、私、よく存じております」
「え、いいの?」
「ええ。……お手伝い、いたしますわ」
(……いい子だ)
ただし。
(……かなり怒ってるな)
案内は、二十分ほど続いた。
リボン、手袋、香水。
マーガレットの説明は正確だった。
値段と品質の違い。職人の名前。流行。用途。
買い物というより、講義である。
この子、買い物の「正解の探索」に全振りした結果、幼くして目利きになっている。
だが、悲劇は、レースの棚で起きた。
「これは、東の職人の手仕事ですわ。密度が違います」
「……ふーん」
パティは、レースを指で撫でた。 それから、隣の棚の、値段の半分のレースを撫でた。
「こっちのほうが、パティ、すき」
「…………え?」
「こっち、なんか、あったかい。……こっちは、きれいだけど、つめたい」
「……あの、パトリシア様。そちらは、量産の品で……品質は、明らかにこちらが……」
「でも、つめたいもん」
パティは、きっぱりと言った。
「パティ、つめたいのは、いらない。……あったかいのが、いいの」
「……………………」
マーガレットの口が、開いたまま、止まった。
(……ああ。噛み合わない。致命的に、噛み合わない)
「あったかい」の意味は分からない。
品質ではない。値段でもない。だが、適当に言っているわけではないことだけは分かる。
この子は時々、俺たちには見えないところを見ている。
「……そう、ですのね」
マーガレットは、そっと息を吐いた。
その吐息には、二年間、家庭教師の前で俺が聞いてきたのと同じ成分が含まれていた。「分かっていない子だ」のラベルを貼るため息だ。
だが、この子は、そこで終わらなかった。
「……分かりました」
マーガレットは、自分の頬を、両手でぺしっと挟んだ。気合を入れ直す音だった。
「では、こういたしましょう。……その『あったかい』レースと、こちらの『つめたい』レースを、今から私が、三十秒で説明します。聞いていただいた上で、それでも『あったかい』をお選びになるなら、それは、貴方の正解ですわ」
「……え?」
「知らないまま決めるのは、選んだんじゃなくて、指を差しただけですわ」
マーガレットは、まっすぐにパティを見た。
「……でも、パトリシア様。せっかく自分で選びたいのでしょう?」
「うん」
「なら、比べてください。私も手伝いますから」
「…………」
店内が、静かになった。
パティは、少しだけ目を見開いていた。
――正面から、真正面から、まっすぐに、子供の言葉で、叱られたのだ。
「貴族とは」でもなく、「お家のために」でもなく。
ただ、「選ぶ」という行為への、敬意で。
「……わかりましたわ」
パティは、頷いた。
「聞きましょう」
態度をお友達枠から、令嬢モードに切り替え、三十秒の説明を、真剣な顔で聞いた。
聞き終わって、二つのレースを、もう一度、撫で比べて、それから、言った。
「……やはり、こちら」
あったかいほうを、選んだ。
「……そう。……それなら、それが、貴方の正解ですわ」
マーガレットは、少しだけ、くすりと笑った。
イラッとしたまま、飲み込んだまま、それでも、笑った。
(……この子は、強いな)
キャリーバッグの中で、俺は静かに頷いた。
(……怒っている。ものすごく怒っている。だが、相手の選択には口を出さない)
……なるほど。こいつ、面倒くさいタイプのいい子だ。
……将来、この子は、パティの友人か、あるいは、最良の反対者になる。どちらに転んでも、この家にとっては財産だ。
会計を済ませて、店を出る時。
「……あの」
マーガレットが、声をかけてきた。
視線の先は、侍女の腕の、キャリーバッグである。
「そちらは……その、今日のお茶会の噂の……」
「あ、テト?」
パティが、蓋を開けた。
俺は、仕方なく、顔を出した。光が眩しい。
「パティの、ネコチャン。……いえ」
パティは、誇らしげに言い直した。
「わたくしの、テトですわ」
「…………」
マーガレットは、俺を見た。
俺は、マーガレットを見た。
真剣な目だった。値札と品質を見比べる時と同じ、審議の目。
「……まあ」
小さな、声。
「……なんて、綺麗な、目」
(……おや)
「……あの、失礼ですけれど。……撫でても、よろしいかしら」
「いいよー」
「では」
おずおずと、指が伸びた。
頭の上に、触れる。一撫で。
「…………ぁ」
その声が、驚くほど、緩んだ。
生真面目の装甲が、猫の毛並みに、一発で抜かれる音だった。
「…………す、すごい。なんですの、この……この、やわらかさは」
「でしょー!」
パティが、胸を張った。
マーガレットは、もう一撫で、それから、我に返って手を引っ込めた。耳が、少し赤かった。
「……失礼、いたしました。……本日は、ありがとうございました、パトリシア様」
「うん。また、買い物、いっしょにしよ」
「……ええ。また」
マーガレットは、完璧なお辞儀で去っていった。
背中は、相変わらず、真っ直ぐだった。
だが、歩き去るその背中が、二度、振り返った。
一度目は、パティを。
二度目は、俺を。
(……さあて)
ヴィアルバーグ侯爵家・次女。
所感:生真面目。几帳面。目利き。怒りを飲み込める。猫に弱い。
……最後の項目が、この家にとって、一番の好材料かもしれない。
第一印象は、最悪に近い。
パティの「まあ、そうね」は、あの子には「傲慢」に映ったはずだ。
だが。
あの子は、怒りながら、それでも、パティに対して、真摯に向き合っていた。
(……いい出会いだ。……悪い出会い方をした、いい出会いだ)
「テト。今日、楽しかったね」
「にゃ」
「あの子、なんか、パティと違うね。……かたいの」
「にゃあ」
(硬いのではない。まっすぐなのだ。……お前と同じくらい、まっすぐな)
「また、会いたいな」
「にゃ」
馬車の窓の外を、王都の石畳が流れていく。
午後の日差しの中で、貴族街の屋根が、静かに光っていた。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“今日、パティは街に出た。護衛つきで、買い物に。
ヴィアルバーグ侯爵家の次女と、接触したらしい。
侯爵家の次女といえば、あの、『歩く校則』と陰で呼ばれる子だ。噂では、お茶会での立ち居振る舞いが完璧すぎて、逆に年長者を怯ませるらしい。
……その子が、パティと接触した。
心配だ。心配なのだが。
報告によれば、二十分後には、一緒にレースを選んでいたという。
……なぜだ。なぜ、そうなる。 この家の人間と獣は、接触した相手を、二十分で何かに変えてしまうのか。
追記:ヴィアルバーグの次女が、テトを撫でたらしい。……撫でた、か。
……いいな”




